top of page

一番大事なことはなに?―あなたに伝えたいこと―youtube

ルカ19:1~10 2017.11.19

 

今日は、ザアカイという不幸せな人がどのようにして幸せをつかみとったか、というお話をいたします。

ザアカイは、今からおよそ2000年の昔、エルサレムの北東24キロのところにあるエリコという町に住んでいた人です。エリコは重要な町で交通の要衝にあり、税関がありました。ザアカイは、徴税人の頭で金持ちでありました。今で言えば税務署長です。…現代では「税務署で仕事しています」なんて言ったら、「良いお仕事ですね」と言われるでしょう。税金に関する仕事をする人は社会から尊敬を受けていますが、昔はそうではありません。ザアカイのいたユダヤはローマ帝国という超大国の支配下にあって、ユダヤ人は独立を求めていたもののその願いはかなわぬままでした。ザアカイたちは同胞であるユダヤ人から税金を集め、それをローマ帝国におさめる仕事をしていたのです。

ローマ帝国は、税を集める仕事を直接自分たちではやらないで、その土地の人間を使っておこなっていたのですが、これをユダヤ人の側から見ると、徴税人はにっくき敵のローマの手先となって、自分たちが汗水たらして蓄えた大切なお金を取り立てているように見えるので、けしからん奴だと思われていました。…また徴税人への反感を裏付けるような事実もあったのです。例えて言うなら、ローマから10万円取り立てるように言われた時に12万円、あるいは15万円を取り立てて、差額を自分のものにする、こうして自分の資産を増やしてゆき、それをローマの方でも黙認するということがありました。そのために、徴税人は強欲な人間だと思われていました。

この当時、人々から嫌われ、後ろ指をさされる人たちの筆頭に徴税人がいました。もっとも、それだけならまだ良いのです。さらに大きな問題がありました。彼らはユダヤ人でありながらユダヤ人とはみなされません、悪い言葉を使いますが非国民という扱いです。そして神様の恵みにあずかれない者たちだともみなされていました。7節で、人々から罪深い男だと言われている通りです。…そうしたことが当人たちをどんなに傷つけたか、言うまでもありません。

しかしザアカイがそのような境遇になったのは、なにも彼が初めからそうなることを願っていたということではないのです。心ならずもそのようなことになってしまったのだと思います。だいたいザアカイという名前は「ただしい人」、「純な人」という意味があります。両親は、彼の生涯が清く正しいものであるよう願ってそう名付けたのでしょう。しかし、彼はその願いとはちがう人生を歩んでしまいました。…いまザアカイは徴税人の頭としてかなりの財産はあります。しかし、心の中は空しいばかりだったのでしょう。

税金の不正な取り立てにも手を染めていたようです。本当の友だちもなく、その心に平安はありませんでした。

ザアカイは自分のしていることに対して、うしろめたさや心の痛みを持っていたはずです。…このザアカイのことを皆さんと一緒にしてしまうのは気がひけますが、我慢して聞いて下さい。少しでも世の中で働いた経験のある方なら、多かれ少なかれ不本意な生き方を余儀なくされたということがあると思います。つまり、自分はそうしたくはないのに、どうしてもそうするしかなかったということがあるのです。その中には、自分の良心に反し、悪いとわかっていることでもしなければならないということもあるでしょう。…ある大きな会社の役員の方が教会で証しをしたとき「我々は社会の中で泥沼をはいまわるような生き方をしている」と言われました。泥沼とは何なのか、具体的な話はなかったのですが、そこに、生きるためには不本意なことでもしなければならないということがあるのは間違いないでしょう。…もちろん社会の中で、素晴らしい人との出会いもあれば、心に残る感動的な出来事もありますが。ザアカイほど悲惨な状況ではないにしても、自分は良心に恥じない生き方をしてきたと胸をはって言い切ることのできる人がどれほどいるでしょうか。特に金持ちであればあるほど、また社会的地位が高ければ高いほど、その懸念がつきまとうのです。

さてザアカイは、イエス様がどんな人か見ようとしました。…その頃イエス様は有名人になっておられました。たくさんの病人の病気を癒し、力強い説教をされ、貧しい人や苦しい人の味方になったことで評判が国中に広がっていたのです。…しかしザアカイは背が低かったので、群衆に遮られて見ることができません。そこで、イエス様を見るために走って先回りし、いちじく桑の木に登りました。…いちじく桑というのは、いちじくと同じくクワ科に属する木ですが、果実はいちじくほどおいしくありません。幹が太く、枝が低い所から出ているので、登ってゆくには好都合でした。…ザアカイが、ここでもしもイエス様の教えを聞いてみたいという積極的な気持ちを持っていたならば、道の先の方で待っているという方法もあったでしょうが、彼はそうしようとはしません。そんなところが、全部が全部とは申しませんが私たちと似ているかもしれませんね。偉い人が来ると聞いて興味がわいても、自分の方から積極的に関わってゆくことはためらわれます。自分なんかとても相手にされないだろうと思っているのか、最初から身を引いているのです。しかし憧れと言うか心引かれるものがあって、ひと目だけでも見ておきたい、そんな気持ちです。

ザアカイは人々にまぎれて木に登り、イエス様を見つめました。すると、下を通りがかったイエス様が、思いがけなくも上を見上げて「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と声をかけたのです。   

ザアカイはたいへんに驚き、また喜びました。…ザアカイが驚いたのは、イエス様が自分の名前を知っていたことです。なぜそんなことが出来るのか、その理由は聖書に何も書いていないのでわかりませんが。…喜んだのは、イエス様が自分のような、世間でまともな人間とは思われていない者に声をかけて下さったことです。…「今日はぜひあなたの家に泊まりたい」、こう呼びかけて下さるイエスという方の中に、ザアカイは全く新しい世界が開けてくるような感じを受けたのです。

 

人と人とが出会い、めぐり合う、そこに人生の深い味わいと喜びがあります。それは実際に経験してみるまではわかりません。それまで心の中で思い描いたものを超えているからです。ザアカイがいま経験しているのはそのような出会い、いやそれ以上の出会いです。ザアカイがイエス様と出会ったことの中に、聖書が語ろうとしている福音の世界そのものが凝縮されています。

こうしてイエス様はザアカイの家の客となりました。二人の間にどんな会話がかわされたのかわかりませんが、このあとザアカイは「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだましとっていたら、それを四倍にして返します」と言っています。……けちん坊のザアカイにとって財産の半分を施すということは勇気を必要とすることです。また、だまし取っていた財産を返すためには、自分の犯した罪に対する真剣な悔い改めがなくてはなりません。…それまで人々からつまはじきにされて、ただお金のためだけに生きていたザアカイが、そのお金を差し出すというのは大変なことで、これはザアカイの中で、イエス様と出会った喜びがどんなに大きかったかということを表しています。…ではその喜びの理由とは何だったのでしょう。

それはこのあとのイエスさまの言葉の中に現われています。「イエスは言われた。『きょう、救いがこの家を訪れた』」。……救いがザアカイの家に来たのです。

救いという言葉は、よく困難な状況からの助けという意味で使われます。お金のやりくりがどうにもうまくいかなくなった時に助けてくれる人が現れたり、病気で死にそうな時に的確な治療をしてもらってすっかり元気になったりすると、救われたと思います。…しかし、ザアカイに向って言われた救いとは、それらを超えた、もっと深いことであるのは間違いありません。

イエス様は「この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」と言われました。アブラハムとは誰か、その名を聞いて、ゲームを思い出した人がいるかもしれません。「アブラハムには七人の子、一人はのっぽであとはちび」という歌がありますが、アブラハムとはそもそも聖書に出てくる人で、神の民ユダヤ人の祖先として立てられた人です。「アブラハムの子」というのは、だから神様が選んだ民、ユダヤ人の一人であるということです。

ザアカイも神の民の一員なのだ、ほかの人たちと同じく神様の救いにあずかる権利を持った兄弟なのだ、……イエス様はザアカイを嫌われ者の徴税人としてではなく、罪深い男でもなく、神様の前における一人の人として見て下さっているのです。

ザアカイはそれまで、自分のような者は人々から毛嫌いされるばかりでなく、神様からもしりぞけられていると思っていました。しかし、そんな彼の前に現われたイエス様は、お前も神様の民の大切な一人なのだ、決して神様の前から行方知らずになったままでいい人ではないと言われます。イエス様からのこの呼びかけを、ザアカイは神様の呼びかけとして受け取りました。

 

私たちがいまいるところは教会です。教会はイエス様によって立てられました。イエス様から招かれ、イエス様に出会った者たちに本当の救いが与えられるところです。……私たちにとって、破産寸前だった会計状況が持ち直したり、病気が回復して死のふちから生還するのはありがたいことです。でも経済的に持ち直したとしてもまた何か起こるかもしれません。病気が回復して命をとりとめたとしても、人は永遠に生きることは出来ませんから、いつか必ず死ぬことになります。…しかしイエス様は永遠に変わりません。くずれてなくなってしまうということがないのです。イエス様の無限の人格と自分が向かい合う。誰よりも、何よりも偉大なイエス様から手をさし伸べられて、一人の人間として認められ、1対1の交わりをする中で、救いが与えられるという光栄を、人間は授かっているのです。

 

ある少女がいました。おとなしい、どちらかと言えば暗い性格だったのですが、ある出来事を契機にたいへん明るくなったといいます。それは、クラスメイトの少年から「好きです」と言われた時からでした。

ザアカイの場合、好きですと言ってくれた相手は異性以上の存在でありました。イエス様から手をさし伸べられて、ひとりの人間として、また友として認められる、それがこの日起こったことで、それはザアカイにとって、心の底からほとばしる喜びでありました。これが全財産の半分を貧しい人々に施すといったことにつながってゆきます。…ここにザアカイの魂に変革が起こっています。彼は大切なお金を手放してもかまわないほどのものを手に入れたのです。

このことは、ひとりザアカイばかりでなく、イエス様に出会ったすべての人が体験することなのです。

私たち人間が、世界の造り主であり、また私たちを創造し、私たちの人生を導いて下さる神が私たちに出会って下さったとき、救いへの道が開かれます。その時、それまで大事だと思っていたことが実はそれほどではなく、もっと大切なことがあるということに気がつくことでしょう。

…たとえば財産はむろん大切ですが、やがて過ぎ去って行くものがどうして永遠なる神にまさって大切だと言えるでしょう。皆さんが今ここに来ているのは、毎日の暮らしの中では満足できず、この世を越えた方に会うまでは決していやされない心の渇きを持っておられるからです。皆さんも、おそるおそるいちじく桑の木に上ったザアカイのように、この方をちょっとのぞいてみたいという思いだけだったかもしれません。遠くからでもその方に会ってみたいと……。しかし、そうした思いにまさる恵みがいま皆さんの前に差し出されているのです。

ヨハネによる福音書の14章8節と9節の言葉を紹介します。イエス様の弟子がある時、「主よ、私たちに御父をお示しください。そうすれば満足します」と言いました。御父とは神のことです。神様を見たい、会いたい、それは多くの人間の願いです。そうすれば満足できるでしょう。…このときイエス様は答えられました。「わたしを見た者は、父を見たのだ」。つまりイエス・キリストを見た者は、神を見たのです。

ですから、イエス様がザアカイを訪れたことは、神様の訪れでもあったのです。ザアカイはあんなにも喜び、人間として生まれ変わり、その喜びをさらに家族や多くの貧しい人々と分かち合うまでになりました。ザアカイに現われたイエス様はいま皆さんに、ご自分の招きに応えるように呼びかけておられます。皆さんは、どうなさいますか。

 

(祈り)

天にいます神様。あなたはザアカイをご自分のみもとに招いて、愛のお手本を示して下さり、それによってきょう私たちに大きな希望を与えて下さいました。神様を賛美します。あなたは、社会の中でどんなに疎んじられている人であっても、またどれほど自己評価が低い人であっても、同じ目と目の高さであいたいされます。自分をいやしめるなと言って下さいます。そしてお金にも何にも変えがたい、最も大切なことをして下さいます。私たちを救って下さるのです。

神様、どうか私たち一人一人に、心の深いところで会って下さい。神様にそむくいじけた心を、神様の愛で清めて下さい。そのとき、私たちの心もザアカイのように、神様に向かって燃え上がるでしょう。

神様、今ここにいる一人ひとりをご覧下さい。この中には病気からの回復などさまざまな願いをもって集まっている人がいるでしょう。神様、どうかそうした願いをかえりみると共に、その人にもっとも必要な救いを与えて下さい。そうして、本当の幸せを与えて下さるようお願いいたします。

これらの願いと祈りを、とうとき主イエス・キリストのみ名によって、み前におささげします。アーメン。

  異邦人に聖霊が降るyoutube

ヨエル3:1~5、使徒10:44~48  2017.11.12

 

 私たちは、ペトロが異邦人コルネリウスのもとに出向き、神はどんな人をも分け隔てなさらないということをその目で見つつイエス・キリストを宣べ伝えたところを見てまいりましたが、その結果、何が起きたのかということを今日学びます。

 聖書は書いています。「ペトロがこれらのことをなおも話し続けていると、御言葉を聞いている一同の上に聖霊が降った。」

 聖書はそのことをさらに、聖霊の賜物が異邦人の上にも注がれたと書いています。その結果、異邦人が異言を話し、また神を賛美するようになったのです。それまでペトロの話を聞いていた人たちが次々に、大きな声で語り始めました。静かだった会場が、突然、神を賛美する声であふれかえるほどになったのです。

 これはペトロの説教がストップをかけられたということでしょうか。ペトロにとっては、素直には喜べないことだったでしょうか。…ペトロは、「おれはもっとしゃべりたかったのに、神様はなんで話させてくれんのか。みんなもみんなだ、なんでおれの話を最後まで聞かないんだ。」と思ったでしょうか。そうではありません。…この出来事は、ペトロの話は途中で打ち切っていい話だなどと教えているのではありません。ペトロが語った御言葉と天から来た聖霊が一つに結びついていることを示しているのです。…だからペトロは、神様を恨むどころか、かえって神様が自分の話を真実であると認めて下さったことを知って、かえって喜んだはずです。

 こうして、信仰の確信をさらに深めることとなったペトロは、コルネリウスたちに洗礼を授けます。「わたしたちと同様に聖霊を受けたこの人たちが、水でバプテスマを受けるのを、いったいだれが妨げることができますか。」これは、どんな敵対勢力であれ迫害であれ何であれ、神が御自らなそうとしてされていることを阻むことは出来ないのだという勝利宣言です。神をたたえる賛美の声の中で洗礼が行われたことでしょう。異邦人への洗礼は、キリスト教の世界的な拡大へと道を開くもので、その後の世界の歴史にたいへん大きな影響を与えた画期的な出来事でありました。

 

 ここでまず、バプテスマがどのような順序の中で行われるのかを考えてみたいと思います。…世界で初めて教会が誕生した、あのペンテコステの日に洗礼を受けた人たちのことを検証してみましょう。彼らはペトロが語ることを聞いて、自分たちが十字架につけて殺したイエス様を、神は主とし、またメシアとなさったことを教えられ、大いに心を打たれ、罪を悔い改めて洗礼を受けました。その数、三千人ほどでした。

では、この人たちは聖霊を受けたのでしょうか。ペトロはその説教の中でこう語っています。2勝38節、「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によってバプテスマを受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」

 この日から彼らの新しい生活が始まったのですが、その日洗礼を受けたあとで聖霊を受けたのでしょうか、そんなことは書いてありません。では聖霊を受けてはいなかったのでしょうか、そんなことはないだろうと思って調べていると、それらしいところが出てきました。いくらか日を置いてですが。4章23節以下に逮捕されたペトロとヨハネが釈放された時のことが書いてあり、2人を出迎えた人々が祈ります。31節を読んでみます。「祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした。」…おそらくここが、ペンテコステの日に洗礼を受けた人々に、約束の聖霊が降ったところです。

