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今週の説教 

日本キリスト教会広島長束教会

私たちの国籍は天にある 

詩編8:2~10、フィリピ3:20~21 

2021.4.11

人生の失敗から学ぶ

☆ 人間の一生はたくさんの失敗でいっぱいです。あの時こうしていればこうはならなかったと思うことがあります。その時点での状況判断を間違ったためにお金をもうけ損なったとか、人と人の関係をつなぐ良い機会を逃したと思って、じだんだを踏むのです。これらはすべて自分の利益と直結した失敗です。

​☆ しかし、これよりもっと重大な失敗があります。あの時もっと勇気をもって行動すべきだったとか、この人を真剣に愛すべきだったというような失敗です。目前の利益のために自分が正しいと信じることを投げ捨ててしまったことで、何年たっても良心がいたむ、そんなことが人生には多いのではないでしょうか。大切な時に神様のことを脇に置いて自分の思いだけで行動するから、一生後悔するような結果になってしまうのです。

 

☆ でも、過ちを犯さない人生などありません。大事なことは、過ちを心の底に押し殺してさらに不幸な人生を歩むのではなく、過ちに気づいたら、すぐに神様に向かって謝り、心から悔い改めることです。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(イエス・キリスト)。

 

☆ 神様を信じることによって、本当の幸せをつかんでみませんか。教会は、すべての人に開かれています。

 

日本キリスト教会広島長束教会

〒731-0135

 広島市安佐南区長束3丁目-32-16
TEL・FAX 082-238-3459
         牧師 井上 豊

​■先週の説教は過去説教一覧no1にあります。

​■井上豊牧師が本を出しました!【高校生たち 安保闘争のなかの】2019 8.2

完売しましたがこの度、作者が電子書籍として出版し500円で購入できるようになりました。

北海道新聞に掲載されました!2020.6.7

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日本キリスト教会広島長束教会紹介

歴史

1962年、大会伝道地として平田正夫牧師により、実弟の平田虎雄宅で伝道開始。

1964年、手島欣二郎が牧師に就任。南観音町の借家を伝道所とした。

1969年、中家 誠が牧師に就任。YMCA保育園を礼拝所とするが、 以後各地を転々とする。

1978年、この年の7月,長束の現在地に会堂が建てられた。

1981年、5月31日、広島長束伝道教会が建設された。

1989年、権藤国光が牧師に就任した。

1993年、5月に田代忠男が牧師に就任した。

2000年、田代忠男牧師の病気辞任に伴い、4月より翌年の3月迄、千谷裕子伝道師の応援を受けた。

2001年、9月に三輪恭嗣が牧師に就任。

2009年、井上 豊が牧師に就任し現在にいたる。

集会案内

教会はイエスに出会って救いを求める者たちが集まり、神様に礼拝をささげるところです。礼拝はどなたがいらっしゃっても良いのです。日曜日の礼拝が教会の働きの中心です。

私たちはそこで神の言葉を聞き、そこから世の中に送り出され、その中で力いっぱい生きてゆくのです。

どうぞ礼拝においで下さい。

なお教会は礼拝の他にも集会を行っています。

こちらの方にもどうぞご自由にご参加下さい。

​日本キリスト教会広島長束教会

定期集会

・礼拝   毎日曜日午前10時30分

・日曜学校 毎日曜日午前9時30分

・祈り会  毎水曜日午前10時30分

・祈り会  毎水曜日午後7時30分

              

この他,婦人会,青年会,聖書講座,ピクニック,クリスマスの行事など随時行っております。

2021 年 度 教 会 行 事 予 定

1月31日  ・・・2021年度定期総会

3月17日     ・・・第70回近畿中会
4月  4日     ・・・イースター家族礼拝
 4月11日   ・・・ 召天者記念礼拝墓前礼拝
5月23日     ・・・ペンテコステ家族礼拝
         ピクニック 家庭集会
         あじさいコンサート                         
6月             ・・・全体学習会 
8月1日       ・・・世界の教会を覚える日
8月 4,5日   ・・・中国地区日曜学校夏期学校
10月20,21,22日・ 第71回日本キリスト教会大会
                                ピクニック
                                 オープンチャーチ(伝道礼拝)
11月       ・・・とうべい祭り オ-プンチャーチ
12月11日    ・・・子供クリスマス会
12月19日    ・・・クリスマス家族礼拝 

私たちの国籍は天にある 

詩編8:2~10、フィリピ3:20~21 

2021.4.11

 

昨年の今ごろは、新型コロナウィルスの感染拡大のために礼拝が8回にわたって中止を余儀なくされ、召天者記念礼拝も出来ませんでした。今年、ウィルス感染とたたかいながらも、召天者記念礼拝を2年ぶりに行うことが出来たことを感謝しております。

 広島長束教会で召天者として記録されている人は29名を数えます。召天者名簿には日野美枝子さんや佐野清美さん、倉重結兜くんのように皆さんの記憶に新しい方がおられ、この方たちのありし日の姿は、まるで昨日のことのように思い出すことが出来ることと思います。一方、名簿を昔にたどってゆくと、この人は誰でしょうと思ってしまうような方もおられます。広島長束教会の歴史が始まったのは1964年、教会の57年の歴史の中では当然、知る人も少なくなった方が出て来るわけですが、そこには一人ひとり、かけがえのない人生がありました。

