日本キリスト教会 広島長束教会
曲った時代から救われよ
詩編14:1b~7、使徒2:40~41 2016.7.10
今日は、ペンテコステの日に起こった一連の出来事のしめくくりの部分を学びます。
使徒ペトロが説教して、「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」と告げたとき、人々は驚愕し、おそれおののきました。というのは、みんなイエス様を、いわばなぶり殺しのようにして十字架にかけてしまったわけで、イエス様はいわば神に呪われた者として片づけられたのですが、しかし神はこのイエス様をなんと復活させ、それどことかメシアとしてご自分の右の座に着かせたというのですから、自分たちはいったいなんと恐ろしいことをしてしまったのだろうとなったのです。「わたしたちはどうしたらよいのですか」と問う人たちに、ペトロは答えました。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によってバプテスマを受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」
ここから今日の話が始まります。ペトロの話を聞いた人たちが洗礼を受け、こうして歴史上初めて、教会が誕生することになります。そこで40節ですが「ペトロは、このほかにもいろいろ話をして」と書いてあります。これは36節でいちおう説教が終わったあと第二の説教があったということでしょうか。それとも説教は一度だけだったのですが、36節までに書ききれない部分があったので、そのことをこうした形で書いておいたということでしょうか。両方の可能性がありますが、おそらくペトロによる第二の説教があったというのが本当のように思われます。というのは、38節のところでペトロは洗礼を受けることを勧めますが、人々はこの段階では洗礼のことをまだよく知りません。それでいて、その日、3000人もの人々が洗礼を受けています。ペトロにただひとこと洗礼を勧められて、一度にこれほど多くの人が受洗するというのはちょっと信じられないし、また望ましいことではありません。そこには人々を十分に納得させるだけの説明があったというのが普通です。そうしますと、やはり聖書には書ききれなかった第二の説教があって、そこで洗礼についてしっかり教えられたということだと思われます。
40節、「ペトロは、いろいろ話をして」、これは説教です。力強く証しした、証しというのは、神がなさって下さったみわざを語ることで、これも説教と考えて間違いありません。勧める、これも当然、説教です。
これらが第二の説教で、その中に、洗礼についてさらに説明し、これを勧める内容があったものと考えられます。 この洗礼はイエス・キリストの名による洗礼です。ただ水で洗い流せば良いというものではありません。またイエス様以外のほかの誰の名前によるのでもありません。
世界と私たちの人生を苦しみの渦に投げ込み、滅びと死を来らせるもの、そこに必ず罪があります。神に背くことが罪です。そして罪を本当に赦す権威と力を持っているのは神様だけなのです。イエス・キリストの名によって洗礼を受けることは、神様による罪の赦しをいただくことにほかなりません。イエス様こそが、世界のすべての罪を一身に背負って十字架にかかって下さったからで、この方を信じ、そこに人生をかけることにこそ罪から救われて、人として本来あるべき道が開かれるのです。
イエス・キリストの名による洗礼の根本は悔い改めでなければなりません。自分が、神に等しいお方、いや神ご自身をこともあろうに十字架につけてしまった罪を直視して、この罪を洗い流すことを願うのです。それまでは、イエス様を神の子とも救い主とも思っていなかったのです。お前がメシアだったら、自分を救って十字架から降りて来い、とののしった人たちの一人だったのです。キリストともあろう方が黙って十字架刑を引き受けられるわけはないという思い込みがあったのです。その段階から考え方を転換し、十字架にかけられたのがほかならぬキリストであるとするのは、例えて言うと地球のまわりを太陽が回っていると信じていた人が、それは間違いで地球こそ太陽のまわりを回っているのだとわかるようなことで、簡単なことではありません。しかし神はこれをなしとげられます。
ただ、ここで新たに、悔い改めの表明が足りない者は洗礼を受ける資格がないのかという問題が起こってきます。人が洗礼を受けようという時に、「あなたは何にもわかっていない、だから洗礼を授けられない」と言われて拒絶されることがあって良いでしょうか。その典型が子供です。何にもわかっていない子供に洗礼を授けて良いのかどうかは古来から大きな問題でした。しかし39節に「あなたがたの子供にも」と言われているように、子供も救いの約束の中に入っています。この日に洗礼を受けた子供がいたかどうかはわかりませんが、悔い改めの何たるかもわかっていない子供たちにも主イエスの祝福は届いています。主イエスは、「幼な子が来るのをとどめてはならない」と言われているからです。…もっとも、何もわかってなくても洗礼を受けて良いのだと言うことにはなりません。もしここに、自分は悔い改めが足りないまま洗礼を受けてしまったという人がいたとしても、今この瞬間から、新しい歩みが始まるのです。常に悔い改め、罪の赦しを受けて生きることこそ、キリスト者の人生でなくてはなりません。