エルサレムの教会の最初の信徒たちの記録から判断すると、御言葉を聞く、バプテスマを受ける、聖霊が降るという順番になっています。そのあと8章にサマリア伝道の話がありますが、そこでも同じように御言葉を聞く、バプテスマを受ける、聖霊が降るという順番になっています。

ところが今日の箇所でコルネリウスたちは、御言葉を聞くところは同じですが、聖霊が降ってからバプテスマを受けています。御言葉を聞く、聖霊が降る、バプテスマを受ける、前の二つとは順番が違います。そこで、洗礼が先で聖霊があとなのか、それとも聖霊が先で洗礼があとなのか、と悩む人がいないとも限らないので申し上げます。…結論から言うと、聖霊はバプテスマに従属するものではありません。聖霊がいつ降ってくるかというのは聖霊の自由です。だからバプテスマの先になることも、あとになることもあるのですが、降ってこないということは考えられません。…肝心なことは御言葉と聖霊とバプテスマには切り離すことが出来ない結びつきがあるということです。御言葉なしの聖霊はなく、聖霊なしの御言葉もありません。信者は御言葉によってバプテスマへと導かれますが、そこに聖霊の働きが密接に関わっていることも確かなのです。

 

使徒言行録は、これを聖霊行伝と呼ぶ人もいるほど、聖霊の働きが詳しく書き綴られた書物です。聖霊は全くの自由の内に天から地上に降って行きました。そうして各地で信者を誕生させ、教会をつくっていったのですが、そのことをさらに具体的に見てゆきましょう。

ペンテコステの日、使徒たちを始めとして120人ほどの人たちが集まって祈っている時に聖霊が降りました。すると一同は、聖霊が語らせるままにほかの国々の言葉で話し始めました。その日に洗礼を受けた3000人ほどの人たちは、先ほどお話ししたように、それからいくぶん日を置いてからですが、聖霊を受けて「大胆に神の言葉を語りだした」ということです。

8章のサマリア伝道では、人々が聖霊を受けたとは書いてありますが、それが外に向かってどのように現れたかということは書いてありません

今日のところでは、異邦人が異言を話し、また神を賛美しています。ペトロと一緒にコルネリウスのところに来た何人かの人たちは、これを見て大いに驚きました。彼らはみな割礼を受けたユダヤ人で、自分たちは世界の中から神が選ばれた特別な民であるという強烈な自覚があったために、異邦人を偏見をもって見ていました。その異邦人が自分たちと同じく、いやもしかしたら自分たちよりさらに熱狂的に神を賛美しているのを見て、腰を抜かすほどだったのです。

さてここまで来て、皆さんの中に違和感をもたれた方はおられないでしょうか。聖書では、聖霊を受けて熱狂的になった人がたくさん出てきます。少なくとも聖霊を受けたことは、外に向かってのなんらかの目に見える変化を伴っています。…しかし、それは自分とはずいぶん違うように見えるのです。…自分の信仰は内に秘めたいたって静かなもので、とてもこんなふうにはなれない。自分は洗礼を受けているが、大胆に神の言葉を語り出したなどということはこれまでなかった。いったい自分は本当に聖霊を受けたのだろうか、と思うことさえあるかもしれません。

こういう人に対して、神様はきっと、あなたはたしかに聖霊を受けたのですと言われるでしょう。そして、聖霊のあらわれ方はいろいろあるのだと教えて下さるはずです。

では初代教会では、聖霊が降った時になぜこれほどはっきり、目に見える出来事が起こったのでしょうか。これは、聖霊が働いていることを世界にはっきり示す必要があったからだと考えられます。

聖霊の到来はそもそも、主イエスが最後の晩餐の席で、予告しておられたことでありました。主イエスは弟子たちに、あなたがたをひとりにしてはおかない、自分が去ったあとも聖霊があなたがたと共におられるということ、そして聖霊は父なる神がイエス様の名によってお遣わしになる方であって、弟子たちにすべてのことを教え、ご自分が話したことをことごとく思い起こさせてくださる、と教えて下さいました。これほどに大切な聖霊が降った時、それがひっそりと、誰にもわからないようなことであっては困るのです。そこで神は驚くべき出来事を次々に起こして、聖霊がたしかに降ったことを全世界に示されたものと思われます。

ペトロとコルネリウスを巡って起こったのは、異邦人が異言を話し、また神を賛美したということです。ここで異言を話すことと神を賛美していることは切り離すべきでなく、彼らが異言であれ自分たちの言葉であれ、神を賛美する言葉を語ったことは間違いありません。

異言というのは、霊的な賜物の一つです。一般の人には理解困難な、どの言語かもわからない言葉ですが、これが始まることで本人も、周囲の人も神への賛美と感謝の思いを高めていったのでしょう。

私は昔、小樽である教会の礼拝に出席した時、牧師や信徒たちが異言を語りだすところに居合わせました。ただそれが本当に神を賛美する言葉なのか、それとも呪文を唱えるようなことにすぎないのか、判断できませんでした。少なくとも私自身の信仰のための益にはならなかったのです。

このようなことは初代教会の時代からありました。パウロは自分自身異言を語ることが出来、「異言を語ることを禁じてはいけません」(Ⅰコリ14:39)とは言っているものの、「皆が異言を語っているところへ、教会に来て間もない人か信者でない人が入って来たら、あなたがたのことを気が変だとは言わないでしょうか」(Ⅰコリ14:23)とも言っていて、行き過ぎになることを戒めています。パウロの出した結論は、「すべてを適切に、秩序正しく行いなさい」(Ⅰコリ14:40)ということです。…カルヴァンも、異言は教会に与えられた賜物だとしながら、その後まもなく弊害が出て来たために、神が教会からこの賜物を奪ったとしても不思議ではないと説いており、日本キリスト教会はその考えを踏襲しています。

ですから皆さんは、ここで異言を復活させるべきか問うよりも、まず、そこで語られたのが神を賛美する言葉であったということをつかんで下さい。…人によっては神を賛美する言葉は大胆に、また熱狂的になるでしょう。しかし一方、これを静かに語る人もいて良いのです。…私たちの口から出る言葉が、他の人をこきおろしたり、おとしめたりする言葉ではなく、信仰に裏打ちされた言葉、神を賛美する言葉でありますように。これをさせるのが私たちの上にも降っている聖霊の働きなのです。

 

こうして異邦人が洗礼を受ける時が訪れました。ペトロは異邦人にも洗礼を授けて良いとの確信を得ました。もはや民族の違いや割礼の有無は関係ありません。ペトロは、神が彼らを受け入れておられることをその目で見たのです。

洗礼とは以前、バプテスマのヨハネが開始し、イエス様が洗礼を受けられたことで完成しました。…イエス様が水から上がられるとすぐ、神の霊が鳩のようにイエス様の上に降ってきました。これは、イエス様がこの時初めて聖霊を受けられたということではなく、むしろ、バプテスマと、聖霊を受けることが結びついていることが示されたというべきです。

…その時以降、ヨハネによる洗礼は意味がなくなり、イエス様によって新たな洗礼が開始されました(ヨハネ3:22、マタイ28:19)。それが「イエス・キリストの名によるバプテスマ」です。  

まだ洗礼を受けていない人でよく、こんな自分が洗礼を受ける資格はないと思い込んでいる方がいます。しかし今日、私たちに与えられた御言葉に即していうならば、神は人を分け隔てなさる方ではありません。救いに関して、神様は公平であられ、どんな人であっても受け入れて下さいます。逆に、自分には洗礼を受ける資格がないと思っている方こそ、是が非でも洗礼を受けて頂かなくてはならない人です。それが神様のみこころだからです。

イエス・キリストはすべての人を救うために十字架におかかりになりました。イエス様が死なれて、私たちに命が与えられました。ここにいる私たちが受けた(また、受けるであろう)洗礼はイエス・キリストの名によるバプテスマです。そこに分け隔てはなく、すべての人の前に救いが差し出されているのです。

 

(祈り)

恵み深い天の父なる神様。神様が人を分け隔てなさらず、すべての人に差し出された救いの恵みの中にもともと異邦人である私たちも入っていることを感謝いたします。

今日のお話で、聖霊がコルネリウスたちの上に降りましたが、私たちは聖霊のことがあまりよくわかっていません。初代教会のありさまと今の私たちの教会のありさまを比較する時、異言を話したりというように、何か熱に浮かされたことがなければ教会ではないのかと思ったことがあります。しかし一時的に熱狂的になる人が、しばらくすると火が消えたみたいになることもあるのです。肝心なことは神様を賛美することであると信じます。自分が幸せだったり、生活がうまく行っている時ばかりでなく、こんなことを追い求めているわけではありませんが、たとえ不幸であったり、逆境に立ち向かっている中にあっても、くちびるから神様を賛美する言葉を絶やさないようにして下さい。神様はどんな時でも、賛美されるべきお方だからです。

とうとき主イエスの御名によって、この祈りをお捧げいたします。アーメン。

  どんな国の人でも youtube 

 

イザヤ52:7~10、使徒10:34~43 2017.11.5

 

 今日は、使徒ペトロがコルネリウスの家で行った説教について、学ぶことにいたします。

 まず前回の復習からですが、港町カイザリアにコルネリウスというローマ帝国の軍人がいました。彼はユダヤ人ではありません。異邦人でしたが、ユダヤ人の神である主なる神を熱い思いで信じている人でした。つまりユダヤ教の信徒でしたが、イエス・キリストのことはよく知らなかったはずです。この人のもとに天使が現れて、「今ヤッファにいるペトロを招きなさい」と告げたのです。

 次の日、ペトロは幻を見ます。目の前にあらゆる獣、地を這うもの、空の鳥といった律法で食べることを禁じられている動物が差し出され、これを食べなさいと言われたのです。ペトロは「とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません」と答えると、「神が清めた物を、清くないなどと言ってはならない」という声がしました。…私たちもこんな体験をしたら面食らってしまうことでしょうね。例えて言いますと食卓に昆虫料理が並べられて食えと言われるようなことですから、多少気持ち悪いことでもあったのです。

 ペトロがいま見た幻はいったい何だろうかと考えている時にコルネリウスの使いが到着し、聖霊に促されてペトロは彼らと共に出発しました。一行が次の日にカイザリアに着くと、コルネリウスは親類や親しい友人を集めてペトロを待っていました。ペトロはその時になってようやく、幻が教えてくれたことを理解したのです。自分たちが食べるもの以外にも食べられるものがある!神はペトロに、どんな人についても清くない者だとか、汚れている者だとか言ってはならないことを教えられました。ユダヤ人はそれまで、自分たちユダヤ人は神から選ばれた特別な民なのだという強烈な自覚があったために、異邦人をばかにしていたのですが、今やそれが間違いだったことが示されたのです。

 

 ペトロは説教を始めると、開口一番、「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました」と言ったと書いてありますが、翻訳が少しパンチがきいてない感じです。そんなものじゃないんです。よく分かりましたというところを口語訳聖書では「ほんとうにわかってきました」となっています。ペトロもパウロのように、目からうろこの体験をしました。「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」、その言葉の意味を悟ったのです。

 ペトロはそれまで同胞であるユダヤ人を対象に、イエス・キリストのことを語っていましたが、ステファノの殉教のあと、サマリアの地でサマリア人にも語るようになりました。

サマリア人はユダヤ人に異邦人の血がまじって誕生した混血の民族で、ペトロにとって、彼らに語るということは大変勇気がいることだったのですが、今度はさらに大胆な一歩を踏みしめたといえます。ペトロの前にいるのは、ユダヤ人が、初めから救いにあずかれない民だと決めつけて、軽蔑していた異邦人だったのです。

 今の日本でも外国人を敬遠する人がいますね。自分の子供が外国人と結婚するなんて言うと仰天してしまう人はまだまだ多いようです。そこには言語の違い、風俗習慣の違い、たどってきた歴史の違い、さらに宗教の違いもあって、違う者同士が出会って、わかりあうのは並大抵のことではありません。

 ペトロがユダヤ人と異邦人を隔てる壁を飛び超えることが出来たのは、彼がものわかりの良い人であったとかいう理由ではなくて、「神は人を分け隔てなさらない」ということを神ご自身から示されて、本当に納得したからにほかなりません。…そもそもイエス・キリストは、使徒たちが地の果てにまで出かけて福音を告げ知らせることを予告しておられていた(マタイ28:19、使徒1:8)のですが、その時ペトロはわかりませんでした。不思議な幻と、コルネリウスたちに会うことで初めて、神が異邦人をも救いを与えようとしていることがはっきりわかったのです。

 ペトロが変わっていったのは彼の中から起こったことではなく、ほかならぬ神の働きかけによるものでした。神はみころのまま、どんな国のどんな人であっても、罪から清め、泥沼から救おうとされているのだ、ということを示されました。ペトロがそれまで他のユダヤ人と同様に持っていた思いや信念は、偏見もろとも打ち砕かれました。それは大変に大きなことであったのです。彼は神によって造り変えられた者として、異邦人の前で語ったのです。

 

 ペトロの説教は、使徒言行録ではこれまでも2章と3章に出て来ています。ここ10章の説教とあわせて並べてみると、どれもイエス・キリストを語ることでは何ら変わらないのですが、よく見ると大きな違いがあります。前の2つでは、イエス様について旧約聖書ではこんなふうに預言されていたとか、モーセがどう言ったとかが大きな比重を占めていますが、今度のものはその部分が少ないのです。というのは、前の2つはユダヤ人の前で語ったものです。ユダヤ人は自分たちの先祖の歴史をよく知っていますから、聖書にはこう書いてある、モーセはこう言われたということが説得力を持ったのです。しかし今ペトロの前にいる人たちは、ユダヤ人ほど旧約聖書のことをよく知りません。そこで、いわば初心者向けの説教になっています。ただ、もちろん手を抜いているのではありません。大事なことはきちんと踏まえてあります。

 ペトロは説教の冒頭で神が人を分け隔てなさらず、どんな国の人でも神に受け入れられているということを感動をもって語ると、36節からすぐに本論に入ります。

ただちょっとわかりにくい所があり、原文も混乱しているので交通整理をいたします。ペトロは言います。「神がイエス・キリストによって平和を告げ知らせて、イスラエルの子らに送ってくださった御言葉を、あなたがたはご存じでしょう。」この「御言葉」について、37節でこう説明しています。「ヨハネがバプテスマを宣べ伝えたのちに、ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事です。」…御言葉というのは、ユダヤ全土に起きた出来事なんですね。その出来事について、さらに38節で、「つまり、ナザレのイエスのことです。」と言われています。

 神様が送って下さった御言葉がユダヤ全土に起きた出来事であり、それがナザレのイエスである、こういう考え方はわかりやすいとは言えません。コルネリウスたちがどこまで理解できたのかとも思うのですが。ここでヨハネ福音書の1章を参照すると、「初めに言葉があった」という有名な聖句のあとに「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」と書かれています。私たちの間に宿られた言というのはイエス・キリストであるということがヒントになると思います。イエス様こそ神から送られ、遣わされた御言葉であられます。ペトロはこの方をいま異邦人に伝えているのです。

 ペトロは、御言葉について「ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事」だとしています。それがイエス様だということです。イエス様ご自身はユダヤ人であって、異邦人ではありません。ユダヤ人として、ユダヤでお生まれになり、ユダヤで活動なさったのです。そのお働きは、ガリラヤでの伝道に始まり、ユダヤ全土に影響が及び、最後にエルサレムでその人生をまっとうされました。

