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とうべい祭り 2019.11.16

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あじさいコンサート2019.06.30

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大城姉妹宅で家庭集会が開かれました。2019.05.08

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クリスマス祝会 2018.12.23  

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敬老の集い 2018.09.16

広島長束教会
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あじさいコンサート 2018.06.24

家庭集会 2018.05.09

日本キリスト教会広島長束教会
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沖田長老作品

日本キリスト教会広島長束教会

 墓前礼拝 2018.04.15

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イースター家族礼拝&祝会 2018.04.01

日本キリスト教会広島長束教会
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2017年12月24日クリスマス祝会

日本キリスト教会広島長束教会

11月18日(土)とうべい祭りでは、近所の子どもたちが教会に足を運び、思いにまさる盛況でした。クリスマスカード作りで、用意していた材料が足りなくなるほどでした。参加者は教会員以外が大人が36名、子どもが59名でした。

日本キリスト教会広島長束教会
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9月23日、教会で結婚式がありました。

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第8回あじさいコンサート広島長束教会2017.6.18

​エストレリータ

第8回あじさいコンサート広島長束教会2017.6.18

パッヘルベルのカノン

第8回あじさいコンサート

多くの方が来られました。共に素敵な音に酔いしれ

心地よい楽しい一日となりました。

日本キリスト教会広島長束教会
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2017年5月14日召天者記念礼拝後、墓前礼拝、

故小林幸子(ゆきこ)の納骨式が行われました。

日本キリスト教会広島長束教会
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2017年5月10日山本長老宅で家庭集会が開かれました。

素敵なガーデニングに癒されながら恵まれた一日となりました。

日本キリスト教会広島長束教会
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鳥居忠五郎

賛美の人生              

これは2016年12月25日のクリスマス家族礼拝で上演した紙芝居です。

                                                                                        沖田泰弘 

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賛美歌119番は、日本人が作詞、作曲したクリスマスの歌です。これは作曲した鳥居(旧姓 山本)忠五郎さんの物語です。

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牧師のおとうさんは、理想のクリスチャンの村をつくるため、有志と北の遠軽の開拓村に移住しました。毎年、北海道中会へ参加するため、鉄道のある旭川まで100キロの山道を、熊よけに賛美歌を歌いながら歩きつづけました。

忠五郎少年には難病の妹がいました。妹のために祈ることで、少年の信仰は鍛えられていきました。

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東京の兄夫婦の家から明治学院の中等部に通っていましたが、経済的一点張りで、食事は粗末で、雑用も多く、少年はガリガリにやせました。日曜日、10数キロ離れた教会へ賛美歌を歌いながら歩いて通うことだけが楽しみでした。少年の体を心配した教会員が連絡し、おとうさんは学校の寮に移しました。腹いっぱい食事でき、放課後もオルガンですきな音楽の勉強もでき、7か月で15キロ体重がもどりました。

日本キリスト教会広島長束教会
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元気になった少年は10年ぶりにおとうさんに会いにいきました。鉄道はすこし伸びていましたが、それでも42キロは歩かなければなりません。熊よけに賛美歌を大声で歌いながら歩いていると、反対側からおとうさんも大声で賛美歌を歌いながら迎えにきました。

札幌の教会に、鳥居キチさんという信仰のあついすぐれた産婆さんがいて、みんなから尊敬されていました。忠五郎さんが高等部と神学部をおえたあと、さらに音楽の勉強をするため東京音楽学校に進む準備をしていた8月、鳥居さんの家名と信仰を引き継いでほしいという話がありました。神さまと相談していたが、クリスマスに天から「受けよ」という返事をもらい、鳥居忠五郎となりました。

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音楽学校卒業後は、青山師範で教えながら、教会の奏楽と聖歌隊の指揮をしていたが、1940年、賛美歌再編纂のとき、依頼がありました。「羊は眠れり」には外国の曲がつけられていたが、日本人の詩には日本人の曲を、ということになったのです。歩きまわりながら神さまの指示をまっていると、出だしのメロディーが示されました。あとはオルガンのまえで曲を完成させました。忠五郎さんの曲は、賛美歌集に5曲、2編に1曲、こども賛美歌集に1曲のっています。人生の谷間も賛美しながら進み、人生の谷間を歩くひとのために賛美の歌を用意した鳥居忠五郎さんでした。            

教 会 の 宝 物

~小児洗礼を受けた子どもたち~

 

渡部 牧子

 

2016年、4人の子どもたちの小児洗礼式が行われました。神様に感謝いたします!