さて、ここでペトロは「邪悪なこの時代から救われなさい」と教えました。ここから、洗礼を受けることと、邪悪な時代から救われなさいということがどういう関係にあるのかという問題が出て来ますが、これがよくわかりません。2000年にわたるキリスト教神学の発展の中で、洗礼と邪悪な時代から救われることを直接結びつけて教えているものが見当たらず、教理として確立しているとは言えないからです。しかし、それでもこの教えが大切なことは確かです。私たちを見ても、邪悪な時代から救われるどころか、邪悪な時代にうまく乗っかって、利益のおこぼれにあずかろうとすることが多いかもしれません。心しておきたいものです。
邪悪なこの時代、ここで言う時代というのは人間が作るものです。地球の歴史の中ではジュラ期とか白亜紀といった時代区分がありますが、ここでは関係がありません。人間が地球の主人公となって以降、古代、中世、近世、近代、現代、あるいは平安時代、鎌倉時代、安土桃山時代、江戸時代といった時代区分が出来たわけですね。人間誰もがその時代を生きています。…「時代が悪いよ」という言い方があります。何かうまくゆかないと時代のせいにすることがあるのですが、一人ひとりに関係ないところで時代が動いて行くのではありません。時代というのは人間が作る部分が多く、…もちろん社会の大きな流れの中で個人の力は小さくて、自分の力で新しい時代を作って行くのはたいへん難しいのですが、それでも一人ひとりの人間がその時代の一員であり、わずかなりともその時代を担っています。
ペトロはなぜ「邪悪なこの時代から救われなさい」と言ったのでしょう。この時代、いろいろなことがあったにしてもすべての人が邪悪だったわけではないでしょう。邪悪な時代などと言われたら、そんなことありません、善い人もたくさんいますと反論する人もいたでしょう。…しかしながら、神の目には邪悪な時代に過ぎなかったのです。すでに生前のイエス・キリストも「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしは、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか」(ルカ9:41)と言われていました。人となられた神、イエス様がおられたのは人間の罪とその匂いがむんむんする耐え難い時代であったのです。その罪はほかならぬイエス様を十字架につけるということで、頂点に達しました。いま12使徒と人々がいるのは、その意味で歴史の頂点とも言うべき時代です。
そこで、私たちの中にはこう思う人がいるかもしれません。「これは確かに邪悪な時代だった。イエス様を殺してしまったのだから。その時代に生きていた人たちすべてがたいへんな罪を犯している。しかし、今の時代は違う。自分はイエス様を殺したわけではないから、毎日を良心の呵責などなく公明正大、正々堂々と生きていける」と。
しかし、これは聖書が教えているのとは違う考えです。主イエスはルカ福音書11章50節以下でこう教えておられます。「天地創造の時から流されたすべての預言者の血について、今の時代の者たちが責任を問われることになる。それは、アベルの血から、祭壇と聖所の間で殺されたゼカルヤの血にまで及ぶ。」
単純化して言いますと、紀元1世紀の人々は自分たちは悪いことをしていないと思っていました。しかし、イエス様はそのあなたがたが責任を問われることになると言われるのです。自分の手で預言者を殺したわけではない人々がなぜそう言われなければならないのかと言うと、それは過去の出来事をうやむやにしているからです。その結果、イエス様を十字架につけたのです。…この論法で行けば、私たち21世紀の人間も直接イエス様を十字架につけたわけではありません。しかし、イエス様の死をうやむやにしてしまうとしたら、そこで大変な罪を招き寄せていると言わなければなりません。
現代と紀元1世紀を比べて、現代はあの時代よりずっと善い時代だと言い切ることは出来ないでしょう。全く違う時代を比較するのは難しいですが、ただ神様の目には現代も邪悪な時代であると映っているに違いありません。
では、この邪悪な時代に生きる私たちは、その時代と共に裁かれて、滅びなければならないのでしょうか。決してそうではありません。「邪悪なこの時代から救われなさい」と言われているからです。
一つの時代がどうにもならない悪い状態になった時、神はご自分を信仰する者を救い出されます。大洪水の時、ノアの一家を救い出されてそのみこころを現された神は、この日、洗礼を施すことによって人々を救い出されます。
この日、3000人もの人が洗礼を受けたということは驚きですが、人数がいちばん大きな問題ではありません。ここに邪悪な時代と歩みを共にしないという人々が、神の導きの下に教会を誕生させたのです。…ですから私たちの中の多くの者が授けられている洗礼にも、やはり邪悪な時代と歩みを共にしないという御導きがあるのです。
最後になりますが、邪悪な時代から救われなさいという呼びかけは、信者の具体的な生活においてどのような形で現れるのでしょうか。私たちには、修道院にこもって世俗との交わりを断ち、ひたすら清く正しく美しく暮らすという選択肢はありません。世界のプロテスタント教会の中では近年、修道院を見直す動きが起こっているようですが、今日はこれ以上ふれません。私たちは誰もが、邪悪な時代の中で、多かれ少なかれのたうちまわって生きています。その中には、自分の良心に反することであってもそれをしなければ生きていけないという現実があります。そのことは会社員であっても、学校の先生であっても、家庭婦人であっても、また教会に勤める者であっても起こることなのです。