 38節:「神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。」…イエス様が洗礼を受けられた時、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という天からの声があって、油注がれた者になられたのです。油注がれた者とは、昔のユダヤで、預言者、祭司、そして王が油を注がれて任命されたところから来ています。ヘブライ語で「油注ぐ」をマーシャハ、そこからメシアという言葉が生まれました。メシアとは油注がれた者、やがてそれは、イスラエルにやがて来られる理想の王を表すようになり、救い主を意味するようになったのです。さらにギリシャ語では「油注ぐ」クリオ―という言葉から、「油注がれた者」クリストスという言葉が生まれ、それがキリストになったのです。

 イエス様は、ペトロが言うように、「方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのです」。一部に例外がありますが、イエス様が活動なされたのはほとんどユダヤで、恵みのわざはユダヤ人に向かってなされました。何よりイエス様の最も大切なお働きはユダヤのエルサレムで行われました。「わたしたちは、イエスがユダヤ人の住む地方、特にエルサレムでなさったことすべての証人です」。

 では、そのことは何だったのか。人々がイエス様を木にかけて、つまり十字架にかけて殺しったことです。メシアともあろう方を最も呪われた方法で処刑したのです。しかし神はこの方を復活させて、ペトロを初めとする弟子たちの前に現し、彼らを復活の証人として立てて下さいました。神がイエス・キリストを通してなされたことは、ペトロたち復活の証人を通して、世界に宣べ伝えられるのです。

 イエス・キリストを巡って起こったこうした出来事は、ほとんどすべてユダヤにおいて、ユダヤ人の間でなされました。イエス様は決して、異邦人の世界で、異邦人に向けて決定的なみわざを行うことはありませんでした。

 ユダヤ人はやはり、神様に選ばれた神の民であって、神様から特別の恵みを受けているのです。そのことをペテロはここではっきり語っています。私たちも心しておかなければなりません。長い歴史の中でユダヤ人を通して与えられた神の導きがイエス・キリストの内に結集しました。ユダヤ人を通さずに、救いということは考えられません。しかし、そのことは、イエス・キリストを通して与えられる恵みがユダヤ人に限定されるということではありません。そのことが示されています。そのことが示されているのが36節の、先ほど読まなかったところです。ペトロはそこでイエス・キリストについてはっきり、「この方こそ、すべての人の主です」と語っています。これは、その日まで、ユダヤ人の中にも異邦人の中にも、届いていなかった言葉でした。

 神が平和を告げ知らせてイスラエルの子らに送った御言葉、それはガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事であり、すなわちイエス様のことですが、イエス様はただユダヤ人のためだけでなくて全世界の人々のために油注がれた者、メシア、救い主になられました。ユダヤ人の間に遣わされたイエス様ですが、そのお働きは全世界に及びます。十字架と復活によってこれ以上のことがない、救いのみわざを成し遂げて下さったイエス・キリストは、異邦人を含めたすべての人々の主として立てられています。日本人だろうが朝鮮人だろうが、アジア人だろうがヨーロッパ人だろうが、アマゾン川流域で生活する先住民のような人たちまで、イエス・キリストを通して与えられる神の恵みからはじきだされることはないのです。

 

 この時ペトロは思ったのではないでしょうか。神様は自分たちの思いを超えた、はるかに大きな方であられたと。…神は、自分たちがこれまで同じ人間だと見なしていなかった異邦人のためにもイエス様を遣わして下さった、神はそれほどまでに世界を愛しておられるのだと。もちろん、同じ喜びはコルネリウスの方にもありました。

 皆さんにとっては、イエス・キリストがすべての人の主であられるということは当り前のことかもしれません。しかし、そうだからこそ、福音が極東の日本のまで伝わって今の皆さん方があるのです。
 神の御子であるイエス様が十字架におかかりになって古今東西の人々の罪を担い、復活されたことで罪と死に勝利したことを現し、すべてイエス様を信じる人の先駆けとなって下さいました。神の前では、どこの国の人であっても、また身分や境遇などがどれほど違っていたとしても、罪人(つみびと)でしかありません。しかしイエス様がおられるからこそ、終わりの日に罪赦された者として神の前に立つことが出来るのです。

 皆さん、すべての人の主であるイエス様を、自分のただ一人の主として受け入れましょう。その時、人と人、民族と民族、国と国を隔てているあらゆる壁が取り払われ、隣人との本当の絆が結ばれるようになるのです。

 

(祈り)

 恵みと憐れみに富みたもう、天の父なる神様。神様は人を分け隔てなさりません。しかし人と人を分け隔てするのは人間の常でありまして、ペトロやコルネリウスが直面した問題が、私たちの間にも起こってします。もしかすると、私たちの中にも自分の国や自分が所属する民族を天にまで持ち上げて、ほかの国の人々を軽蔑したいという思いがあるかもしれません。また自分以外の人間を見下す思いがあるかもしれません。そんな人間に限って、特定の国や人々には卑屈なほどに尻尾を振るものです。その人がいちばん頼っているのが、この世の力であって、「長い者には巻かれろ」式の生き方から脱却できないからです。そんな私たちが自分から出た思いではなく、神様の思いを自分の思いとして、他の人々やひいては外国の人々と良い関係を築いてゆくことが出来ますように。イエス様の十字架の前では誰もが罪人(つみびと)であることを思い知らせて下さい。

 とうとき主イエスの御名によって、この祈りをお捧げします。アーメン。

神の怒りから救われるには youtube

エゼ8:1~18、黙示録3:1~6  2017.10.29

 

 一介の修道士であったマルティン・ルターがドイツのヴィッテンベルクの教会の扉に「95か条の提題」を釘で打ちつけたのが1517年10月31日、今からちょうど500年前のことです。この日をもって宗教改革が始まり、プロテスタント教会が誕生しました。この流れの中に、私たちが属する日本キリスト教会も入っているのです。宗教改革がなければ私たちの信仰生活もありません。けれども、宗教改革の意義を私たちが充分にわかっているとは言えないでしょう。いや、多少勉強したところで、とても汲み尽くすことが出来ないほどの内容がそこにつもっているのです。

 

 宗教改革は世界の歴史に残る重要な出来事です。私は中学校でも高校でも勉強しました。そこでは免罪符の販売に反対してルターが立ち上がりプロテスタント教会が誕生したこと、ヨーロッパ世界に大変動が起こったこと、カトリック教会がプロテスタントに対抗して世界中に宣教師を送り、その中に日本に来たザビエルがいたことなどを学びます。だから、宗教改革のことを全く知らない人というのは日本では少ないと思いますが、だいたいその程度のところで終わってしまうのです。私たちの理解もそれを少し深めたぐらいのことかもしれません。

 プロテスタント教会が宗教改革を記念する場合、これまで、カトリック教会を批判することに重点が置かれがちでした。これに対してカトリックの側も、さんざんルターの悪口を並べ立てるなどしてきました。もちろんカトリック教会には数多くの問題がありましたが、しかし、プロテスタントがカトリックを全面的に批判し、カトリックも同じことをするだけなら、建設的な議論は生まれません。…いったいプロテスタント教会はすべて正しかったのでしょうか。実はプロテスタントの側にも多くの問題があったのです。宗教改革の過程でたくさんの行き過ぎがありましたし、プロテスタント教会同士の対立が戦争にまでなったこともありました。宗教改革の結果、多数の教派が誕生して、本来一つであるべき教会がばらばらになってしまったことも、まことに残念なことでありました。

宗教改革についてプロテスタントとカトリックがお互いに批判しあっていても実りはありません。クリスチャンでない人がそれを見たら、教派間の内輪もめとしか思えないでしょう。何より、イエス・キリストは教会が分裂していることではなく、一つであることを望んでおられます。そこで20世紀に至って教会一致を目指すエキュメニカル運動というのが始まりました。その成果の一つとして、今年の6月14日、イエズス会長束黙想の家で、プロテスタントもカトリックも共に集まり、私たちの教会からも12人が参加した「宗教改革500年『争いから交わりへ』祈りの集い」が行われたのです。

カトリック教会の施設で、カトリックとプロテスタントが共に集まり、宗教改革を記念するなどということはひと昔前にはとても考えられないことでありまして、神様の驚くべきみわざを感謝したいと思います。

ルターが宗教改革において目指したことは、ひとことで言うならば、聖書に示された神の言(ことば)による教会の改革刷新でありました。それはカトリック教会をつぶして新しい教会を打ち立てようというものではなかったのです。ルターはカトリック教会をさんざん批判しましたが、その目的はこの教会を内部から改革し、神のみこころにかなう本当の教会をつくることでありました。この点において、カトリックとプロテスタントは現在、一致点を探し求めているところなのです。ですからプロテスタント教会は宗教改革の意義をしっかりつかむと共に自分たちの側の失敗や問題点から目をそらしてはならず、また長い時間がかかるとは思いますがカトリック教会との対話を続けていかなければならないのです。

 

 宗教改革は16世紀になって突然始まったことではありません。…ルターが立ち上がるはるか前から、教会を改革刷新しようという動きはずっと続いていました。その源を探ると聖書に行き着きます。イエス・キリストご自身が改革者でありましたし、旧約聖書にも幾多の改革の記事があります。

 いったいなぜ改革が必要なのでしょうか。これがないと教会は堕落し、信者の信仰生活は形骸化の一途をたどってしまうからです。いつの時代、どこの国においても、教会がなんの苦労もなく順調に成長していくということはありません。そこには、迫害に代表されるような、外から襲いかかってくる困難と共に、教会を内側からむしばんでしまうものがあります。すべてに恵まれているような状況の中に落とし穴が隠れていることもあります。教会がどんどん大きくなった結果、教会が自分の力におごって、神の導きを忘れてしまうことはしばしば起こりました。

 聖書は、教会はイエス・キリストの体であると教えています。そこは罪と死に打ち勝ったキリストが満ち満ちておられる場所でなければなりません。ところが現実には、罪と死の問題に無関心であったり、そこから目をそらしているような教会が少なくありません。もしもある教会が人間の内側にある罪の現実を見ることなく、これに無関心であって、また社会に蔓延する不正や悲惨な出来事にも我関せずのまま、たくさんの人を集め、教会を大きくすることばかり求めていったとしたらどうなるでしょう。たとえ、その目論見がうまくいったとしても、それは恐ろしいことではないでしょうか。私たちの教会にしても、私たち自身の中にある罪を認めず、無関心であったり、そこから目をそらしているならば、それはやがて教会の土台をゆるがすことになります。…しかし、そんな時に、神様から「壁に穴をうがちなさい」という声を聞く人は幸いです。エゼキエルに言われた言葉は、また私たちの前にも差し出されている言葉です。神に背いている人間の実態は見つけにくいものです。

塗りつぶされ、見えなくなってしまっている壁の穴をあけ、そのむこうにある罪の現実が見えた時、人は大きな衝撃に打ちのめされますが、そこのところから本当の救いの道が開け、教会とそこに集う一人ひとりにとっての再出発が始まるのです。 エゼキエル書には預言者エゼキエルが見たという幾多の幻が書いてあり、8章に書いてあることもその一つです。そこには第六年の六月五日と、はっきり出ています。第六年とはユダ王国の王ヨヤキンが即位してから6年目ということで紀元前592年であると確認されています。この時、ユダの王は攻め寄せてきたバビロンによって捕らえられていましたが、まだ国は亡びてはいず、エルサレムの都も神殿も残っているという状況でありました。

主なる神の御手がエゼキエルに及び、不思議な力で、彼がよく知っているエルサレムの神殿に連れて来ました。エゼキエルがまず北に面する内側の門に着いた時、そこには祭壇があり、入り口には激怒を招く像、偶像がありました。イスラエルの民はモーセの十戒において、「あなたは、わたしをおいてほかに神があってはならない。あなたはいかなる像も造ってはならない」と命じられていますから、これは明らかに律法に対する違反にほかなりません。激怒を招く像というのは、「欲望を刺激する貪欲な像」と訳すことも可能で、そうだとしますと、そこには異教の神のみだらな姿があったということになります。その場所は神殿の境内なのですから、今の時代に当てはめてみますと、キリスト教会の門にあやしげな偶像が置かれているようなことです。

 エゼキエルは次に、庭の入り口で命じられます。「人の子よ、壁に穴をうがちなさい」。…その壁はただの壁ではなく、イスラエルの現実を覆い隠している壁でありました。エゼキエルが穴をうがち、そこに出てきた秘密の入り口から命じられるままに入っていくと、思いもかけなかった光景が現れました。入って見ていると、周りの壁一面に、あらゆる地を這うものと獣の憎むべき像、およびイスラエルの家のあらゆる偶像が彫り込まれていたのです。そこにはイスラエルの長老70人が、シャファンの子ヤアザンヤを中心にして立っていました。この時より30年ほど前、ヨシヤという王が宗教改革を始め、国中の偶像を追放し、焼いて砕いて灰にしたことがありましたが、シャファンはその時に重要な役割を果たした人です。正しい信仰を守るために闘った高貴な家からも、神に背く行いに走る者が出たことが書いてあるのです。この人たちは、「主は我々を御覧にならない。主はこの地を捨てられた」と言っていました。ユダ王国が亡国の危機にひんしていた時代、彼らはそれが自分たちイスラエルの民の不信仰が神の怒りを引き寄せたことを見ようとせず、逆に神に責任を転嫁していたのです。彼らはバビロンの脅威が刻々と迫ってくる中、エジプトに頼って国を守ろうとしていたものと考えられます。壁一面に掘り込まれていた、あらゆる地を這うものと獣の憎むべき像というのは研究者によるとエジプトの神々のようです。だとすると、それらを拝むことはエジプトの神々に頼ることになるのです。

当時、エルサレムの神殿が丸ごと偶像礼拝のための神殿になっていたとは言えません。4節で「そこには、かつてわたしが平野で見た有様と同じような、イスラエルの神の栄光があった。」と書いてあることからも、やはり主なる神への礼拝は消えてはいなかったと思います。しかし秘密の入り口から入って行く秘密の部屋の中で、この国を代表する人たちが、エジプトの神々を含む異教の神々を隠れて礼拝していたのです。…壁の内側の、隠れたところで行われていることが、かつては神に選ばれた民の本質を示しています。壁の外側でたとえ主なる神を礼拝していたとしても、彼らの本当の姿はここにあったのです。

 続いてエゼキエルは、神殿の北に面した門の入り口に連れていかれますが、そこでは女たちがタンムズ神のために泣きながら座っていました。タンムズとは古代世界で広く信じられていた植物の神だそうです。毎年夏、タンムズが死ぬと植物は枯れて、死にます、しかし春になるとタンムズは生き返り、それと共に植物も息を吹き返すとされていました。つまりこの女たちは、主なる神を礼拝すべき神殿の門のところで、死にゆく神を悼んで泣いていたのです。

 エゼキエルは最後に、神殿の中庭に連れていかれました。すると主の聖所の入り口で、廊と祭壇の間に25人ほどの人がいて、主の聖所を背にして、なんと太陽を拝んでいました。聖所の入り口は神聖な場所で、そこに入ることが出来たということから、これらの人たちはみな祭司であったと考えられます。これは主なる神のいちばん近くで仕えている人たちが、神に背き去ったということにほかなりません。

 神は四つの悪事を見せたあとで、エゼキエルに言われました。「ユダの家がここで数々の忌まわしいことを行っているのは些細なことであろうか。…わたしも憤って行い、慈しみの目を注ぐことも、憐れみをかけることもしない。彼らがわたしの耳に向かって大声をあげても、わたしは彼らに聞きはしない」。

 

 エゼキエル書の9章には、8章に続く一連の出来事が書いてあります。かいつまんで申しますと、神はエルサレムの都を滅びに渡すことを決意されました。六人の御使いが武器をもってエルサレムをまわります。六人の御使いは、この仕事を神殿の前にいた長老たちから始めました。神殿を汚した人々が、続いて都の人々が殺されました。恐るべき出来事が展開する中で、エゼキエルは神の怒りの前に絶望し、助けを求めます。「ああ、主なる神よ。エルサレムの上に憤りを注いで、イスラエルの残りの者をすべて滅ぼし尽くされるのですか」。神からはまことに厳しい答えが返ってきます。「イスラエルとユダの家の罪はあまりにも大きい。…それゆえ、わたしは彼らに慈しみの目を注がず、憐れみをかけることもしない。彼らの行いの報いを、わたしは彼らの頭上に帰する」。