 広島長束教会の召天者たちと今ここに生きている私たちとはつながっています。なぜならこの方たちも私たちも、共に、この教会を通して信仰を与えられた者たちだからです。…さらにもう一つ確かなことがあります。いつのことになるかわかりませんが、やがては私たちの名前も、召天者の名前の中に書き加えられるだろうということです。

 かりに私たちが召天者のことを忘れ、心にかけることをしないなら、今を生きることにどれほど一生懸命であろうとも、よりよい未来を切り開いていくことは出来ないでしょう。というのは、召天者たち一人ひとりの人生は、キリスト教2000年の歴史の積み重ねの上にあるからで、もしも私たちがその後に続くことがなければ、私たちの信仰も私たちの人生も振り出しに戻ってしまうからです。召天者をしのぶ時、そこには私たちが習うべきことだけではなく、反面教材とすべきこともあるかもしれませんが、それらすべてを含めてこの人たちの信仰の人生こそ広島長束教会の財産です。それは、これからも私たちを導いていってくれるにちがいありません。

 

 聖書は人間の生と死について何を教えているでしょうか。

 むかしパウロの手紙がフィリピの教会で初めて読み上げられた時、その場にいた人たちは「私たちの本国は天にあります」という言葉にたいへん驚いたのではないでしょうか。それまで全く聞いたことがなく、考えたこともなかった教えだからです。

フィリピというのは今のギリシアにあって、ローマ帝国の植民都市でありました。この時代は、地中海を囲む広大な世界がローマ帝国の領土だったのですが、ローマに征服された地域の人々に対して、ふつう、ローマの市民権は与えられません。しかしフィリピの人々はローマから移住してきたので、ローマの市民権を持っていました。そのため、周囲を異民族に囲まれていても自分たちの本国はローマ帝国であるということを心の誇りにしていたのです。ところがパウロは、私もあなたがたも本国は天なのですと言って、ローマの市民権を瞬時に飛び越えてしまったのですから、これはびっくりするのが当然です。

 日本にも似たようなことがありました。江戸時代の一般の人々は、自分はなになに藩の人間だという思いが強かったと言われており、幕末から明治にかけてやっと、自分たちは日本人だという意識を持つようになったそうです。もっともそのあとの時代に、日本人は自分の国を世界に冠たる神の国だと思い込み、悲惨な戦争に突入してしまいました。…自分の国、自分の国と言っている時、ナショナリズムが昂じて戦争にまでなってしまうことがよく起こりますが、こんな世界に新鮮な驚きを与えたのが宇宙船から撮影した地球の写真です。人と人、国と国は互いに争っているけれど、宇宙から見たらみんな同じ地球市民ではないかということを、その写真は教えてくれたのです。…しかしながらパウロの言葉はそのことすら飛び越えています。私たちの本国はローマ帝国でも日本でもない、世界市民と言ってもまだ足りない、それ以上のことです。本国は天にある、これほどスケールの大きな教えにとまどわないでいられましょうか。

 

 「わたしたちの本国は天にあります」という言葉は、口語訳聖書では「わたしたちの国籍は天にある」となっていて、この礼拝説教のタイトルにしました。

 今日はまず、天とはどこにあるのかということから考えてゆきましょう。昔の人は天は空の上とか、宇宙のかなたにあるとかいろいろ想像していました。今日、人類は宇宙を調べつくしたわけではもちろんないのですが、いくらロケットで宇宙をかけめぐろうとも、そんな方法で天にたどりつくのは不可能であるということは誰もが認めるところだろうと思います。

 使徒言行録の初めにはイエス・キリストの昇天の記事があり、「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられた」と書いてありますが(使徒1:9~10)、これはイエス様が空中を昇っていったのだと決める必要はありません。もしかしたら、目の前で消えてしまわれたということかもしれません。天とは、地に対し、別の次元の世界ですから、そこがどこなのか人間の頭で考え出せるものではないのです。

 むしろ、主イエスのこちらの言葉に注目しましょう。イエス様は最後の晩餐の席でこう言われています。ヨハネ福音書14章2節、「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」。…あなたがたを迎え入れるための場所を用意しに行く。その用意が出来たならば、また来てあなたがたを迎えよう、そのようにイエス様がおっしゃって下さった場所が天なのです。そこは父なる神がイエス様と共におられる世界でありまして、科学技術をもってしてではなく、信仰において見出してゆくべき世界なのです。

 私はもちろん天にのぼってそこを見てきたことはなく、聖書に書いてあることも解釈が難しく、これだけは確かだとわかっていることしか言うことが出来ませんが、まず言えることは、召天者の方々は天に国籍がある者としてその人生を歩まれたということです。そのことを本人が自覚していても、またそうでなかったとしてもいいのです。その人がイエス様を救い主と認め、洗礼を受けたということは、神様がその人を救いのみ手の中に置き、順境の時も逆境の時も導いてゆかれ、そうしてこの世の務めを終えた時に本国である天に迎えて下さったということにほかなりません。