ただ聖書を調べてみると、イエス様は不正なお金の取り立てをしていて、あとで反省したザアカイに対して、仕事をやめろとまでは言わなかったわけです。同じような例がいくつもあります。邪悪な世の中で、不正に手を染めて生きざるをえないこともある人々に対して、イエス・キリストはそれを良しとしたり、仕方がないんだと言って認めることはありませんが、その反対に、すぐに仕事をやめなさいと言われることもなく、その人の置かれたつらい立場に寄り添って最善の道を示して下さいます。私たちはそこに希望の光を見出して、歩むことが出来るのです。
(祈り)
主イエス・キリストの父なる神様、それゆえに恵みに富みたもう神様。私たちの人生にこうして礼拝の時が与えられ、おそれ多くも神様と向かい合う中で、神様から知恵と力、喜びと希望をたまわったことを感謝申し上げます。
神様、私たちは誰もがおもいわずらいの中にあります。どうやったら仕事がうまく行くか、家計が安定するか、人間関係をどうしよう、病気にならないためにはどうしたらよいかと。どれも大切なことですが、どうか私たちみんなが神様に創造され、それゆえに救いへと導かれていることこそを礼拝と日々の生活の中で常に確認して行く者として下さい。神様は、私たちがよこしまな、曲った時代の中でそれに染まることを望んでおられませんし、逆に清さを守るあまり滅んでしまうことも求めておられません。私たちの前にあるのは狭い道ですが、どうか皆がその道を全うすることが出来るよう、今も生きて輝くイエス様の言葉によって力づけて下さい。
神様、今日は大切な国政選挙の日です。日本が今後、平和国家として歩み、また人権の上でも経済の上でも世界に貢献し、世界で名誉ある地位を占めることが出来ますように、そのためにこの選挙が用いられるようにと願います。
神様、午後にもたれますあじさいコンサートの上にも、格別の恵みをお願いいたします。演奏家がその持っているいちばん良いものを出して、これをお客さんと分かち合い、こうして与えられる音楽の喜びが、会場いっぱいにあふれますようにと願います。
今日、この日の上に神様の御祝福を願います。主イエス・キリストの御名によってこの祈りをお捧げします。
アーメン。
悔い改めと罪の赦し
エゼ18:30~32、使徒2:36~39 2016.7.3
「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」
ペトロが説教の終わりにこう宣言した時、人々は大いに心を打たれました。これは口語訳聖書では「強く心を刺され」となっておりまして、感動したというような気楽なものではありません。自分たちはとんでもないことをしてしまったというおそれとおののきの気持ちがそこにあります。この時、人々は、ペトロやほかの使徒に、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言うしか出来ませんでした。
人々に心の転換をもたらしたペトロの説教は、2章14節から36節まで書いてあり、私たちは2回にわたって学びました。これがなぜ、人々の心に大きな反応を呼び起こしたかということから、考えてみましょう。
ペトロの説教は、今私たちが読んでみると、比較的地味なもののように見えます。旧約聖書を4回引用しただけの、まるで学校の授業みたいなものだからです。今日、いろいろな伝道集会に出て見ると、まるでアジ演説のような、激しい言葉で説教をする人がいますが、それとは違います。また、面白いことを言って、聴衆を笑わせ、楽しませてくれるような説教でもありません。ペトロは、神様の前にただただ謙遜でありまして、小細工も派手なパフォーマンスも一切用いないで、人々を諄々と説得していった様子がうかがえるのです。
ただペトロは、この時、人々の罪をえぐることを忘れません。説教者がもしも人々から気に入られることだけを意図しているなら、そんな話は一切口にしないに限ります。しかしペトロは単刀直入に、あなたがたは神から遣わされた方、イエスを十字架につけて殺してしまったのだと言うのです。
ペトロがこのように、人々に自分の罪を突きつけたことについて、やりすぎではないかという人がおられるかもしれません。おそらくここには、イエス様を直接十字架にかけ、釘で手足を打ちつけたローマの兵士はいなかったでしょう。人々のほとんどは、イエス様をいわば外野席から取り巻いて、わーわー言っていただけなのです。何にも言わず、ただ見物していただけの人もいました。だからイエス様に直接手を下したわけではありません。仮に、人々をこの世の裁判の席に引き出したとしたら、軽い罰が宣告されるか、あるいは無罪放免ですむはずです。…しかしながら、神様の前ではどうなのか、主イエスの教えに照らして、人々は正しかったのかということが問われなければなりません。
主イエスはマタイ福音書23章29節以下でこうおっしゃっておられます。「あなたたち偽善者は不幸だ。
預言者の墓を建てたり、正しい人の記念碑を飾ったりしているからだ。そして、『もし先祖の時代に生きていても、預言者の血を流す側にはつかなかったであろう』などと言う。こうして、自分が預言者を殺した者たちの子孫であることを、自ら証明している。」