 しかし、神の憐れみは恐るべき審判の中にすら、現れています。神は御使いの一人に命令されます。「都の中、エルサレムの中を巡り、その中で行われているあらゆる忌まわしいことのゆえに、嘆き悲しんでいる者の額に印をつけよ」(9:4)。

 神は偶像崇拝に明け暮れる都エルサレムを滅ぼすことを決意されますが、それでもこの町を覆う罪を嘆き悲しむ者がいるはずだと言います。そして、その額に救いの印をつけよと言われるのです。その者たちだけは、神の恐るべき審きからまぬがれることが出来るのです。

ルターを初め、むかし宗教改革を実行した人々は、いわば神殿の壁に穴をあけてその中の現実を見た人ではありますまいか。主なる神を礼拝すべきところで恐ろしいことが行われていても、普通の人はなかなか気がつきません。ちょっと変だなと思っても、やがてそこに慣れてしまい、何とも感じなくなっているのです。罪に対して鈍感になってしまったからです。…しかし、ルターを初めとする改革者たちは、何より大切な神のいますところ、教会で恐ろしいことが行われているということに耐えられなかったのです。そのことを告発することがどれほど危険かということをわかっていましたが、ただキリストが自分と共におられることを信じて立ち上がっていったのです。今ではその闘いを、カトリック教会も尊ぶようになりました。

 広島長束教会が神の導きの中で歩み続けることを、教会の誰しも願っていると思いますが、かりに堕落してしまったり、その兆候が見える時、信者たるものそれを見逃してしまってはなりません。神が立てたもうた教会も、人間のせいで堕落していく可能性があるのです。私たちはみなキリストを信じ、教会につながる者として、教会を堕落から守り、改革し続けることに責任を持っているのです。

 

(祈り)

 父なる神様。私たちは神様によって救われた群れ、イエス・キリストがとうとい命を差し出して救って下さった者たちです。私たちは一人で聖書を読み、祈るだけで、信仰を保っていくことは出来ません。みな教会によって信仰を養われました。教会なくして信仰はありません。

 神様は教会が間違った方向に進んでいったときにこれを見逃すことのないお方です。そのためにマルティン・ルターをして宗教改革を実行なさいました。私たちの教会はその恩恵を受け継いでいます。もしも今後、私たちの教会が間違った方向に向かってしまうようなことがあるなら、どうか神様が本当の信仰者、改革者を起こして下さいますようお願いいたします。

 神様。広島長束教会のために祈ります。私たちは礼拝に出席する人数が少ないことを悲しんでおりますが、何よりもいまここにいる一人一人をほんものの信仰によって生きる者とさせて下さい。この世の不信仰に勝たせて下さい。

 この祈りを主イエス・キリストのみ名によってお捧げいたします。アーメン。     

   命あるものよ、心せよyoutube 

コヘレト7:1~6、ルカ6:20~26 2017.10.22

 

 私は以前、出雲で働いていましたが、東京や大阪などに出張し帰って来る時、岡山からJRの伯備線に乗って北に向かうと、山を抜け、山陰に入ったとたんに空が曇っているということがよくありました。昔は表日本、裏日本という言い方があって、表日本はあんなに晴れていたのに、こちらはどうしてこうなんだと思ったことがたびたびでした。…出雲は名前からして出る雲と書き、それだけ雨が多いのです。特に秋から冬にかけて、雨ばかりの日が本当に多く、そのため、私は気持ちまでが暗く沈んでしまったのですが、そういうことは例えば常夏の島に住んでいる人たちにはなかなか理解しがたいことでありましょう。…しかしながら、そうした所に住むことで初めてわかる恵みもあったのです。私は「出雲は良い所ですよ」という人に何人も会いましたが、そこには、ただお国自慢だけで片付けられないものがあるように思います。…気候風土は人間の性格に大きな影響を及ぼします。暑い所、寒い所、雨が多い所、少ない所、それぞれに良い面とそうではない面とがありますが、いっけん魅力に乏しく、誰も行きたがらないような所が、案外素晴らしい所だったりすることがしばしばあるのです。

 人は誰でも明るい、日の当たるところを求めるもので、初めから暗く、日の当たらないところを求める人はほとんどいません。しかし、人生はなかなか思い通りにはならないものですから、何かの事情で暗い、日の当たらないところに行かなくてはならないということがあります。そんな時、どうして自分だけがと思ってしまうものですが、しかし、そこが実は幸せへの入り口であるかもしれません。

山陰の気候から人生論に話が飛びましたが、今日与えられたコヘレトの言葉もそういうことをヒントにして読み解いていくことが出来るように思います。「死ぬ日は生まれる日にまさる」、こんな言葉は、皆さん、出来ることなら知らないでいたかった言葉ではないでしょうか。しかし、この言葉が与えられた意味が確かにあるのです。それがわかったとき、今度は感謝の思いが心にわいてくるかもしれません。

 そこで、まずコヘレトの言葉を読むときの注意があります。私たちは聖書は神の言葉だと教えられています。しかし聖書の言葉、一字一句すべてが神の言葉であるとは言えません。聖書には神が言われた言葉と共に、神に逆らう者たちの言葉も収録されています。救いに至る途上の人間の言葉もあります。コヘレトが語ったのはそういう言葉です。それは神が直接語られた神聖不可侵な言葉としてではなく、あくまで人間の言葉、コヘレトが真理を探究する歩みの中で語った言葉として受け取られなくてはなりません。そこのところを心得た上で、見てゆきましょう。

「名声は香油にまさる。死ぬ日は生まれる日にまさる」。かなり妙な文章ですが、最初の文とあとの文の間に「このように」を入れてみるとわかりやすくなると思います。「名声は香油にまさる。このように死ぬ日は生まれる日にまさる」。…「名声は香油にまさる」、これは当時良く知られたことわざだったようです。自分の評判が高まることは香油を身につけるよりも良い、当時としては誰もが納得しているようなことだったのでしょう。それと同じように、死ぬ日は生まれる日にまさるというのです。

しかし、どうして死ぬ日が生まれる日にまさるのでしょうか。今の時代にこんなことを言ったらまわりから変な目で見られること必定ですが、コヘレトの時代も同じだったはずです。人はふつう、子供が生まれた時は大喜びして、自分であれ他人であれ死ぬ時に喜ぶことはありません。仮に他人の死を内心では喜んでいたとしても、それを表に現すことはいたしません。しかしコヘレトは、人の死ぬ日はその誕生よりも良いと言うのです。コヘレトはよほどひねくれた人なのでしょうか。…コヘレトは続く2節で、また同じようなことを書きます。「弔いの家に行くのは、酒宴の家に行くのにまさる」。

 コヘレト以外の大多数の人にとって、生まれる日が死ぬ日にまさり、酒宴の家に行くのが弔いの家に行くことにまさるのは当然のことです。人間は死ということを前に悲しみ、悩み、苦しみ、心がかきむしられます。宴会が行われている家が弔いの家より好ましいのは当たり前のことで、そこでこそ命の洗濯が出来るというものです。しかしコヘレトは、悲しみを抱きしめ、弔いの家に行けと勧めます。耐えがたいようなことを勧めているのです。

 コヘレトがそのように言う理由について考えてみるうちに、浮かびあがってくることがあります。それは、人生について究極的な問いを投げかけるのは騒々しい宴会ではなくて、実に葬儀なのだということです。「そこには人皆の終わりがある。命あるものよ、心せよ」。……死は人間に、人生について深く考えさせます。どんな葬儀であっても、そこに私たちが出席する時、いつか必ず来るであろう自分自身の死について考えさせられます。しかし、宴会の場にそのような効果は期待出来ません。

 コヘレトにとって、どんな人間も死から逃れられないということは、すべての思索の出発点であり、再びそこに帰ってきたのです。この問題を解決しない限り、何もかも空しいままで変わりありません。

 人は必ず死ななければならないことを知って賢くなろう!死をしっかり受けとめたところに本物の人生が始まる、人はきちんと死に向かいあわなければならない、…これがコヘレトの考えでありました。宴会に行っても何になろう、弔いの家で人間の死と向かい合うことこそ、人生を良く生きるための出発点なのだ、彼はそう言いたいのです。

人がもしも、そういう思考回路を通ってゆかなければ、人生はごまかしの人生になってしまうでしょう。自分もいつか必ず死ぬことが確実なのに、そのことを見ようともせず、考えようともしない、そのような人生がどんなに楽しいとしてもそれはごまかしの人生でしかありません。…コヘレトはそんな人生を生きる人を愚者と呼びます。

「賢者の心は弔いの家に、愚者の心は快楽の家に」、ここで愚者について書いてあることを、聖書の他の箇所からいくつか見てみましょう。…コヘレトの言葉2章14節は言います。「賢者の目はその頭に、愚者の歩みは闇に」。賢者と違って愚者は霊的な事柄については全く暗いのです。…箴言1章22節も言います。「いつまで浅はかな者は浅はかであることに愛着をもち、不遜な者は不遜であることを好み、愚か者は知ることをいとうのか」。愚かな人は知恵を求めようとしません。…同じく箴言の18章2節には、「愚か者は英知を喜ばず、自分の心をさらけ出すことを喜ぶ」という言葉があります。愚者は言葉において、また行いにおいて、自分の愚かさをさらけ出すものです。

 当然ながら、愚者が好むのは、人々が集まる騒々しい場所です。酒宴の家であり、楽しみのきわまる家ということになります。確かにそこは楽しいところですが、しかし、楽しみにふけることで死から逃げおおせることは出来ません。自分の死はまだまだ先のことだと考えて、ひたすら楽しみを追求する人がいます。また、単に死を忘れるために楽しみにふけろうとする人もいますが、みんな一時しのぎのことにしか過ぎません。

「賢者の叱責を聞くのは、愚者の賛美を聞くのにまさる」。良薬は口に苦しということですね。これとは反対に、愚者から賞賛されたとしたら、それは自分がその人たちと同じレベルにあるということで、有難くも何ともないのです。

「愚者の笑いは鍋の下にはぜる柴の音」。はぜるというのは裂けて、はじけることです。柴はたいそう早く燃えてしまいます。そのように、あっというまに消えてなくなってしまうのが、死を見つめようとしない愚かな人の笑いだとコヘレトは言うのです。

 

 コヘレトの言うことは、私たちの心をたいそう重くさせます。皆さんは、「これでは全く救いがないじゃないですか」と言われるかもしれません。いつも死を思い、心を弔いの家に向けていては、疲れ切ってしまいます。ふだんそんなことを思わない人の方が長生きするのではないでしょうか。…しかしながらコヘレトは、自分の言葉を読む人をみな憂鬱にさせ、人生をあきらめさせようとしているのではありません。

 3節の言葉を見てみましょう。「悩みは笑いにまさる。顔が曇るにつれて心は安らぐ」。コヘレトが心の安らぎを求めていることは間違いありません。

 ここは気をつけないといけないところだと思います。偏った解釈が出て来る可能性があります。「死ぬ日は生まれる日にまさる」、「弔いの家に行くのは酒宴の家に行くのにまさる」と言って、死を賛美したあげく、悩みを賛美し、死というどうしようもない定めの前に敗北することが心の安らぎである、と受け取られかねません。しかし、そんな、死に魅入られているような生き方がコヘレトの求めているものではないのです。

 コヘレトは、弔いの家に行くことと酒宴の家に行くことを対比しつつ、4節以降で、賢者の生き方と愚者の生き方を対比し、賢者の生き方をたたえています。その流れから見てみると、悩みがふさわしいのが賢者で、笑いがふさわしいのは愚者ということになります。しかし、先ほど述べたように、悩みの中で敗北することはコヘレトの求めているものでありません。それは賢者の生き方ではありません。だとするとコヘレトは、人は必ず死ぬという定めの前で、悩み、悲しみ、苦しみを通ることで本当の喜びに至るのだと考えたのでしょう。

 誰もが本当の喜びを求めています。しかし、それは簡単に手に入るものではなく、酒宴の家などで得られるものではありません。コヘレトは、悲しみを通らない喜びはごまかしだと考えたのだと思います。…愚者にとっては、楽しみから来る心の安らぎも喜びも一時しのぎのもの、死の悲しみをしばらく忘れさせてくれる麻薬のようなものでしかないのです。本当の喜びは悲しみから生まれます。死から目をそらさないことによって与えられます。

 

 ここでイエス・キリストの言葉を取り上げます。山上の説教はマタイ福音書に記され、たいへん有名ですが、別のバージョンがルカ福音書にあり、これを読んでみましょう。

 「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる」。

 これこそコヘレトの言う賢者が、文字通り賢者になってゆくためのプロセスに近いのだと思います。貧しく、飢え、泣いている人たち、しかしこの人たちは悩み苦しみを通って、幸せを勝ち取るのです。

 この人たちと反対なのが、24節以下の人たちです。「しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている。今満腹している人々、あなたがたは不幸である、あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、あなたがたは悲しみ泣くようになる」。

 これはコヘレトが見た愚者の姿です。神を畏れることをせず、死ということに正面から向き合おうともせず、むなしい楽しみにふけっている人たちのことですね。

 イエス・キリストが下さる喜びは、酒宴の家に行って得ることの出来るようなはかないものではありません。苦しみ、悩み、そして死ということに正面から向き合い、たたかった末に与えられるものです。そして、その時に忘れてはならないのは、イエス・キリストが死を克服して甦られたことです。

 イエス・キリストが復活なさったという驚くべき出来事は、すべてのキリスト信者の未来での復活を先取りするものです。私たちにとってもこれ以上素晴らしいことはありませんから、毎年イースターを祝っているのです。ただ復活で大切なことは、当然のことですが、イエス様がその前に死なれたということです。死んでもいないイエス様が復活されたということではありません。ですからイエス様の死を見つめて下さい。そして、その先の復活を見つめて下さい。

私たちはみな主イエスに続く者です。私たちが復活するためには、死という関門を通らなければなりません。人間みな死に定められていることを忘れて遊びほうけるのではなく、また死に魅入られたかのように、死の前で敗北するのではなく、死を正面から見つめることで、死を克服し、イエス様が勝ち取って下さった復活の命にあずかることこそ、私たちの求めることでなければなりません。

ここにおいてコヘレトの行った真理の探究は、最も輝かしい形で結論が与えられたことになります。私たちも人間の死に心を向けますが、死んで甦られたイエス・キリストがおられますから心を安らかにしていることが出来ます。イエス様がおられる限り、私たちは死という定めの中においても確かな希望に生きることが出来るのです。

 

(祈り)

主イエス・キリストの父なる神様。いまここにいるのは□人ほど、この小さな集まりの上にも神様が目を留め、みこころを示して下さったことを感謝申し上げます。

神様、私たちもどうかコヘレトにならって、死ということを深く見つめる者として下さい。しかしそれは死の前に敗北してしまうことではありません。死を見つめることによって、死んで復活されたイエス・キリストを賛美したいがためです。神様、どうか私たちに残された人生の日々が、死に打ち勝って、今も生きておられるイエス・キリストの恵みの中にありますように。私たちをとらえ、愛をもって訓練し、人生最後の日まで導いて下さい。

神様、今日は大切な国政選挙の日です。どうか平和を愛する神様のみこころが、この国の選挙を通して現れますように。主イエスのみ名によって祈ります。アーメン。

 人を分け隔てなさらない神youtube  

申命14:3~20、使徒10:9~33 2017.10.15

 