一人一人、神様に育まれて成長真っ只中です。子どもたちはどんどん成長し変わっていきます。今しかないかわいらしさ、魅力を感じながら、信仰が与えられ、神様と共に歩む幸せな人生を、と祈り続けたいと思います。

日本キリスト教会広島長束教会
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 井上暁くん(11歳)

 

長束小学校5年生

≪一番好きなこと≫ 

鉄道模型で遊ぶこと

≪今までで一番うれしかったこと≫ 

クリスマスにサンタさんから

鉄道模型をもらったこと

 やさしくて頼りになる暁くん。

サッカー、ピアノもがんばってい

ます。漢字も得意です。

井上慧子ちゃん(8歳)

 

長束小学校2年生

≪一番好きなこと≫ 縄跳び

≪今までで一番うれしかったこと≫ 

ウサギのミミ君をもらったこと

恥ずかしがり屋さんでもあり、

おちゃめなところもあります。

元気いっぱいです。

桑子幸大くん(4歳)

 

サムエル薬師ヶ丘こども園 年少組

≪好きな遊び≫ 

ロンディ(ドイツのおもちゃのブロック) 幸大くんは、もっと小さい頃から、お祈りのあと大きな声で「アーメン」が言えました。やさしくて、みんなにお菓子を配ってくれたりします。

桑子夏綺ちゃん(1歳)

 

≪好きな遊び≫ 公園での散歩

 

そこにいるだけでかわいらしい

夏綺ちゃん。

元気に走ったり、泣いたり…

笑顔が出るとうれしくなります。

教会員小川良江さんを訪問 2016.11.25  

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第7回あじさいコンサート 2016:7:10

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SSピクニック兼家庭集会 渡部さん宅 2015.10.24 

日本キリスト教会広島長束教会

家庭集会

                                                                   2016/05/18

 

長老のお宅で祈り会を行いました。お昼から持ち寄りの美味しい食事を皆で頂きいつものようにお葉書に言葉を据えました。とても楽しいひと時でした。感謝です!

日本キリスト教会広島長束教会

           祈り会

毎週水曜日10時30分より祈り会を行っています。心を込め祈り合い、温かな交わりは素晴らしい感謝の一時です。日本キリスト教会家庭礼拝暦より牧師が奨励して下さいます。礼拝に匹敵するほどの恵みを頂いています。月に一回信徒が順番に奨励します。信仰が高められます。
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     婦人会
3週目の祈り会の後、お食事をして多くの方々に牧師の言葉を中心にお葉書を書いています。

心のこもったお便りに感銘を受け信仰と愛が増し,とても恵まれています。
 

日本キリスト教会広島長束教会

祈り会

ガラテヤの信徒への手紙 3章1~5節 2016/05/11

 