このイエス様の言葉は相当に辛辣で、すぐには理解しにくいと思います。昔の預言者の墓を建てたり、正しい人の記念碑を飾ったりすることが、なぜいけないのでしょう。普通なら、これは賞賛すべきことです。しかし、よく考えてみると、彼らは昔の預言者や正しい人をただ高いところにまつりあげているだけなのです。「もし先祖の時代に生きていても、預言者の血を流す側にはつかなかったであろう」とはよく言ったものです。偽善者はみな同じようなことを言うものです。
イエス様がこれを言われたのは、十字架が目の前に迫っていた時でした。「あなたたち偽善者」と言われた人たちは、いま彼らの先祖たちのした悪事の最後の総仕上げをしようとしています。それが、イエス様を殺そうとすることです。…そうしてイエス様がついに十字架上で死なれると、あくまでもイエス様に反対するという人たち以外の大部分の人たちは、今度は「おいたわしい」などと同情の気持ちを表すようになりました。そして、この人たちの子孫の代になると、今度は「自分がその場にいたら、イエス様を死なせはしなかったのに」などと言うようになっていったのです。
神様はこういう人たちをどうご覧になるでしょう。…直接イエス様を手にかけた人だけが有罪なのではありません。その場でただ見物していたような人たちは、この世の法では無罪かもしれませんが、神様の前では明らかに有罪なのです。ペトロは「あなたがたが十字架で殺したイエス」と言いましたが、それは、あなたがたの罪がそういうことをしたという意味です。
イエス様の死によって私たち自身の罪が問われています。十字架を横で見物していた人たち、あとになって言い訳してごまかしてしまう人たちと私たちは、どこが違っていますか。…私たちは確かにイエス様を直接手にかけるようなことはしていません。しかし、イエス様のことをおいたわしいとか、「もしその時代に生きていても、イエス様の血を流す側にはつかなかったであろう」など、通り一遍な言葉で片づけているのではないでしょうか。たとえイエス様の記念碑を建てたとしても、それで罪が消えるわけではありません。こうして私たちも、イエス様の十字架を見物して、いまペトロの説教を聞いたばかりの人々と同類であることが明らかになるのです。
先に進みます。ペトロの説教を聞いて人々がおそれおののいたのは、自分たちがとんでもないことをしたことを知ってしまったからです。イエス様の復活とそのあとに起こったことが、ペトロの言葉の正しさを認めさせることにな
りました。…仮にイエス様が死んだまま復活されなかったとしたら、人々はこの方が神から遣わされた方だということを信じなかったと思います。イエス様は、神に呪われた者の一人として片づけられたはずです。しかし、このイエス様が死から甦り、天に上げられ、メシアとなられたというのは、人々にとって言葉では表せないほどの衝撃であったと思われます。人々は自分たちが神に反逆したことを知ったのです。
ただ、皆さんの中にはこういう人がおられるかもしれません。「復活は簡単に信じられるものではないだろう。人々はイエス様の復活をその目で見ていないし、この日まで聞いてもいなかった。復活について半信半疑なのに、どうして天に上げられたことやメシアになられたことを信じることが出来るだろうか。」…その辺の事情については、聖書に書いてあることからはよくわかりません。ただ、人々はその日、突然、聖霊に満たされて福音を語りだした一団の人々をその目で見ました。そしてペトロの説教を聞いて、イエス様の死と復活、昇天と聖霊降臨がすでに聖書に、この場合は旧約聖書に書かれ、預言されていたことを教えられたわけです。神がすでに告知なさったそのみこころの中でこの出来事が起こっている、ということを知ったことがいわば決定打となって、イエス様の復活も昇天も、メシアとなられたことも、信ずるようになったのではないでしょうか。
人々が、自分たちに突き付けられた事実を悟って驚愕し、恐れ、取り乱して、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言って、助けを求めた時、ペトロは答えました、「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によってバプテスマを受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」
この中でまず悔い改めですが、イエス様が伝道を始められた時の第一声が「悔い改めよ」であったことはよく知られています。マルティン・ルターも宗教改革ののろしを上げた95か条の提言の第1条で、イエス・キリストは信仰者の全生涯は悔い改めであることを欲するとだと書きました。悔い改めという言葉には、「悔い」ということが含まれていますから、自分が犯した罪を悔い、それを告白することは不可欠です。ただ、過去を悔いているだけで、実質的な転換が始まらないということもあります。本当の悔い改めには、罪を悔いることだけでなく、これを通して生まれ変わる、つまり新しく生まれるということがなくてはなりません。
次に、「バプテスマを受け、罪を赦していただきなさい」です。悔い改めた人がバプテスマを受けるわけですが、悔い改めから、すぐに罪の赦しへと直行していないことに注意して下さい。悔い改めたら、すぐに罪が赦されるというものではありません。
かりにAさんがBさんに対して、何か罪を犯したとします。Aさんが悔い改めてBさんに対して謝罪し、そこでBさんが赦してくれたとしても、それだけではこの件は解決しません。というのはAさんはBさんに対してだけでなく、神様に対しても罪を犯したからです。Aさんが、神様から罪を赦して頂くためには、イエス様を救い主と信じ、その御名によって洗礼を受けていなければなりません。そのことによってこそ、罪の赦しの恵みにあずかることが出来るのです。