 ペトロの身に起こったことは、ペトロ一個人だけではなく、イエス・キリストを主と信じるすべての人の上に起こり、また起きていることでありましょう。 

 神様が世界の民族の中でただ一つ選ばれたのがユダヤ人で、彼らに対し、救い主が与えられることが約束されていました。しかし何百年も待ちに待った末にイエス様が与えられた時、彼らはごく少数の人以外、このお方を受け入れることが出来ませんでした。イエス様を偽物のメシア、救い主ではないと見なしてしまったのです。これに対し、使徒たちを中心とするイエス様を信じる一団は、イエス様こそ救い主であられることを力強く証ししてゆきましたが、伝道の対象はほとんどがユダヤ人でした。自分たちが軽蔑していた異邦人にまさか福音が届けられるなどとは夢にも思っていなかったのです。民族的偏見を打ち破ることは本当に難しいことで、私たちの中にもそんな気持ちがあるのかもしれません。固く、閉ざされた心の扉を開くのは、自分の中から起こる力ではなく、ほかならぬ神であられます。

 

 ヤッファという港町に滞在していたペトロは、その日、祈るために屋上に上がりました。屋上といっても私たちが想像しているような立派なものではありません。この地方の家の屋根は平らで、傾斜がありません。ペトロははしごで登っていったのでしょうか。

 10節:「彼は空腹を覚え、何か食べたいと思った。」…ペトロは祈るために屋上に登ったのですが、いざそこに来てみると空腹のため祈ることも困難のようです。これは、ペトロがまだ修行が足りなかったということではありません。彼自身、こうなることを予想していたなら、まずきちんと食事を取ってから祈る時をもったことでしょう。ところがその日は、しっかりした判断が出来ません。すでに主の特別な働きが始まっていたのです。その結果、次の段階でペトロは我を忘れたようになってしまいます。ここは原語ではエクスタシスという言葉が使われていました。エクスタシー、恍惚状態ですが、意識がもうろうとなったと言うより、いわば神がかり状態です。聖霊がペトロの上に臨み、この世の通常の感覚を超えたものが現われました。啓示が与えられたのです。

 「天が開き、大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、地上に下りて来るのを見た。その中には、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていた。そして、『ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい』と言う声がした。」

 これがペトロが見た幻ですが、私たちが普通考える幻とは違います。私たちは、幻というと全くありえないものが見えたように考えますが、聖書で言う幻は、神様から直接与えられたものであって、確かな根拠があるのです。

 ここに登場する「大きな布のような入れ物」、これは帆船に使われる帆を思い浮かべて下さい。昔の船は帆で風を受けて走りました。船に使う丈夫な布が入れ物として用いられたのでしょう。その中には、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っており、これを屠って食べなさいという声が聞こえました。しかしペトロは空腹であるにも関わらず、口にしようとはしません。

 生物のうち、どれは食べて良くてどれは食べていけないかということが、レビ記の11章に詳しく書いてありますが、たいへん長いので、今日は申命記14章を読みました。そこには動物、魚類、鳥類、昆虫について食べて良いものとそうでないものが列挙されています。その基準となるのは、清いか、それとも汚れているかということです。

 私たちはこのリストに書いてあることは感覚的に理解できるでしょう。たとえばカラスを食べてはいけないというのを読んで、それで残念がる人はちょっといないのではないでしょうか。わざわざ神様から言われなくてもまるっきり食欲のわかない動物がいますが、人間の気持ちではなく神の言葉が判断基準となります。 

 このリストの中にいのししが出て来ます。いのししは、ひづめが分かれているが、反すうしないから汚れたものである、肉を食べてはいけない、と書いてあります。ひづめが分かれているかどうか、反すうするかどうかでなぜ区別されるのか、理由は書いてありません。しかし、神からそう命じられたからには守らなければならいけなかったのです。…そして、そこから、いのししを家畜化した豚も食べていけないことになるのです。現在、ユダヤ教徒もイスラム教徒も豚を食べませんが、ここに根拠があります。

 ペトロの前に差し出されたものの中には、あらゆる獣がいました。だとすると牛や羊、鹿のような清い動物と、それ以外の清くない動物がまじっていたのでしょう。地を這うものは爬虫類で、これはレビ記11章で、すべて食べることを禁止されていました。空の鳥も清い、食べても良いものとそうでないものとがまじっていたのでしょう。

 ペトロはこれを見て、「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません。」と言って、食べることを拒否しました。…そこには、汚れたものを食べることは律法で許されていないという理由があったのはもちろんですが、もう一つ、ユダヤ人の間で歴史的に培われてきた習慣が出て来たものと考えられます。…ユダヤ人は食生活において、清い動物と汚れた動物を厳密に区別します。しかし、それをしない人たちがいます。異邦人です。この時代のユダヤ人は異邦人と一緒に食事をすることをしませんでした。もしも異邦人の家に招かれて、のこのこついて行ったら、豚肉が入った料理を出されるかもしれません。

そうすると、これを食べることで自分も汚れてしまうのです。ユダヤ人は神に選ばれた聖なる民ですから、聖さを保っていなければならなかったのです。

 ペトロが、汚れたとされた動物を食べることを拒否した時、「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」という声が聞こえました。同じような問答が3度繰り返され、そののち、入れ物は天に引き上げられました。…神の声が3度繰り返されたことは、神の意思が確かにそこにあることを示しています。ただの幻覚なら、忘れてしまってもかまいませんが、今回のものはそうは行きません。そのためにペトロは、今見た幻はいったい何だろうかと思案に暮れることになったのですが、これは彼が自分で考えてもわからないことでありました。その意味を明らかにしたのが、カイサリアからの3人の使いの訪問です。

 

 ペトロが幻の意味を考えあぐねていた時、3人が到着しました。聖霊が「一緒に出発しなさい。わたしがあの者たちをよこしたのだ」と言って、促します。ペトロはコルネリウスが派遣した3人と会い、彼らと共にカイサリアに出かけるとコルネリウスは親類や親しい友人を呼び集めて待っていました。彼らを前にペトロは、自分の見た幻の意味を語っています。

 28節を読みます。「あなたがたもご存じのとおり、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています。けれども、神はわたしに、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないと、お示しになりました。それで、お招きを受けたとき、すぐ来たのです。」

皆さんは、汚れたとされていた動物を食べて良いかどうかということが、なぜユダヤ人と外国人との間の問題に変わったのか、不思議に思いませんか。そこで、考えてみましょう。

 第一が、食べ物をめぐるタブーですが、それはイエス・キリストによってすでに撤廃されていことを知って下さい。イエス様はマルコ福音書7章15節でこう語っておられます。「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」ここで、外から人の体に入るものというのは食べ物です。それは人を汚すのではないのですが、これについてイエス様は19節でさらに、「それは人の心に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」と言われます。…これに対し、人の中から出て来るものとは、21節によると、人間の心から出て来る悪い思いです。みだらな思い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな人の中から出て来て、人を汚すのです。

 つまり食べ物ではなく、人の心から出て来るものが人を汚すのです。

従って、今日キリスト教徒にとって、食べてはいけない汚れた動物など何もありません。もちろん毒のあるものは食べてはなりませんが、それは清いとか汚れたというのとは別の基準で判断するべきです。…私たちは豚を当たり前のように食べています。…外国人の中で、水中の生物の内ひれやうろこのないもの、つまりタコやイカなどを食べようとしない人がいますがナンセンスです。…私たちはもし生きるために必要とあらば、カラスだろうがヘビだろうが昆虫だろうが、何でも食べて良いのです。

 長い間人々の生活を規定していた、食べ物についての律法の本質は何でしょう。「清い動物」とされたものは、すべて神に捧げ物として捧げることが出来るものです。人が神殿などで神に捧げ物を捧げていた時代、人は自分で良しと思うものを捧げれば良いということではなかったのです。神によって、清いものと認定されたものだけを捧げることが求められていたのです。

 けれども、それは旧約時代の規定でした。イエス・キリストが来られることによって、古い規定は全く新しいものに作り変えられました。……人は以前、神殿に行って小羊を焼いて神に捧げていましたが、しかしまことの小羊であるイエス・キリストがご自身を神に捧げられました。それが十字架です。これは神に捧げる完璧ないけにえであったので、もう二度と繰り返す必要はありません。人間を捧げることはもちろん、小羊でもどんな動物でも、焼いて捧げることがいらなくなったのです。従って、神殿もその役割を終えました。

 しかし、そのことは聖なるものと汚れたものの区別がどうでも良くなったのだということではありません。私たちは動物を焼いて捧げることはしませんが、やはり献金することで神に捧げ物をしています。教会は皆さんの献金を感謝しておりますが、ただ、それがどれほどたくさん捧げられたとしても、もしもそこに汚れた思いがあるなら、神様は喜ばれません。神は私たちが清い思いで献金することを望んでおられます。そればかりでなく、私たちが神に自分の人生を捧げることを求めておられるのです。…ロマ書12章1節は教えています。「兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」

 ペトロはイエス・キリストが食べ物についてのタブーを撤廃されたことを知っていたはずです。しかし生活習慣はなかなか改めることは出来ません。また、これと結びついた偏見も簡単になくせるものではありません。

 ペトロは幻によって、清い動物も汚れた動物もない、神は汚れた動物も清い動物にして下さったことを教えられましたが、それは清い民と汚れた民の区別などないということです。異邦人も神の民にして頂けるのです。

 

このことに関連しますが、先ほどお話ししたように、この時代のユダヤ人は、豚肉を食べる異邦人と一緒に食事をしませんでした。今ここに豚肉関係の仕事をしている人がおられたら申し訳ありませんが、ユダヤ人は豚という言葉を聞くだけでも拒否反応が出たのではないかと思います。豚を飼う人は卑しい人と見なされていましたが、これに近いことは今日でも起こります。たとえば、あの民族は犬を食べるから野蛮人だと言われたり、日本人も鯨を食べるということで野蛮人扱いされるということが起こりました。今インドでは牛を食べないヒンドゥー教徒と豚を食べないイスラム教徒の間で、食生活をめぐる深刻な対立が起こっています。…食べ物が違うことが差別を産み出すことがあるのです。だから、自分はこういうものを食べる、あの人たちはああいうものを食べる、どちらも良いのだとなるだけで民族間、人間間(かん)の偏見はかなり少なくなるのです。  

 ペトロが直面したのは直接的には食べ物の問題でしたが、食べ物を通して、彼の心にあった異邦人への偏見が主によってえぐり出されました。しかし、それと共に問題解決への道も示されたのです。「神はわたしに、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないと、お示しになりました。」

皆さんも、人と人との間の壁を前にして悩むことがあるでしょう。しかしユダヤ人と異邦人の間にあった壁が取り払われた以上、神様が打ち破ることが出来ない壁などないのです。御支えを求めて、祈りましょう。

 

(祈り)

 天の父なる神様。御名を賛美いたします。

 いま世界も日本の国も不安定で、私たちのまわりも不安の連続のように見えなくもない今日この頃ですが、私たちに神様という確かな拠り所が与えられて、いま神様を礼拝する恵みの中にいることを心から感謝いたします。

 ペトロは神様によって心を開かれ、それまで軽蔑していた異邦人の家へと向かいましたが、これは神様の導きなくばとてもかなわないことでありました。ペトロが体験したことといま私たちが直面していることは、いっけんずいぶん違うようにも見えますが、根底にあるのは同じであると思います。国と国、民族と民族、人と人とが互いに理解しようとしないのです。初めから、あの人は話のできない相手だと決めつけていないでしょうか。そのようにして一人ひとりがばらばらになってしまった社会で、私たちは生きているように思います。

 神様、どうか神様がお力が発揮されて、人と人、民族と民族、国と国の間にある断絶を埋めて下さい。そうして神様が愛される平和を打ち立てて下さい。

 とうとき主イエス・キリストの御名によって、この祈りをお捧げします。アーメン。

    天に届いた祈り  

イザヤ52:10、使徒10:1~8  2017.10.8

 

 使徒言行録の説教では、今日からしばらく、異邦人が福音を受け入れた出来事を見てゆくことにしましょう。皆さんは、どの国、どの民族、どんな人であってもイエス・キリストからいただく救いを受け入れることが出来るのは当然のことだと思っていますか。だとすると使徒言行録に書いてあることがあまりピンと来ないかもしれません。しかし、これは大変なことなのです。言葉や文化、肌の色、職業などが違う人たちを自分と同じ人間だと認めることは、今日の世界でも簡単なことではありません。私たちだって、頭ではどこの国の人も同じだとわかっていながら、実際にはそれと違う思いを持ったり、言葉が出てきたりということがないとはいえません。こうした問題に、さらに宗教対立が持ち込まれると最悪の結果を招くこともあります。それが、2000年前のお話を現在も繰り返し聞き続けなければならない理由です。

 

 先週は、使徒ペトロがヤッファで、タビタという女性を生き返らせた話をしました。今日のお話の主人公、コルネリウスが住んでいたのはカイサリアです。ペトロはこのあとヤッファを出てカイサリアに向かい、コルネリウスを訪ねることになります。

 ヤッファとカイサリアは、共に地中海沿岸にある港町です。互いの距離は48キロほど、今日のお話でコルネリウスが3人の人をヤッファに送りますが、次の日には着いています。歩いて一日で着けるぐらいの近さです。けれども二つの町はずいぶん違っていました。同じ港町とはいっても、ヤッファはソロモン王の時代に建設された古い町ですが、カイサリアはたいへん新しい町でした。クリスマス物語に登場する悪名高いヘロデ大王が紀元前25年から12年をかけて、ここにみごとな港町を造りました。カイサリアとは、カイサル、つまりローマ皇帝にちなんだ名前です。紀元6年、ここはローマ帝国の直轄地になり、総督が来て軍隊も駐屯し、まさにローマ帝国がユダヤを支配するための要となったのです。コルネリウスは「イタリア隊」と呼ばれる部隊の百人隊長でしたが、この人がカイサリアにいたのにはこういう事情があったのです。

 

 皆さんもご存じの通り、ユダヤ人は自分たちが神の民であるという強烈な自覚を持っていました。世界にあまたの民族がいる中でただ一つ、神様によって選ばれ、神様と契約を結んだということはユダヤ人の誇りでありました。

 神は昔、ユダヤ人の祖先であるアブラハムに「あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」(創12:3)と約束されました。ユダヤ人は神の祝福を全人類に取り次ぐために特別に選ばれた民だったのです。

しかし、そのことは肝心のこの民族の中では次第にゆがめられ、新約聖書の時代には、ユダヤ人が他の民族に優越していることばかりが強調されるようになってゆきます。ユダヤ人は他の民族のことを「異邦人」と呼び、神の救いからもれた民としてさげすむようになりました。本来なら、自分たちが神様に選ばれたことで、ますます謙遜にならなければならないのに、そうはならなかったのです。…ユダヤ人と異邦人の間の隔たりは、イエス・キリストを信じる群れである教会でも、簡単に乗り越えられるものではありませんでした。復活されたキリストは使徒たちに全世界への伝道命令を出された(マタイ28:19~20)し、ペンテコステで聖霊を受けた人たちが世界各地の言語でしゃべり始めた(使徒2:4)ことにも、福音が全世界に広がっていくことが予告されていたのですが、そのことを使徒たちですら理解していませんでした。

 では、このように誇り高いユダヤ人は他の民族からどう見られていたのでしょうか。私が調べたところでは低く見られていたようです。ユダヤ人はローマ帝国に征服された民族です。同じように征服された民族も多数ありましたが、ユダヤ人は世界でただ一つ一神教を奉じている、変わり者で扱いにくい民族でしたから、評判がよかったとは決して言えません。カルヴァンは、「ユダヤ人たちは、当時、すべての者から憎まれ、軽蔑されていた」と書いていましたが、それが妥当なところではないかと思います。

 コルネリウスはそんな世界の中で、ユダヤ人が信じる神様を信仰し、割礼こそ受けなかったようですが一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていました。そこには多くの困難があったことと思われます。