ガラテヤの信徒への手紙は、ここから本題に入ります。「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか」、これは激しい言い方ですが、私たちはここにパウロの怒りや嘆きを見ることが出来ます。ガラテヤの人たちがパウロの宣教活動によって福音に接し、イエス様こそがすべての人間にとっての救い主であるという信仰に目覚めさせられたのは、はっきりした年代はわかりませんが、ついこの前のことでした。それなのに彼らは短い期間の間に、正しい信仰のあり方からずれてしまってユダヤ教に戻って行く、すなわち律法を守ることこそが救いの道だという以前の教えになびいてしまっている、そのことへの怒りと嘆きがここにあるのです。 初代教会の時代、律法主義とこれに反対する福音というのは、たいへんに大きな問題でした。日本にはもともと律法主義というものがないので、パウロがなぜこれに反対したのかということについて、なかなか理解できないところがあります。そのため、聖書を読んでいて、観念的に思えてくることがあります。しかしこの問題は、深いところで全人類共通の問題なのです。私たちも想像力を働かせて、こうした問題に分け入って行きたいと思います。 ここで「物分かりが悪い」というのは、知的レベルが低いということではありません。霊的なことがらにおいて理解が乏しく、正しい判断が出来ないということを言っています。「目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。」…それなのになぜ、愚かな人たちよ、ということです。 パウロはこれに続けて、ガラテヤの人たちに6つの問いかけを投げかけています。 第一が、だれがあなたがたを惑わしたのか。 第二が、あなたがたが“霊”を受けたのは、律法を行ったからですか、それとも、福音を聞いて信じたからですか。 第三が、あなたがたは、それほど物分かりが悪いのか、ということ。 第四が、“霊”によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのか。 第五が、あれだけのことを体験したのは、無駄だったのですか。  第六は、あなたがたに“霊”を授け、また、あなたがたの間で奇跡を行われる方は、あなたがたが律法を守ったから、そうなさるのでしょうか。それとも、あなたがた福音を聞いて信じたからですか。―――パウロは、質問をしながら、その答えはすべてわかっていたでしょう。しかし、あえて問いかけることで、ガラテヤの人たちが自分をかえりみるように仕向けているのだと思います。 6つの問いの中から、いくつかをしぼって考えてみましょう。 まず、「だれがあなたがたを惑わしたのか」ということです。パウロはこう言うことによって、ガラテヤの人々が、自分たちはいったいどこから変わってしまったのか、と考えさせようとしています。初めパウロがガラテヤで伝道した時、イエス様をキリストとして、救い主として信じる信仰こそが、その人を罪から救うことを伝えてゆきました。信仰によってのみ、人は救われるのです。ガラテヤの人たちは、これを聞いて信じました。しかし今、その信仰から離れて、やっぱり自分たちの力によって律法を守らなければならない、自分たちの力によってきちんとした、秩序正しい生活をすることによって神のみ前で救いを獲得することが出来るのだ、というふうに変わっていったのです。 家庭礼拝暦も書いています。「ところが、あとからユダヤ主義の人々が教会に入ってきて、キリストの福音だけではなく、その上に割礼などを補う必要性を熱心に語りかけ、ガラテヤの教会の人々を惑わしたのです。人々はその説くところに人間的な確証を見出したかったのでしょう。しかし、それは人の力による救いです。」 人々を惑わす者たちが強調する「自分の力」などとは異なって、パウロが告げ知らせたのは、十字架につけられたイエス・キリストでした。かりに、自分の力で救いを獲得できるのであればキリストが十字架にかかって下さる必要はありません。十字架にかけられたキリストは飾りのようなものでしかありません。そのような信仰を持っている人がいくら立派なことをなしとげたとしても、それは神様には届きません。結局は、ファリサイ派や律法学者に見られるような、ひずんだ信仰を生み出してしまいます。救いからはずれたと見なされた人に対する侮蔑、特定の人間をほめたたえる誤りといったことになり、行き着くところはイエス様をもう一度十字架にかけるに等しいことになるのです。 パウロがガラテヤで、十字架につけられたキリストを宣べ伝えた時、それを受け入れた人たちがイエス様を救い主と信じ、洗礼を受け、信仰者として新しく生まれかわりました。神から人に与えられたこのことをパウロは「霊を受けた」と言います。人が信仰を与えられるのは、その人の力がなしとげたものではありません。聖霊が心の目を開かなければ、これは起こり得ないことです。その意味で、信仰は神からいただく賜物です。ロマ書10章17節は言います。「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」また第一コリント書12章3節も言います。「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」 聖霊というのはなかなかわかりません。自分は聖霊体験があるとか、聖霊を受けたら気持ちが昂揚するとか言う人がいると、そんな経験がない自分はだめなのかなと思ったりもします。しかし、そんな神秘的なことを体験してなくても全然かまわないのです。聖霊は、その人が感じたり、感じなかったということで、存在したりしなかったりするのではありません。人が信仰を与えられること、それは聖霊の働きによって起こるのです。だからガラテヤの人たちと同様、私たちもみな「霊を受けた」のです。 ガラテヤの人たちは、彼らが立派な行いをすることで信仰に至ったのではありません。功績が認められた結果、霊を受けたのではありません。心を砕かれ、キリストの言葉となさったことを信じて受け入れた時、聖霊が働いて信仰を持つようになったのです。ですから彼らが霊を受けたのは律法を行ったからではなく、福音を聞いて信じたからです。聖霊を受けることと信仰が与えられることは、同時に起こるのです。 ガリラヤの人々の信仰は聖霊の導きと共に始まりました。それが「“霊”によって始めた」ということです。こうして始められたことは、最後まで聖霊の導きの中で続けられなければなりません。しかし、その結果は「肉によって仕上げようとする」ものになってしまいました。具体的には、多数ある律法の厳格で形ばかりの順守、儀式の必要以上の尊重、割礼を推し進めること、です。こうしたことをすることによって「神様、私はこれだけのことをしているのですから、救われることは間違いないですね」としか言わない信仰になっていたのです。 もちろんパウロとしても、信仰者が良いことを何もしないで、ただイエス様を信じていればよいなどとは言いません。イエス様に向かって「主よ、主よ」と呼ぶだけでなくて、神のみこころを行う者とならなければなりません。しかし、そのことは私たちの救いの前提条件ではありません。救われた者が喜びと感謝の中でおのずから行ってゆくだろうことなのです。 ガリラヤの教会が陥った状況というのは世界中、どこの教会、どこの信仰者にも起こりうることなのです。いっけんもっともらしい教えにひっぱりこまれて、教会に、生気のない、ひからびた、死に至る病が増殖するようであってはなりません。私たちも聖霊の導きのもと、自分たちではなく、イエス・キリストをこそ見続けなけければなりません。そこに生き生きとした、常に改革され、新しくされていく信仰者と教会があるのです。

広島長束教会十字架cross
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