内村鑑三や矢内原忠雄など無教会主義の人は、悔い改めこそ大切なのであって洗礼はそうではないと言います。これはおかしいぞと思って調べてみると、無教会主義の集会では洗礼を行わないのです。いくら内村先生や矢内原先生が言われることであっても、洗礼否定論は絶対に認めることは出来ません。だいいち洗礼は、イエス様ご自身が制定なさったものです。イエス様は、これをすべての民に授けなさいと言われているのです。
ただ私には、洗礼否定論が出て来る背景がわかるような気がします。それは洗礼が貶められているという現実があるからです。…自分は洗礼を受けているから罪はみんな赦されているのだと安心して、とんでもない悪事にふける人がいないとも限りません。洗礼は免罪符ではないのです。洗礼を受けることで、自動的に罪の赦しが与えられると思ってしまうと信仰の迷路に入ってしまうことになります。…人はイエス様を信じ、洗礼を受けることで神の子となりますが、それは人を悔い改めから遠ざけるものではありません。
かえってその人は、ますます悔い改めに励み、日々新しく生まれ変わり、神から罪の赦しにあずかりつつ歩むのです。…洗礼という儀式が自動的に罪の赦しを実現するわけではありません。しかし洗礼において、主イエス・キリストによる神様の恵みとして、罪の赦しが与えられるのです。
その次が、「そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」です。悔い改めて洗礼を受け、さらに日々悔い改めて罪の赦しの恵みを受けつつ人生を歩む者は、聖霊を賜物として受けるのです。…これは、聖霊を受けたら何か気持ちが良くなるということではありません。何か人を驚かすような賜物、たとえば奇跡を起こして病気を治す力が与えられるということでもありません。ペトロはここで、自分たちが受けた聖霊があなたがたにも与えられることを告げています。みんながこうして使徒たちの仲間となり、教会をつくり、神の民となるのです。
このように出来事が展開して行くことは、人々にとって全く驚きであったに違いありません。というのは、人々は神から遣わされた方、イエス様を自分たちが見捨てて殺してしまったということで恐れおののいていたわけですが、その時、思いがけなくも、この自分たちの上にほかならぬ神のみ手が差し伸べられていることを知ったのです。39節で言われているように、神の約束はこの人々にも、子孫にも、さらに遠くにいるすべての人たち、つまり言葉や民族の違いを超えてイエス・キリストが招いて下さる者すべてに与えられたのです。こうして新しい時代が始まりました。
(祈り)
私たちの主、イエス・キリストの父なる神様。神様がこの場を用意なさり、私たちの礼拝を受け入れて下さることを信じて、感謝申し上げます。
今日の説教の題は「悔い改めと罪の赦し」です。私たちの中には、悔い改めにしても罪の赦しにしても、もう何回も聞いているという思いがあったかもしれません。しかし聖書から、そんなことを思うだけでも罪であることを知らされることになりました。まことに、私たちの主であるイエス・キリストは、「悔い改めよ」と言われた時、信仰者の全生涯が悔い改めであることを願われたのです。今ここにいる、すでに洗礼を受けた者はもちろん、これから洗礼を受けようとする者も共に、この自分のために十字架につかれたイエス様を見上げて、残された生涯を自分の罪を悔いつつ、しかし常に新しく生まれることを喜びの内に信じさせて下さい。 私たちは神様の恵みの支配を確信するからこそ、この恵みがひとりでも多くの人たちにも与えられますようにと、祈ります。
このあと行われる聖餐式が、私たちの信仰の確信をさらに強めるものでありますように。
神様、いま私たちの国には、神様の助けを仰がなければならない多くの困難があります。九州を襲い、また今後いつどこに起こるかわからない地震のことが心配です。沖縄県はいま悲しみの中にあります。7月10日にはきわめて重要な選挙が行われます。神様、今どうか広島長束教会と日本にあるすべての教会を強め、神様こそがこの国と国民を率いておられることを天下に示して下さい。
主イエス・キリストのみ名によって、この祈りをお捧げします。アーメン。
先週の19日は牧師名古屋教会へ出張の為、更新をお休みしました。
混沌を支配なさる神
ヨブ40:15~41:26、黙13:4 2016.6.26
今日は、ヨブ記の中から、神がベヘモットとレビヤタンについて教えられたところを学びます。
これは、苦しみのどん底から神を求め続けたヨブに対し、神が語った言葉の中にあります。ヨブの前についに現れた神は、ご自身が宇宙とこの世界を創造されたことと、その中に今この時も貫き通される神の力の数々を述べて、お前はその時どこにいたのか、こんなことが出来るのか…、とたたみかけるように尋ねられます。…ヨブはとうとう「わたしは軽々しくものを申しました。どうしてあなたに反論などできましょう」と言うことになりました。神のご支配が宇宙とこの世界の中に貫いていることを見たヨブは、神様に向かって自分が正しいなどと言うことは、被造物としての分をわきまえないことであることがわかったのです。…それはヨブの、神に対する敗北宣言にほかなりません。しかしそれは、どうせ神様には何を言ってもむだだというようなあきらめから来るものではありません。というのは神様に対して敗北宣言をするというのは、同時にサタンに対する勝利宣言だからです。