 その理由の一つは、いま申し上げた異邦人とユダヤ人の関係に関わることです。コルネリウスはイタリア人だと考えられますが、それは征服された民族であるユダヤ人より優位に立っていたということです。かりに、ある超大国がある小国を征服し、住民を支配している時に、その超大国の人間が被征服民族の神様を拝むということがあるものでしょうか。コルネリウスはそれを行ったのです。彼は自分からユダヤ人の会堂におもむき、ユダヤ人と共に神を礼拝しました。「民に多くの施し」とありますが、施しの対象はユダヤ人です。コルネリウスがしていたことは仲間であるローマ帝国の軍人たちからあざけりの言葉を受けるだろうことはもちろん、危険なことだったかもしれないのです。

 もう一つの困難はコルネリウスが軍人だったことです。彼は百人隊長で、百人の兵士を統率していました。ローマ帝国の軍隊は1軍団が歩兵3千から6千、騎兵300から700人の兵力によって構成されていました。司令官のもと一つの軍団に歩兵6千人いると、百人隊長が60人となり、彼はその一人だったのです。

 いま、日本にコルネリオ会という団体があります。1924年にイエス・キリストを信じる軍人

によって創設され、現在も自衛隊員と関係者及びそれを支援するキリスト者の会として活動しています。もちろんコルネリウスから名前を取った会です。

 イエス・キリストは平和の君と呼ばれ、キリスト教は平和を高く掲げていますから、軍隊や軍人についてどう考えるかということは昔から重大な問題でした。初代教会の時代から、軍人であることと信仰者であることは両立しないと考え、信仰を持った時に軍隊をやめるという人がたくさんいたということです。しかし、それで教会が一致したわけではなく、皆が皆そうだったわけではありません。…例えばマルティン・ルターは1526年に「軍人もまた救われうるか」という本を出して、軍人がその職務を行うこと、つまり戦闘行為に参加することは正当なことであると説きました。この本でルターは、この世には戦争でしか除去出来ない巨悪があるとし、戦争を人間社会における秩序を維持するために神の命じたもうわざであるとして、その限りにおいてですが肯定しています。…ただそうした考えは論議を呼ぶことになります。やがて絶対非戦を唱えるクエーカーが出て来たり、非暴力による抵抗や良心的兵役拒否を行う人が現われ、、それは20世紀以降、大きな広がりを迎えることになりました。

 また、これとは別に軍人の精神を信仰者は見習うべきだという考えがあります。これは聖書から来ています。主イエスの前で病気になった自分の僕をいやして下さいと懇願した百人隊長がこう言いました。「わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。」主イエスはこれを聞いて、たいそう感心されました(マタイ8:5~13)。こうした信仰の例として、内村鑑三が書いた「軍人の信仰」という文章の一部を週報に載せています(注1)。もっとも内村鑑三は戦争を肯定しているわけでありません。彼は日露戦争に反対し、非戦論を唱えています。

 ただそういうことは認めても、軍人は自分の職務として殺人を行うわけですから、これを教会が認めてよいのか、さらには賞賛して良いのかというこで議論を呼ぶのは当然です。この問題はたいへんに難しいのでこれ以上立ち入りません。…ただどういう立場の人であっても、軍人もまたイエス・キリストによって救われるべきであるということには異存がないことと思います。

 コルネリウスが軍人としてどのような人生を送ったのか、実際に戦闘に従事したのかといったことは、聖書以外に資料がなく全くわかりません。わかっているのは彼がユダヤ人を支配する側で、占領軍の組織にいたということです。カルヴァンはコルネリウスについて、「一人の軍人がこんなに大いに神を敬い、

喜んで神に仕え、また人に対してこんなに情けと真心を持っているというのは、実にめったに見られない例である」と書いています。というのは、ローマ帝国の軍隊が来た時、平和的に進駐したとはちょっと考えられず、飢えた狼のようにその地を略奪し、荒廃させたことは、確かなようだからです。…だとしますとコルネリウスがそれを見聞きしなかったはずはありません。彼がその渦中にいた可能性もあります。

 私たちはコルネリウスのことを、理想的な人物、信仰の面での優等生のように思っていたかもしれませんが、この人は少なくとも、平穏無事な生活の中で、信仰を増し加えていったということではないのです。ローマの軍隊は乱れていたという情報があります。コルネリウスは、乱暴狼藉に走ろうとする荒くれ男たちを統率するという、まことに厳しい現実の中にいて、まさにその中にいたからこそ、本当の救いを求めていったのではないでしょうか。

 

 このコルネリウスのところに、ある日の午後3時、神の天使が現れました。午後3時は祈りの時とされ、ちょうどエルサレムの神殿で祈りがささげられる時刻でもあるので、信心深いコルネリウスもこの時刻に合わせて祈っていたのです。彼は祈りの中で天使の幻を見ました。幻といっても、脳がうみだした幻覚ではありません。神がこれを通して、みこころを告げられたのです。白昼の午後3時ですから、コルネリウスの意識ははっきりしていました。

 この時、コルネリウスが受け取ったメッセージには2つの内容があります。第一が、「あなたの祈りと施しは、神の前に届き、覚えられた」ということです。これはコルネリウスの祈りと施しを神が喜んで受け入れておられたことを示しています。…私たちはと見てみると、祈り求めるものをすぐに受け取ることが出来ないと、神様は自分の祈りを聞いておられないじゃないかと思いがちで、そのために祈りがおろそかになってしまいます。施しについても、これにお金を使うのはもったいないと思うことが多く、まして施しを神様がご覧になっておられるなんて思いもしません。そんな人間たちのために、神は祈りも施しもご自分の前に届いているということをここで言って下さっているのです。

 なおコルネリウスは、この時のことを10章30節以降でも繰り返していますが、そこでの天使の言葉が「コルネリウス、あなたの祈りは聞き入れられ」、となっています。彼が何を祈っていたのか、書いてないのですが、その祈りは神様の耳に届き、覚えられただけでなく、聞き入れられたのです。

 その結果が第二のメッセージです。「今、ヤッファへ人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。その人は、皮なめし職人シモンという人の客になっている。シモンの家は海岸にある。」コルネリウスの祈りに対する答えがペトロを招くことによってもたらされるとするなら、それは救いに関係することだと考えるしかありません。コルネリウスはこれまで軍人としての厳しい生活の中で唯一の神にたどりつき、一家をあげて信仰生活に励んでいましたが、それで満足したわけではなかったはずです。何かが足りないと感じていたのか、自分ではとても解決できない悩みがあったのではないでしょうか。そこに道を開いてくれたのが神の天使の訪問だったのです。

 イタリア人で軍人であるコルネリウスが、唯一の神、自分たちが征服したユダヤ人の神を信じ、ユダヤ教の信者になったのは素晴らしいことでした。しかし、そこに欠けていることがありました。その信仰にはイエス・キリストがなかったのです。イエス・キリストを通らなければ、誰も父なる神のもとに行くことは出来ません。天使は、ヤッファに人を送ってペトロを招きなさいと、具体的な指示を出しました。コルネリウスの祈りが天に届いたことの結果が、ペトロを通してイエス・キリストの福音を聞きなさいということだったのです。

 今日、神様を語る宗教はいくつもあり、その中にはたいへん優れたものもありますが、イエス様が出てこないならそれらは真理の手前にとどまっています。

またキリスト教とは全く関係ない宗教の中にもイエス様を語るところはありますが、それはすべて人間の知恵が生み出した教えです。そういうものに惑わされないためにも、神から遣わされた人を通してイエス様のことを聞かなければなりません。「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」、ロマ書10章17節。お祈りいたします。

 

(祈り)

 天にまします父なる神様。コルネリウスが異邦人として軍人として どういう人生を送っていたか詳しいことはわかりませんが、それはたいへん厳しいものであったにちがいありません。軍人は、時には救いの対象外にも見なされる人たちです。人を殺さなければならない時もあります。その恐ろしさはなかなか想像できません。しかしながら、軍人もやはりイエス・キリストに出会って、救われなければならない存在であることでは、私たちとかわりありません。

 コルネリウスに与えられた神様の恵みは、彼の功績によるものではありません。神様がコルネリウスを初めから選ばれ、彼ばかりでなくあとに続く人たちも救おうとなさったのです。 

異邦人とユダヤ人を隔てる壁がくずれて、どの民族であっても、またどんな人であっても、救いに与ることが出来、その中に私たちがいることを心から感謝いたします。私たちはコルネリウスほど厳しい環境に生きているわけではありませんが、やはり生きることはきれいごとでなく、汚いことに手をそめているかもしれません。祈りがかなえられないと思って祈ることをおこたり、また施しにおいても熱心ではありません。こんな私たちでもどうかみ前からしりぞけず、それぞれの生きている場で祝福を与えて下さいますように。特に、私たちの兄弟姉妹でいま病気と闘っている人を力づけて下さい。

 尊き主イエス・キリストの御名によってこの祈りをお捧げします。アーメン。

 

(注1)

「キリストの地上の教会を称してChurch militantという。キリスト教の信仰はいうまでもなく戦闘の一種であって、闘志なき者の維持することのできないものである。その意味において、教会は軍隊の一種である。…なんじ行けと命ずれば行き、来たれと命ずれば来たる者の衆合である。すなわち権威の行われる所であって、議論の行われる所ではない。」    (内村鑑三「軍人の信仰」より) 

    隠れた善い行いyoutube 

詩編103:6~9、使徒9:32~43  2017.10.1

 

 私たちはいま使徒言行録でいろいろな人に起こったことを学んでいます。よろしかったら聖書の巻末にある地図を開いて下さい。「6.新約時代のパレスチナ」というのがあります。これを見ると、一連の出来事がよくわかります。ステファノが殉教の死をとげ、大迫害が起こった時にエルサレムから逃げて行った人の中にいたフィリポがいました。彼はサマリアで伝道し、そこにエルサレムからペトロとヨハネが応援にかけつけました。フィリポはそのあと南に向かい、エルサレムからガザへ下る道でエチオピアの宦官に洗礼を授けると、今度はアゾトに姿を現し、そこから北に向かい、町々で福音を告げ知らせながらカイサリアまで行きました。

 使徒言行録では、そこにサウロの話が入ってきます。サウロはエルサレムからダマスコに向かいました。地図ではいちばん右上の町がダマスコです。サウロは回心ののちエルサレムに来て使徒たちに会いましたが、ユダヤ人に殺されそうになってカイサリアに向かい、さらに今のトルコ領内にあるタルソスに逃れました。

 サウロの話はそこで一旦終わり、ペトロの話になります。今日のお話の最初の舞台はリダです。エルサレムの西北にあるので、見つけて下さい。35節は「リダとシャロンに住む人は皆アイネアを見て、主に立ち帰った」と書きます。シャロンは町の名前ではなく、そこらへん一帯の平野の名前です。ペトロはリダの次にヤッファに向かいます。

 ペトロがリダに着いた時、そこにはすでに「聖なる者たち」と呼ばれる人たちがいました。ヤッファで遺体になって横たわっていたタビタはすでに婦人の弟子であり、41節にも「聖なる者たち」が出て来るところから判断すると、リダにもヤッファにもすでに信仰者の集まりがあったことがわかります。そこに信仰の種を蒔いたのは、フィリポだった可能性があります。

 こうして見てゆきますとステファノが死んだあとに起きた一連の出来事は、フィリポやペトロなど個人の活躍だけに帰すことは出来ません。そうではなく福音の伝達や、教会が誕生し成長していった歴史というところから、見ていく必要があるのです。…ただそこに、現在のような制度化された教会を見ることは出来ません。伝道者も圧倒的に不足しています。フィリポが最初の種を蒔いたとしても、彼は別の場所に行ってしまいました。次に来たのがペトロだったのでしょう。このように初代教会は、使徒やそれに準じる人が伝道し、信者の集まりが誕生しますが、しかし伝道者はそこに定住しないでほかに行ってしまうということが多いです。それでも、しばらくするとまた伝道者が来ます。そうこうしている内に長老などを選ぶようになります。

長老はだいたい一か所に定住しているので、そこから教会の組織が出来あがっていったものと思われます。

 

 それではペトロがリダに行ったことからお話ししましょう。「ペトロは方々を巡り歩き、リダに住んでいる聖なる者たちのところへも下って行った。」…聖なる者たちと言うと、皆さんは何か特別の人たちで、後光が差しているかのように思われるかもしれませんが、たとえ後光が差していたとしても、それはイエス・キリストから来るものでありまして、その人たち自身から発しているのではありません。新約聖書では、聖なる者たちというのはキリスト者のことなのです。だから、私たちだって聖なる者なのです。どこか外から「広島長束教会の聖なる者たちにこの手紙を送ります」という文章が届いたとしても、内容的には誤りはありません、おそれおおいことですが。

 ペトロはリダで、中風で8年前から床についているアイネアという人に会いました。中風というのは半身まひの症状、つまり脳卒中を指します。原語を直訳すると「足腰の立たない人」となります。この人は病によって体が不自由になり、8年間も起き上がることが出来ない、もう回復への望みも失せたような状態だったのです。

 ペトロが、「アイネア、イエス・キリストがいやしてくださる。起きなさい。自分で床を整えなさい」と言うと、彼はすぐに起き上がりました。皆さんは、このような話をほかで聞いたことがあったと思います。そうです、これはイエス・キリストが行われたこととたいへんよく似ています。イエス様も中風の患者をいやして下さったことがありました。ただ違っていることがあります。イエス様はご自分の力で病人をいやされましたが、ペトロはそうではありません。ペトロには、奇跡を起こす力はありません。あくまでイエス・キリストがペトロを通して、この人をいやして下さったのです。

 このお話には、私たちが漫然と読み過ごすわけにはいかないところがあります。そこでひとつ、考えてみましょう。アイネアという人は自分では何もしないまま、自力ではなく、全部をいわば他力によって起き上がったのでしょうか。そうではありません。

 文章があまりに簡潔で、状況がはっきりしないので、断定的な言い方はしたくないのですが、人は8年間も寝たきり生活を送ったら、気持ちが腐ってしまうと思うのです。かりに皆さんがそういう状況になったら、それでも意気軒高でいられますか。寝たきりであってもしっかりして、心の健康を保つことができる人がいることは確かです。しかしものぐさになったり投げやりになったり、未来に希望を失い、他の人をひがんだり、ねたんだりということがとても多いはずなのです。アイネアさんもそうだった可能性があります、

証拠はないのですが。…そんな時に、使徒ペトロが来て告げます。「イエス・キリストがあなたをいやしてくださる」、たいへん有り難い言葉ですね。しかし、それだけで終わりません。「起きなさい、自分で床を整えなさい」と命令されます。ペトロはこれを、けっこう厳しい調子で言ったのではないかと思います。だからアイネアさんは誰の助けも借りずに起き上がるのです。自分で、寝ているところを整理するのです。つまりペトロはここで、イエス・キリストから与えられた力をもって、他人に頼らず、自力で立ち直ろうとする思いを病人に与えた、そう言うことが出来るのです。

 皆さんは、病気でありながら、美しい信仰の実を結んだ人のことを聞いたことがあるでしょう。そういう人はたしかにいます。しかし、病気は不正常なもの、退治しなければならないものである、という原点を見失ってはなりません。病人が初めから病気の快復をあきらめていたら、治るものも治りません。イエス・キリストによるいやしは、まず病人の、病気回復を求める気持ちに火をつけることから始まるのです。

 

 さてリダにいるペトロのもとに、ヤッファから二人の人が来て言いました。「急いでわたしたちのところへ来てください」。タビタの死を知らせてきたのです。

 ヤッファはリダから西北に25キロほどのところにある港町です。港はソロモン王の時代に開かれました。神の前から逃げていった預言者ヨナも、ヤッファから船に乗りこんでいます。