 このことは、召天者の方々のあとにこうして残された私たちにとっても慰めになります。もしも私たちの愛する人が、死んで全くの無になってしまったり、そうならなかったとしても魂がどこかをさまよっているままのように思えたとしたら、私たちはとても落ち着いていられません。召天者の方たちはいま天で、神様のみもとで生きています。だから私たちの中にも生きているのです。 

 もう一つ言えること、それは私たち、いまこの地上で生きている者と、すでに死の眠りについた者の間に、決定的な断絶があるわけではないということです。よく、人が死ぬと「あの人は天国に旅立った」などという言い方がなされます。ここでも召天者という呼び方がなされていますが、もしもそこで、天が死者の国になってしまったとすれば誤解を正さなければなりません。今日ここで名前があがっている私たちの愛する人々は今、頭に三角ずきんをかぶっているのではなく、神様のみもとで生きているのです。一度たしかに死んだのですが、それは終わりではなく、永遠の命を与えられて生きているのです。だから天は死者の国ではありません。…そうして神は、あとに残された私たちに、この方々に倣って、自分の本国である天に向かって人生の歩むをなすよう、求めておられるのです。

イエス・キリストは神という身分にあるにもかかわらず、天から地に降って人となり、この世でふつうの人々と共に生き、最後に十字架という究極の苦しみの中で死なれましたが、それは罪人(つみびと)が受けるはずの神の怒りを身代わりとなって受けたことでありました。それは罪と死に対する勝利であったのです。父なる神はイエス様をすべて神を信じる人々の先駆けとして復活させました。いまイエス様は天におられ、その場所から、教会を通して世界を治めておられます。

 パウロは、主イエスによって行われたこの驚くべき出来事を踏まえた上で語っています。「キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。」

これは常識ではとても理解しがたいことですが、パウロは主イエスの導きの中で語っています。ここで卑しい体というのは醜い肉体という意味ではありません。朽ちて、滅びてゆくしかない人間のことで、これがキリストの栄光ある体に変えられてゆくと言っているのです。この言葉のヒントになることが第一コリント書15章にあります。35節、「しかし、死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません」、ここから42節に飛びます、「死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときには卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。」

召天者たちにとって、死とは新しい世界への旅立ちであったのです。

福音書にはイエス・キリストの変貌という話があります。イエス様が三人の弟子と共に山に登りました。すると弟子たちの前でイエス様の姿が変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなったというのです。それはキリストの栄光の姿を示すものでありますが、「わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださる」という言葉から、神のみ手の中で死んだ人に対する約束であるとみなすことができます。

ただイエス・キリストの変貌の話にはこの続きがあります。

至福の時はまもなく終わり、弟子たちはイエス様と共に再び山をおりなければならず、そのあと彼らは、イエス様の、この時とはまるで反対の、十字架という無残なお姿を見させられましたし、その後も幾多の苦難を体験することになりました。死という新しい世界への旅立ちの前、道は曲がりくねっているのです。

ですから人がすんなりと、死んで天に迎えられることはめったにありません。ご高齢の方やつらい人生を送っている方の中で、早く死んで天国に行きたいと言われる人があります。もしかしたら、ここにもそれに近い方がおられるかもしれませんが、皆さんについて言うなら、神様は、あなたにはまだまだ長く生きてもらいたいということで、簡単には死なせてくれないと思います。

「あなたがたの本国は天にあります」という言葉は、いまここに生きている皆さんのために言われた言葉でもあります。召天者の方々と共にこのことを信じて歩む人の人生は、たとえどんなに大変なことがあったとしても、失われることのない人生、救いの中にある人生です。イエス・キリストによって天に属する者とされ、天のふるさとに導かれてゆく人生だからです。

 

(祈り)

 世界の創り主であり、すべてのものを支配したもう全能の父なる神様。あなたが大いなる愛をもって、私どもを導いてくださいますことを感謝し、み名を賛美いたします。

 いま私たちは召天者を記念する礼拝にあって、私たちに先立ってゆかれた愛する亡き人々のことを思い、悲しみをおさえることが出来ません。しかしながら、神様が召天者の方々を、母の胎にいた時から生涯を通じて導かれ、死において天に召され、新しい命を与えて下さったことを、大いなる感謝の内に信じております。

 神様、どうか召天者を記念するこの場所で私たちの心の目を開き、神様の愛をさらにはっきりと見せて下さい。そして、神様を信じて生き、死んでもなおみもとで生きておられる召天者たちと同じ恵みを、私たちにも与えて下さい。私たちは、生と死を通して働かれる神様の偉大な力をたたえる者たちだからです。

 主イエス・キリストのみ名によって、この祈りをお捧げします。アーメン

讃美歌284
犯罪人は救われる2015年7月5日説教 - 井上 豊牧師
00:00 / 00:00

讃美歌453

いつくしみ深きJazzversion - 久保りのpf池田聡b
00:00 / 00:00

讃美歌333番 

広島長束教会十字架cross
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