もっともヨブにしても、一直線にそういう境地に達したということではありません。ヨブはこの段階では、自分の口に手を当てて、神様に対して自分の主張などいたしませんと言っています。この時は、内心では「神様はそうおっしゃるけど、やっぱり…」というところがあったかもしれません。しかし、だんだんその思いは変えられて行き、やがて自分の思いと言葉が完全に一致するようになってゆくのですが、それを導いたのが40章15節からの神の言葉と考えられます。
そこにはベヘモットとかレビヤタンとか、聞きなれないものが出て来ますが、これはいったい何でしょう。
まずベヘモットですが、これは口語訳聖書では河馬と書いています。「河馬を見よ、これはあなたと同様にわたしが造ったもの」というようになっています。では、新共同訳聖書ではなぜベヘモットとなっているのかということになりますが、ベヘモットというのは、一般に動物を表す言葉で、旧約聖書ではここのほかにも用いられ、そこでは「野獣」とか「獣」と訳されています。ただ口語訳聖書では、ここを「野獣を見よ」とか「獣を見よ」とかするわけにはいかず、ここに当てはまる動物は何かと考えたあげく河馬にしたようです。
河馬はご存じのように体が大きく、体長は4メートル以上、高さが約1メートル半、体重が2トンから3トンあります。日中はおもに水の中で過ごし、夜になると陸に上がります。
現在は、アフリカのサハラ砂漠以南の河や湖に棲息していますが、昔はエジプトのナイル川にも住んでいたということです。
そこでヨブ記を見ますと、「見よ、腰の力と腹筋の勢いを。尾は杉の枝のようにたわみ、腿の筋は固く絡み合っている」というのは頷けますが、「骨は青銅の管、骨組みは鋼鉄の棒を組み合わせたようだ」というのはどうでしょうか。こうして「これこそ神の傑作、造り主をおいて剣をそれに突きつける者はない」となって行くのですが、ここを読んで、その通りだと納得する人と、河馬について書いたとしたらちょっと大げさではないかという人がいて決着がついていません。…23節に「ヨルダンが口に流れ込んでも」と書いてありますが、ヨルダン川に河馬がいたのかどうかは不明です。そして24節の「まともに捕えたり、罠にかけてその鼻を貫きうるものがあろうか」、…神様はここで、ベヘモットは人間がつかまえたり、致命傷を負わせたりすることが出来るのかと言われるのですが、これが河馬に当てはまるでしょうか。人間は河馬をつかまえることが出来るのです。
私はここでベヘモットと言われるものは、河馬をモデルにしていたとしても、ただそれにとどまらず、人間の力の及ばない怪獣といったものがイメージされているのだと考えます。ベヘモットが人間の力の到底及ばないものであっても、神がこれを造り、神だけがこれを征服しうるのです。
次がレビヤタンですが、口語訳聖書ではわにと書いています。私たちが水辺にいる時にもしもわにに出くわしたら、命はないかもしれません。わには恐ろしい動物です。41章18節は、「剣も槍も、矢も投げ槍も、彼を突き刺すことはできない。鉄の武器も麦藁となる、青銅も腐った木となる」と書きます。続いて、「弓を射ても彼を追うことはできず、石投げ紐の石ももみ殻に変わる。彼はこん棒を藁と見なし、投げ槍のうなりを笑う。」こういうことは、現実のわににぴったり当てはまるということでは皆さん異存はないと思います。
しかし、ここにはそれ以上のことが書いてあるとしか思えません。40章25節の「お前はレビヤタンを鉤にかけて引き上げ、その舌を縄で捕えて、屈服させることができるか」、…私たちには無理だとしても、わにをつかまえることの出来る人はいるわけですから、これがわにに当てはまるとは思えません。…また41章4節以降にレビヤタンの体の各部の説明があり、わにに当てはまることも多いのですが、11節では「口からは火炎が噴き出し、火の粉が飛び散る」、…23節では「深い淵を煮えたぎる鍋のように沸き上がらせ、海をるつぼにする」、25節は「この地上に、彼を支配する者はいない」、こうなってくると、とてもわにではつとまりません。ということで、レビヤタンはわになどではなく、海の怪獣ではないかということになって行くのです。
海は恐ろしいところです。ヨブが生きていた時代はもとより、つい19世紀ごろまで、海には怪物がいると信じられており、屈強な船乗りにとっても恐怖の的だったのです。
聖書は、創世記の1章21節、天地創造の第五の日のところで「神は水に群がるもの、すなわち大きな怪物、うごめく生き物をそれぞれに、…創造された。」と書いています。またこういう箇所もあります。「その日、主は厳しく、大きく、強い剣をもって、逃げる蛇レビヤタン、曲がりくねる蛇レビヤタンを罰し、また海にいる竜を殺される」、これはイザヤ書27章1節です。海の怪物のことが本当に信じられていた、そういう時代背景の中では、神がここで語ったことはたいへんなリアリティーを持って人々に迫っていたことでしょう。皆さんにもそういう気持ちを想像して頂きたいと思います。…ここで41章17節を見てみましょう。「彼が立ち上がれば神々もおののき、取り乱して、逃げ惑う。」「神々もおののき」とは何のことかと思われるかもしれません。これは異教の神々のことです。海の怪物レビヤタンの前には、人間たちはもちろん、異教の神々も恐れおののくばかりだということです。