 イスラエル民族はもともと遊牧民なので、海は苦手だったと思われます。ヤッファの港を造っても、造船業や航海の技術があったとは考えにくく、外国から技術者を雇ったようです。そうしたことの結果、ヤッファは初めから外国人の多い町でした。この時代、ヤッファはギリシア人の多い町だったという説もあります。

 タビタにはドルカス、すなわちかもしかというもう一つの名前がありました。タビタはユダヤ人の名前ですが、ドルカスはギリシア語で、二つの名前を使いわけていたとしたら、タビタがギリシア人とも親しくつきあっていたということが考えられます。…タビタのまわりにはやもめたちがいました。ある人は、ヤッファが港町であることから、漁船が海で遭難するので、やもめが多かったのだと言っています。…いずれにせよ、そういう港町の中で、タビタはたくさんの善い行いと施しをしていました。その具体的なあらわれが、やもめという、社会的地位が低く、頼るべき人もいない女性たちのために、下着や上着を作ってあげたことであったのです。このやもめたちがみなキリスト者だったかどうかはわかりません。

タビタが行った愛のわざには、信者とそうでない人の分け隔てはなかったと考える方が自然です。

 タビタが死んだことは、ヤッファの教会や、タビタから恩を受けた教会内外の人々にとって大事件でした。働き手であり、心の支えであった人を失ってしまったからです。

 ヤッファの教会は二人の人を派遣してペトロを呼びに行かせましたが、その時すでにタビタの甦りを期待していたでしょうか。どうもそうは思えません。人々はタビタの遺体を清めていますが、これは葬りのための備えです。ペトロを呼んだのは、葬儀のためとか、またこれと重なりますが、タビタを失った教会に神様からの慰めと励ましがほしかったということなのかもしれません。

 タビタの遺体が置かれたのは階上の部屋でした。そこは、この町の信者たちが集まっていた場所である可能性が高いです。ということはタビタが自宅の中の一部屋を、教会のために提供していたということが十分考えられるのです。   

 39節は「やもめたちは皆そばに寄って来て、泣きながら、ドルカスが一緒にいたときに作ってくれた数々の下着や上着を見せた」と書きます。タビタが行った愛のわざを心に刻みつける言葉で、やもめたちにとって、タビタがどれほど大きな支えであったかがわかろうというものです。しかしながら、誤解を恐れずに言うならば、下着や上着を作るのはタビタが始めたことではありません。私たちは、タビタの行いは、イエス・キリストに発していることを知らなければなりません。イエス様は言われました。「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ」(マタイ25:34~36)。この中で、「裸のときに着せ」という言葉があります。タビタがしたことは、まさにやもめたちが裸でいた時に服を着せることだったのです。

 やもめたちの話がペトロを感動させたことは間違いありません。ペトロは皆を外に出すと、ひざまづいて祈り、遺体に向かって「タビタ、起きなさい」と言いました。聖書には書いてませんが、これもイエス・キリストの力を受けて行ったことです。ペトロ個人の力が現れたのではありません。「タビタ、起きなさい」、するとタビタは目を開き、ペトロを見て起き上がりました。私は、生き返ったタビタを見た人々の喜びを表す言葉を持ち合わせていません。

 タビタの甦りは私たちに、神様がタビタの愛のわざを受け入れ、認めて下さったことを教えています。彼女の奉仕が神様を喜ばせた、その証拠が、この不思議な奇跡です。

 私は縫物ではボタンを服に縫い付けることぐらいしか出来ないので、下着や上着を作ることがどれほどたいへんかがわかりません。

ただ、それほど高度な技術が要求されることではないような気がします。人それぞれ得意なことが違いますし、能力にも雲泥の差がありますが、信仰によって生き、神と隣人のために、どんな分野であっても心をこめて行うことが大切です。私たちにとって喜ばしいことは、神がここで復活させた人が百年に一度現れるような英雄でもなく、また格別な能力を持った人でもなかったことです。神はタビタを復活させることによって、誰にも知られずに終わってしまうような、隠れた善い行い、愛のわざを受け入れておられることを世界に示されたのです。

 

 最後に、ペトロが革なめし職人シモンの家に泊まったことに触れなければなりません。革なめしという仕事は、いわゆる「汚い仕事」で悪臭が出るため、人々から嫌われ、差別されていました。だから、この人の家も人々から離れた場所にあったはずです。しかしペトロは、人から嫌われる仕事をする人を避けることはしませんでした。押しつけがましいかもしれないので、私はみんながそうすべきであるとは言いません。しかし、少しでもそこに近づいて行くべきです。

 

(祈り)

 天の父なる神様。世界は緊張状態がやまず、日本国内もめまぐるしく変転をとげている中、私たちが教会に集められ、時代と場所が違っても永遠に変わらぬみことばを頂いたことを感謝申し上げます。

 神様、私たちの中には、この世で権力を握っている者も、格別にすぐれた能力を持った者もおりません。そのために自分とは違うそんな人たちを羨んだり、ねたんだりすることもよくあります。この世の中の大きな流れについて行くことだけで精一杯の力のない者たちです。だからそんな自分たちが、世の中でひとかどの者と認められることはほとんどないと思っていました。しかしながら今日、神様はそんな目で、人間一人ひとりを見ているのでないことがわかりました。神様は権力者も、格別にすぐれた能力を持った人も、そのことをもって受け入れられることはありません。そうではなく、たとえ平々凡々な能力しか持ちあわせていない者であっても、その仕事が神様のみこころにつながっているならば、神様が受け入れ、祝福していて下さるのです。たとえ病気で寝たきりの人であっても、神様はその人にこの世での何かの役割を与えて下さいます。私たちの毎日が神様の導きの中にあって、そこで行う一つひとつのことがみこころにかない、そのことで私たち自身の喜びが形作られてゆきますように。

 とうとき主イエス・キリストのみ名によって、この祈りをお捧げします。アーメン。

 誰が私を救ってくれるのか 

イザヤ55:6~7、ローマ7:14~25 2017.9.17

 

 のちに歴史上最も偉大な伝道者となったサウロの生涯をたどっていますが、使徒言行録には書いていない彼の内面の動きをロマ書から探って行って、今日が2回目となります。

 もともと熱心なユダヤ教徒であったサウロは、キリスト教徒を迫害し、つかまえては牢に送るようなことをしていたのですが、そのさ中に死んで甦ったイエス・キリストとの奇跡的な出会いをして、回心しました。そうして今度は、キリストを宣べ伝える者となったのです。その証しと言えるのが、彼がローマの教会に書いた手紙で、その中で彼はユダヤ人の常識をひっくり返す、全く新しい教えを説いたのです。「罪は、もはやあなたがたを支配することはありません。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです。」これを聞いて仰天してしまった人が大勢いたことと思います。律法とは、ほかならぬ神様からイスラエルの民に与えられた掟です。それなのに、あなたがたは律法の下にではなくなんて言うものですから、これを聞いた人々は、サウロ先生は神様から頂いた有り難い律法を罪だと言うのか、となってしまったでしょう。

 そこでサウロは自分が神様を冒涜していないということをはっきり言うのです。律法そのものは罪ではないと。しかし一方、この律法を通して罪が入りこんできたということも言わなければなりません。それはどういうことなのか、サウロは自分の体験を披露します。サウロは律法の中心である十戒をみんな守ることが出来ましたが、その内の一つだけは守ることが出来ませんでした。「むさぼってはならない」、これはみだりにほしがるなということですが、サウロはこの戒めを守ることが出来ません。外に現れる行いについては律法が教える通り守れても、心の中から良からぬ思いが起こってくるのを押えることが出来ないのです。律法で禁止されていることが、かえって火のない所に油を注ぐ結果になりました。罪はサウロの心に、あらゆる種類のむさぼりの思いを起こさせ、こうしてサウロの心は引き裂かれました。15節:「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです」、このように分裂状態に陥ってしまったのです。そうしたことの結果が24節にあるサウロの叫びとなって現れるのです。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょう。」

 私たちだったら、ふだん悩みの種には事欠きませんが、サウロほど深刻になることはないのではないかと思います。彼は普通の人間に比べて神経質すぎるのでしょうか。そうではありません。…サウロは神様に従って善いことをして生きることを、せきたてられるに望んでいまし

たが、これに反する思いのために妨げられており、そのことを嘆いています。誰かさんのように初めから神様に従うことをあきらめているのではなく、真剣に求めている中でそうなってしまったのです。サウロの悩みはサウロひとりのものではなく、彼はあとに続くすべての人たちのためにも悩んでいたのです。

 

 先週もお話ししましたが、「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」と叫ぶに至るサウロの嘆きが、いったい彼の生涯のどの時点で起こったかというのはたいへん大きな問題です。私は、回心する前のサウロにはこんな悩みはなかった、イエス・キリストに出会って、その光に照らされた時、初めて自分の罪が見えてきたのだと申しました。ただキリスト教の歴史を調べてみると、皆が皆それで納得しているのではなく、問題はかなり複雑でした。これはサウロの回心後の悩みではない、回心の前、生まれ変わる前のサウロを回想したものだという解釈もあり、今も、そのように主張している人々がいます。私はそうした解釈を取りませんが、この人たちの主張を取り上げることで、何が問題になっているかをお示ししたいと思います。

 サウロの言葉を一節一節取り上げることは出来ないので、一つの例を紹介しましょう。17世紀から18世紀にかけて、ドイツに敬虔主義という信仰の運動が起こりました。ここで「敬虔」というのは、「敬虔な」と言うときの言葉です。敬虔主義はその後の教会と世界に大きな影響を及ぼしました。今日、霊性とか霊的なものを強調する教会はその流れに入っていると思いますが、このタイプの教会は聖化ということ、つまり人がイエス・キリストを信じて生まれ変わり、救われて清められることをたいへん重んじます。…そこで、そのようなタイプの信仰者が見た時、サウロがここで語っている信仰にとまどってしまうのです。というのは、この人たちは、うまく言えませんが、人は救われたとたん神の恵みで清らかになり、喜びと希望に満ちた人生が始まり、完全なとはいえないまでも完全に近い姿になると考えるからです。私たちの中にもそのことを期待する思いがあるでしょう。

 ところが、この時のサウロはと見ると、「自分では善をなそうと思っているのにいつも悪がつきまとっている」、「神の律法を喜んでいるけど、もう一つの法則があって、自分を罪の法則のとりこにしている」、…ひとことで言うと、サウロのこうした姿は救われたクリスチャンにはふさわしくないと思ってしまう人がいるのです。「死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」…、サウロ先生が、こんな、善と悪に分裂する思いをかかえたまま、世界中を伝道していたはずがないじゃないか、従ってこれは、サウロが自分が救われる前のことを回想して書いたのだ、救われたあとはこんな悩みはすべて克服されていたはずだ、ということになってしまうのです。

 私は、この考え方を知ってはたと考えこんでしました。ここに現れた問題はたいへん奥が深いものがあります。私を含め、教会に集まるほとんどの人には一つの大きな信念と期待があるはずです。キリストを知らない、つまり信仰を持たずに生きている人は困難と嘆きの中にいるが、キリストを信じて救われた時、神の恵みによってその困難や嘆きから解放され、感謝と賛美の内に生きるようになるのだと。私自身そのように思っていましたし、そうお話ししてもいました。ところが、ここに出て来るサウロの姿、これほどまでに悩み、苦しんでいる姿が彼が回心したあとのことだとすれば、私たちのそうした期待は吹っ飛んでしまうのではないでしょうか。回心する前にはなかった悩みが、そのあと、これほどまでに出て来るとすれば、回心なんかしない方が良かったのではないか、でもそうは言えませんから、やはりここにあるのはサウロの回心前の姿であってほしい、そう思いたくなるのは当然といえば当然です。

 で、そのような読み方をしていくと、こうなります。24節でまことに激しい嘆きの叫びをあげたサウロが、次の25節で「わたしの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。」と言っています。そこで、これこそサウロ先生が言いたかったことなのだ、となるのです。つまり24節の嘆きの言葉はサウロの回心前、25節の喜びの言葉は回心のあと、つまり未信者が信者になり、信仰を持っていなかった者が信仰者になる、人生をかけたその劇的な転換がここに現れているのだと判断されるのです。

 

 しかしながら、この読み方には決定的な問題があるのです。25節をご覧下さい。「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」と語ったあと、サウロはこれに続けて「このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。」と言っています。もしもこの部分がなかったら、7章は神への感謝で終わっていてたいへん都合が良かったのですが、そうはなりませんでした。つまり25節の後半で、また悩みの告白が出て来ることをどう考えたらよいかということです。少し前、22節以降でサウロは、「『内なる人』としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。」と書いていましたが、ほぼ同じことが繰り返されているということを、皆さんはどうお読みになりますか。サウロは、イエス様を通して神に感謝しますと語ったあと、再び元の嘆きに戻っているのです。

 そこからわかることはなんでしょう。かりに「だれがわたしを救ってくれるでしょうか」という叫びが回心の前で、救われたあと神に感謝をささげたとしても、また前の悩みに戻っているということです。

ということはイエス・キリストを信じて、洗礼を受け、救われたあとでも、それですぐに神の恵みで清らかになり、喜びと希望に満ちた人生が始まり、完全に近い姿になるとは言えないということです。みんながみんなそうなのかわかりませんが、少なくともサウロの姿を見るとそうなるんですね。神に従ってゆこうとしながら、自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいるということをするという、一人の人間の中に分裂状態がまだまだずーっと続いていくのです。

 

 サウロがイエス・キリストを信じる人間になっても、苦しみ、嘆きがなくなったわけではなかった、これを残念だと思っている人がいると思います。でも、これで終わりはしません。

 もう一度サウロの歩みを復習してみましょう。キリスト教徒を見つけ次第、牢屋に放りこんでいた時のサウロには、彼がここで書いているような嘆きや叫びはありませんでした。嘆きや叫びどころか自信に満ち、これが神から自分に与えられた使命だと信じて、教会への迫害の先頭に立っていたのです。

 ところが、そのさ中にイエス・キリストとの出会いが起こり、彼は自分が神様のためにと思ってしていたことが、実は神への反逆であったことを示されたのです。自分が善を望み、それを熱心に行っていたはずなのに、実は望んでいない悪を行っていたことに気づかされたのです。

 イエス様と出会い、この方を救い主と信じ、回心したところから、サウロの嘆きと叫びが始まりました。サウロはのちに、自分がキリスト教徒を迫害した時、殺すことさえしたと語っています(使徒22:4)。自分が過去にどれほど恐ろしい罪を犯したのかと思う時、彼はそれに押しつぶされるほどになったのではないでしょうか。…過去のことばかりでありません。回心後、いくら清く正しく生きようと思っても、それに反する思いがすべて消えてしまうというのは、サウロであってもあったはずなのです。いくら深い信仰を持つ人であっても、その信仰がますます深まって完全な人間になるということは、少なくともこの世ではありえません。

 こうして見てゆきますと、サウロはイエス・キリストに出会ったことで、かえって自分の罪を嘆く者となったことがわかります。しかし、それはキリストに会わなかった方が良かったと言うのではありません。サウロの前に現れたキリストは、「お前はなんということをしてくれたんだ、お前を赦さない」と言われたのではありません。そうではなく、サウロをご自分の救いを世界に伝える器として立てられたのです。サウロの罪をご自分が身がわりになって負うことで、これを赦して下さったのです。サウロは神様のこのなさりよう、あまりに広いみこころに対する感謝の中で、自分の小ささを見つめて、嘆きを語っているのです。

 サウロはキリストと出会ったから、このような嘆きを知る者となったのです。そしてキリストとの出会いによって、そこから逃れる道も示されました。サウロが「死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」と言った時、その答えが示されました。「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。」この感謝は、「わたしたちの主イエス・キリストを通しての感謝」です。十字架の死と復活によって、罪と死に打ち勝ち、罪の赦しを実現して下さったイエス・キリストが自分の主となって下さった、そこに感謝の根拠があるのです。…そして、そこのところから、もう一度自分の心を見つめます。するとまた「わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです」ということが見えてきます。サウロの中にある分裂状態は、まだ克服されていないのです。しかし、それは、その前の状況と全く同じではありません。自分を救ってくれる根拠をサウロは見出しているのです。ですから、良からぬ思いが心にもたげてくるたびに、イエス・キリストを見つめ、イエス・キリストによって心を清めてもらえるのです。

 ですから、サウロにとって深刻な悩みがなくなって自信にあふれて生きることが救いなのではありません。むしろキリストによって自分の罪を示されつつ、みじめな自分を救って下さるのがキリストであられることを喜び、感謝するようになったのです。本当の感謝は、このようなことを言うのではないでしょうか。私たちは自分のことで、自分は金持ちだとか頭が良いとか、なんでも理由をつけて得意になるものですが、イエス・キリストの前では何の価値も持ちません。むしろみじめさを突きつけられた自分が、それでもこのお方によって救いに導かれ、価値のある人生を備えられていることを感謝したいのです。

 

(祈り)

 天の父なる神様。いまサウロの中にあった善悪二つの力の葛藤を知り、それが他人ではなく自分のこととして突きつけられたような思いがしています。私たちにとってサウロはこれまで、キリスト教の迫害者ではあったけども、やはり雲の上の人でありました。しかし今、サウロがたいへんな罪を犯したけれども、しかしそれを上回る神様の恵みによって生かされたことを知りました。サウロではなく、サウロを救われた神様がたたえられますように。私たちはサウロが回心前にしたことほど大きな罪を犯してはいないとは思いますが、しかしサウロのような、この世にはない恵みに生きるということであまりに足りないことを覚えます。神様、おそれおおいことですが、どうか十字架の主イエスが自分の犯した罪を見せて下さるように、しかしそれで終わることなく、これを上回る恵みを見せて下さい。主イエス・キリストの恵みによって、この祈りをお捧げします。アーメン。

   むさぼりの罪 

詩編88:2~14、ローマ7:7~13   2017.9.10

 

 使徒言行録を続けて学んできましたが、今日と来週は少し寄り道してローマの信徒への手紙を取り上げることとします。それは劇的な回心をとげてイエス・キリストを宣べ伝える者となったサウロの内面に分け入ってゆきたいと考えたからです。もしも回心後のサウロが完全で非のうちどころのない人物だったとしたら、私たちはそこからいったい何を学ぶことが出来るしょうか。サウロも自分と同じく、人生で悩むこともあればそれを克服するたたかいもあった、喜びも賛美もあったことを知ることで、私たちにとってこの人がもっと身近な存在になってゆくでしょう。

 

 サウロが回心した直後の頃、どのように過ごしていたのか、わからないことがたくさんあります。使徒言行録は、ダマスコで伝道していたもののユダヤ人に殺されそうになって、町の城壁から籠に乗って脱出し、エルサレムに向かったと書いています。これに対しガラテヤ書の1章では、回心してすぐアラビアに行った、そこからダマスコに戻り、3年後にエルサレムに行ったことになっています。サウロが行ったというアラビアとは参考書によれば、死海から南方100キロほどのところにあったナバテア王国の首都ペトラとされています。現在はヨルダンの中にあり、古代遺跡がたくさんの観光客を集めています。ただサウロがそこで何をしていたのか、どう過ごしていたのか、またその期間もわかりません。サウロが何も語っていないからです。

 使徒言行録にはサウロが何をした、どこに行ったかということは書いてありますが、彼の心の動きについてはあまり書いていません。一方、ローマの信徒への手紙にはサウロの心の動きが実に鮮明に記されています。今日の箇所がそうです、そしてこのあとの24節はこう書くのです。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」サウロは叫んでいます。救いを求めて叫んでいます。これは、彼の生涯のどの時点、どういう状況で発せられたのでしょうか。

 私は調べてみて、いろいろな考え方があってなあなか難しいことがわかりましたが、厳密に考えてゆくときりがないので、三つの可能性を想定してみました。

 第一の可能性は、サウロが青年になった時です。サウロがいくら優秀であっても、子どもの時にこんな深刻な悩みをするとは思えません。青年になって、人間の生きる目的は何か、人生どうあるべきかと真剣に考えた時に、この叫びが出たというものです。しかし、これはありえません。真剣に悩んだり考えたりした結果、クリスチャンへの迫害にのめりこむということがとても考えられないからです。

 

 第二の可能性は、サウロがクリスチャンを迫害していた時です。自分こそが正義だと信じ、神の敵とみなしたクリスチャンを迫害することに息をはずませていたサウロが、こんな深刻な悩みをするとは普通は考えられません。もっとも、意気込んで教会を荒らしまわっていながらも、心の片すみに自分はこんなことしていて良いのかという思いが芽生えていたということもなくはありませんが、その場合であっても、「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」とまで、叫ぶことはなかったはずです。

 そうなるとやはり第三の可能性、つまりサウロが回心したあとにこの叫びが出て来たと考えるほかありません。

 ローマの信徒への手紙が書かれたのは、西暦55年か56年ということがわかっていますが、サウロはその時初めて、救いを求めて叫んだとは思えません。それは、その時までの長い間の心の思いの集大成だったのでしょう。では、サウロが救いを求めたきっかけとは何だったのか、7章9節と10節の言葉がヒントになります。「わたしは、かつては律法とかかわりなく生きていました。しかし、掟が登場したとき、罪が生き返って、わたしは死にました。そして、命をもたらすはずの掟が、死に導くものであることがわかりました。」

 ここには、何回も説教しなくては語りきれない内容がつまっていますが、時系列で並べると3つに区分できます。まず「かつては」と言われている時期、その時サウロは律法と関わりなく生きていました。次が「掟が登場したとき」、罪が生き返って、わたしは死にましたというのですが、本人はそれをわかっていたでしょうか。「死にました」と言ってもこれはもちろんたとえでありまして、実際に死んだのではありません。そして、そのあとに「命をもたらすはずの掟が、死に導くものであることがわかりました」、これは第3の段階です。第1段階から第3段階まで、すべて律法とか掟に関わって、起こっています。

 ただ、こんな説明では皆さん、なかなかわからないと思います。そこで、サウロが体験したことが明らかにされなくてはなりません。

 

 私たち皆にとって、ロマ書はとっつきにくい書物です。特に中近東とは歴史や文化が大きく異なる日本ではなおさらです。しかし、ここにはヨーロッパだろうがアジアだろうがアフリカだろうが関係ない、全世界に共通する真理があるはずです、私たちはこれを見つけなくてはなりません。

 7章7節は、「では、どういうことになるのか。」から始まっています。これは明らかに前のところからつながっており、ページをめくっていきますとロマ書の最初まで行き着いてしまうので、7章4節をみてみましょう。「兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています。」

 

 ここで「キリストの体に結ばれて」というのは、洗礼を受けて教会に加えられたことを意味しています。洗礼を受けて救われたあなたがたは、律法に対しては死んだ者となったと。似たようなことが6節でも言われています。「しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。」

 律法に対して死んだ者は律法から解放されている。その理由は何かというとそれは6章14節が教えてくれています。「なぜなら、罪は、もはやあなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです。」…その恵みとは、十字架にかけられ死んだけれども、罪と死に打ち勝って復活されたイエス・キリストからいただく恵みにほかなりません。…ここには、人は洗礼を受けることによって律法から解放され、律法の下にはいない、それによってもはや罪に支配されない者とされたことが示されています。洗礼を受けてキリストの救いにあずかった者は、律法から解放され、そのことによって罪から解放されているのです。

 ここで律法について簡単に復習しておきましょう。律法とは神がかつてイスラエルの人々に与えられた掟でありまして、神の民がどのように歩むべきかを示したものです。人々はこれを守らなければならないとされました。そこには祭儀規定、社会の規範、さまざまな勧告などがありますが、その中心にあるのがモーセの十戒です。イスラエルの歴史の中では、人々が神に背き律法に違反した例はたくさんありましたが、しかしイエス様やサウロの生きた時代に律法はたいへん尊ばれるようになっていました。イスラエルの人々の多くは、自分たちに律法が与えられていることを誇りに思っていたはずです、他の民族にはこれはないのですから。

 さて、そういう人々に対し、サウロが「あなたがたは律法に対して死んだ者である」とか、「あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです」と教えたら、いったいどういうことになるのか、…だいたい想像がつくというものです。敬虔なユダヤ教徒の立場に立ってみましょう。律法はほかならぬ神からいただいたものです。こともあろうにサウロはそれを罪だというのか、となるのは間違いありません。彼らにとって、律法からの解放が罪からの解放だというサウロの教えは、我慢ならないものであったはずです。

 こうした批判に対し、サウロは自分が神をないがしろにしていないことを示さなければなりません。そこで自ら「律法は罪であろうか」という問いを出して、「決してそうではない」と答えたのです。サウロは決して、神から賜った律法を足で踏みつけようとしているのではありません。ではなぜ、律法からの解放が罪からの解放であって、救いなのでしょう。

そこでサウロは書き送ります。「しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。たとえば、律法が『むさぼるな』と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。ところが、罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました。律法がなければ罪は死んでいるのです」。

 「むさぼるな」、これはみだりにほしがるなということですが、これを命じた律法は十戒の中の第10の戒めです。私たちは先ほど「隣人の家を欲してはならない」と唱えました。これを短くまとめたのが「むさぼるな」です。

 サウロはもともとファリサイ派の熱心な活動家で、自分のことを「律法の義については落ち度のない者でした」(フィリピ3:6)と言えたほどの人でした。彼は十戒の殺すな、盗むな、姦淫するな、といった戒めをすべて守ることが出来ました。しかし、「むさぼるな」の戒めだけは違いました。というのは他の戒めは基本的に人間の行いを規定するものです。それは必ず外に現れるのです。これに対し「むさぼるな」、これは心の中のありようです。サウロは他の戒めをすべて守ったと自信をもって言えたのですが、この戒めだけは守ることが出来ませんでした。律法が「むさぼるな」と命じていても、その場でむさぼりの思いが自分の中でうずきだし、それを押さえることが出来ません。8節に書いてあるように、「罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こした」となったのでした。

 サウロが言おうとしていることを理解するためには、創世記のアダムとエバの話が助けになります、神は二人に、エデンの園にあるどの木からも自由に食べて良いけれども善悪の知識の木からは食べてはいけない、食べると死んでしまうと言われました。これは神が人間に与えた最初の掟でした。ところが、ご存じのように、アダムとエバは蛇の誘惑に乗って、禁断の木の実を食べてしまうのです。食べてはいけないと言われたことが、かえってむさぼりの罪を誘発し、二人はそれに負けてしまった、そうして神が言われた通り、人間は死という定めを背負うことになってしまったのです。

 ここに現れた神のなさりようを疑問に思う人がいます。「なぜ神様は、見た目においしく、好ましい木の実を置いて、人間をつまずかせたのだろう。もしかしたら、最初から守ることができない命令を与え、罰によって人間を委縮させ、従順にさせているのではないか」と。人間というのはだいたい、禁止されるとそれを破ってみたくなるものです。そんな掟を与えることこそ間違ってはいないか。そうしたことから、神様は意地悪な方であると見なす人も出て来ます。しかし間違ってはなりません。人間が掟を破ったからといって、掟を与えた神様が悪いのだとは言えないのです。

 エデンの園で、神が人間に与えた小さな掟は、神の恵みの下で人間が喜びをもっていきいきと生きるためのものだったのです。ところが罪は、本来は良いものであったこの掟を利用して、人間の心にむさぼりの思いを起こさせ、掟を破るように仕向け、人間を罪の支配下に置いてしまったのです。

 というわけで神から与えられた律法は決して罪ではありません。善いものであり聖なるものなのですが、罪が律法を利用して人間を陥れてしまうのです。どうしてそんなことになってしまうのかというと、神の恵みがあふれるところ、必ずサタンがやってきてこれを台無しにしようとするものだからです。サタンは本来素晴らしいものである律法を通して、人間を罪に引きずりこみましたが、神様に非があるのではなく、もちろん律法が罪であるのではなく、これに負けてしまった人間に非があるのです。その中にサウロと私たちがいるのです。

 

 もう一度7章9節と10節の言葉をみてみましょう。「わたしは、かつては律法とかかわりなく生きていました。しかし、掟が登場したとき、罪が生き返って、わたしは死にました。そして、命をもたらすはずの掟が、死に導くものであることがわかりました。」

 かつての、律法とかかわりなく生きていた時期とは、子ども時代のことでしょう。次の、掟が登場し、罪が生き返って、わたしは死んだというのは、ファリサイ派の時代のサウロです。そして、命をもたらすはずの掟が死に導くものであることがわかったのは、イエス・キリストとの出会いによってです。

 それまでのサウロは、自分は律法に従って正しく生きていると信じており、それゆえ自分には罪に陥っている人々を裁く権利があると見なし、クリスチャンを神に逆らう者として迫害していたのです。しかし復活して生きておられるイエス・キリストに出会った時、彼は、律法に忠実であろうとしていた自分の心に実は罪の支配がしのびこんでいたこと、罪は神がお与えになった聖なる律法を用いて自分を支配し、殺してしまったことを知って、愕然となったのです。

 こうしてサウロの、道を求めての怒涛の日々が始まりました。彼はそれ以来、、こうしたことをしじゅう考え、悩み、祈っていたように思います、「むさぼるな」の戒めを守ろうとしつつそれが出来ない自分に悩み、絶望もしました。…そして、その果てにイエス・キリストの恵みに目が開かれることになるのです。

 サウロのその歩みが、具体的にいつ、どのようになされたかというのはよくわかりません。ダマスコで伝道していた時、信仰の成長というところで見るとどの段階にあったかと問われても、材料がないのです。

 

ただ、たしかなことは、イエス・キリストの光に照らされた時、自分の罪が見えてくるということです。もしも私たちに自分の罪が見えていないとしたら、それはキリストに出会っていないからかもしれないのです。ですからもぐらのように光から逃れるのではなく、光のもとに歩んで行きましょう。そこにサウロの経験したような嘆きと叫びがあったとしても、その先に栄光が待っているのです。

(祈り)

 恵みに富みたもう天の父なる神様。

 私たちはむかしサウロが血のにじむような苦闘を続けていったことを、学び、追体験しています。これによって自分のなまぬるい信仰に直面してはいますが、そこから脱皮するための道筋を与えられていることを知って、感謝いたします。

 15世紀、16世紀に日本に来た宣教師たちは、日本がキリスト教を受け入れがたい所で、この教えをまるで沼のように呑みこんでしまうことを嘆いたといいます。罪を犯しても水に流せばそれですんでしまうような風土に、キリスト教は合っていないと思われたのです。私たちも先祖の血を引いていて、罪だの律法だのというのがまだよくわかりません。しかし、神様が特定の地域だけの神様ではなく、全世界の神様であられることを感謝いたします。日本がイスラエルや中東と比較してどんなに言葉が違い、文化が違っていても、神様のご支配は貫徹され、この国の私たちにも同じように罪の中から救いに至る道が開かれていることを思います。私たちにどうか、その道をまっすぐに歩ませて下さい。

 神様、いま世界は北朝鮮を巡って戦争の恐怖におびえています。問題はたいへんに複雑で、どこから解決していったらよいのかがわからない状況です。ただ、どこの国の人であっても、戦争によって、まして核爆弾によって殺されるようなことがあってはなりません。どうか平和を愛する神様の知恵と力が、世界に与えられますようにと祈ります。

 神様、広島長束教会の中の、困難の中にある兄弟姉妹に主にある希望を与えて下さい。特に病気に悩む者たちに、これとたたかう力を与えて下さい。とうとき主のみ名によって、この祈りをお捧げします。アーメン。

広島長束教会十字架cross
bottom of page