しかし、ここに大切なことがあります。神は、誰もレビヤタンにはかなわない、あきらめなさいと言われているのではないのです。人間たちも異教の神々もレビヤタンの前に恐れおののくしかないけれども、神は41章3節でこう言われます。「天の下にあるすべてのものはわたしのものだ。」ですから無敵の怪物レビヤタンであっても、まことの神ヤハウェだけはこれを支配したもうということです。私たちはそのように読んで行かなくてはいけません。
神はすでにベヘモットについても、「これこそ神の傑作」としながら、「造り主をおいて剣をそれに突きつける者はない」と言われていました。それはベヘモットやレビヤタンがいくら強大な力を持っていると言っても、あくまでも神の下にあり、神のご支配に服しているものだということなのです。
いま日本には怪獣が出て来る映像作品がたくさんあって、それらを見てゆけば、ウルトラマンなどが出てきて割合簡単に怪獣を倒してしまうので、怪獣のイメージが安っぽくなってしまいました。しかしウルトラマンの助けもなしに怪獣と闘うとなるとこれは大変なことです。昔の人にとって、怪獣というのはまさに恐怖の対象であったのです。…しかし海の怪物なんか実際にはいないじゃないかとなると、神様がおっしゃったことに何の意味があるのかということになりかねません。そこで、問題を整理して考えてみましょう。
まず、ここでベヘモットもレビヤタンも、これが何か特定することは出来ません。これは河馬である、わにであるとして、この並外れて大きな力を持っている生き物を創造したのがまさに神である、と言うことも出来なくはないのですが、かなり苦しい説明になります。
ではベヘモットもレビヤタンも実際には存在しない怪獣か何かなのでしょうか。しかしそれでは、古代人を納得させることは出来ても現代人を納得させることは出来ません。神が実際にはありもしない怪獣のことをヨブに語って、神の偉大さを納得させたとなると、神はヨブをだましたことになりかねないからです。…ベヘモットとレビヤタンが河馬でもわにでもなく、また神がうそをついているのでもないとするなら、第三の答えを見つけなければなりません。そこで考えられることは、ベヘモットもレビヤタンもそれぞれ河馬やわにをモデルとしているとはいっても、そこに留まるのではなく、怪物として描かれているということです。ヨブやこの時代の人たちは怪物の存在を信じていたでしょう。では現代人はどうなのか、現代人のほとんどは怪物の存在を信じません。しかし目には見えなくとも世界に恐るべきことをもたらす存在を否定することは出来ないでしょう。…ベヘモットもレビヤタンも、世界に混沌をもたらす力を象徴していると考えることが出来るのです。
混沌というのは、世界の初めから存在しました。創世記1章2節、これは「初めに、神は天地を創造された」に続くところですが、「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、…」と書かれています。ヨブが一人で格闘した相手は、全世界を覆う混沌だと言って良いでしょう。この闘いにヨブは勝つことが出来ませんでした。しかし神は、それは当たり前だ、お前が闘える相手ではないと言われるのです。ヨブが、自分は絶対に正しい、おかしいのは神様だと考えて、人間の力だけで闘おうとした時、敗北は定まっていたのです。それは神様を第一としない限り、勝つことの出来ない闘いであったからです。 私が高校生の時、倫理社会の授業で、17世紀のイギリスに生きたホッブスという人のことを勉強しました。この人は「リヴァイアサン」という本を書きました。リヴァイアサンとはレビヤタンの英語名です。
私はこの本を読んでないので偉そうなことは言えないのですが、はなはだ不十分ながらまとめてみるとだいたいこういう内容のようです、人間というのは誰もが生まれつき悪であるので、みんなが自分の欲望を追及していくと争いあい、人間は人間にとってオオカミとなって、社会は「万人の万人に対する闘争」になってしまう。だから契約に基づく国家が必要で、王が権力をもち、各人が王の命令を絶対のものとして服従することで、世の中が平和になり、人々は安全に暮らせるというものです。
ホッブスのいうリヴァイアサンというのは国です、国家です。国家の中には、国民をとことん愛し、思いやりを忘れない理想的なものも、もしかしたらあるかもしれませんが、しかしそこに怪物的な側面があることは否定できないでしょう。ホッブスは、人間はこの怪物に頼らなければ生きていけないことを説いているようです。
歴史上、多くの国が戦争を起こしたり、また自国民を迫害したり、貧しい国民から富を吸い上げてきたりしてきました。国民のほとんどは、自国をよりよいものに変えて行くだけの力を持っていないし、さりとて別の国に逃げることも出来ず、不満を抱えながらもそこで生きて行くしかないのです。…しかし、聖書に照らして考えると、神は国家という怪物よりも強くていらっしゃる。それがどんなに強い力を持っていても、永久に続くものではなく、神はこれをはるかに超えておられるということが教えられます。人はしばしば怪物に対抗するために、自分の力に頼ろうとしますが、それではとうてい目的を達することは出来ません。そうしてさらに混沌の中に陥っていくほかありません。しかし神は違う道を備えて下さるのです。 もちろんこの世を覆う混沌の怪物は国家ばかりではありません。ヨブが闘った相手は因果応報の原理であり、また人間の人間に対する差別や搾取、病と死を前にした人間の無力など人間の罪から来るありとあらゆるものがあったのですが、
それらは多かれ少なかれ私たちの人生にも立ちふさがってくるものです。私たちも人間の力でそれと闘おうとし、しばしば失敗します。そうすると神様を恨んだり、あきらめと絶望に打ちのめされたりします。しかし、神様はどのような混沌の怪物であっても、その上に立っておられるお方です。これに打ち勝つ力を持っておられ、その道を指し示して下さいます。ヨブはこの神に心服することによって苦しみからの救いの光を見出し、実際そのようになったのです。このことが私たちの上にも起こって行くことを願います。
(祈り)
イエス・キリストの父なる神様。あなたが私たちの七日の歩みを導き、今日もこうしてみ前に集めて下さったことを喜び、感謝いたします。
神様、私たちは聖書の言葉にふれると、最初はとっつきにくく、これが自分たちに何の関係があるのかと思うこともあります。しかし、私たちには意味のない言葉がそこに書かれているのではありません。今日のところで、ベヘモットやレビヤタンが出てきました。正体がわからないながら巨大な力をもって迫ってくるものがあります。確かにそれは恐ろしいのですが、それらの上に偉大な神様がおられることは私たちを支え、慰めてくれて余りあるものがあります。
神様、混沌とした世界と日本の中で、まず私たちが、ヨブのように自分ばかり正当化するのではなく、まず神様を第一とすることで、この世の巨大な力に打ちひしがれることなく、また自分自身の弱さにも負けることなく、勝利の人生を歩んで行くことが出来ますように、お導き、お支えをお願いいたします。
主の御名によって、この祈りをお捧げいたします。
アーメン。
イエスこそ神が遣わされた方 詩編110:1~7、使徒2:22~36 2016.6.12
聖霊降臨の日、世界において全く新しい救いの歴史が始まった日に、ペトロが11人の使徒たちと共に立って、行った説教を学んでおります。
ペトロはいならぶ人々の前にして、あなたがたが見た出来事は、すでに聖書の中で預言者ヨエルによって言われていたことなのだと言いました。つまり、「あなたがたは今しがた、神の偉大なみわざが世界のいろいろな言葉で語られるのを目撃したわけですが、これは私たちが酒に酔っていたからではありません。はるか昔に、神が、終わりの日に聖霊をすべての人に注ぐと約束しておられたそのことが今始まったのです。」と。
この部分はいわば説教の前書きでありまして、すぐにペトロは、単刀直入に核心部分に入ります。それがナザレの人イエスについてのことです。これはイエス様の十字架、復活、昇天、聖霊降臨と言うようにまとめることが出来ます。その中には、あなたの隣人を愛しなさいというようなことは一つも言われておりません。もちろん、それは大切な、忘れてはならないことですが、メッセージの中心はあくまで主イエスの死と復活に関わるところです。隣人愛などすべてのことは、そこから出て来るのです。
ペトロのここで呼びかけの言葉は、「イスラエルの人たち」です。ペトロはすでに14節で、「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち」と言っていますが、呼びかけの相手を変えたのではありません。同じ相手ですが、ユダヤ人という現実の名前ではなくて本来のイスラエルの人たちと言ったことに意味があります。イスラエルの民、それは神に選ばれ、神の民とされた者たちのことです。神はこの民に、救い主、メシアを遣わすと約束しておられました。これは、そこにいた人たち誰もが知っていることです。だから「ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です」と宣言したのです。…では、このことをペトロはどのように語り、人々はどのように受けとめたでしょうか。
ナザレの人イエスは有名人でした。辺境の地ガリラヤを中心に、力あるみ言葉と力強いみわざを行って国中にその名をとどろかせたイエス様がエルサレムに来て、過越祭の当日に十字架につけられて殺されたことは、いわばトップニュースになったはずです。この時代は、現代のようにテレビがひっきりなしにニュースを報じ、コメンテーターがあーだこーだ言うようなことはなかったものの、どこに行ってもこの話で持ち切りということでは似たようなものではなかったかと思います。
イスカリオテのユダが首をつって死んだことも衝撃的な事件として受け取られていたに違いありません。…ただ、これが肝心なのですが、だれもが第三者としてこの事件を見ていたのです。…この人たちに対してペトロは言います。あなたがたがこのお方を十字架につけて、殺してしまったのだと。ペトロは、イエス様の死を面白がって見ていた人たちにこのことを突き付けたのです。
現代の観点からすれば、イエス様を殺してしまった責任をユダヤ人だけに押し付けることはできません。皆さんご存じのように、歴史の中でユダヤ人は「キリストを殺した民族」として迫害され、先の大戦の時には600万のユダヤ人がガス室に送られることが起こりました。あまりにも大きな犠牲の上に、世界はこのような迫害を再び行わないことを誓うと共に、聖書の新たな読み直しが始まったのです。
そこで注意してペトロの言葉に対面してみると、彼はただ人々に向かってイエス様殺害の罪を責めたてているのではないと考えられます。それはペトロも他の使徒たちも人々と同じ民族だからです。彼ら自身も、自分の先生であり、メシアと信じるイエス様がつかまった時に裏切ってしまったということでは、やはり罪を背負っているわけで、自分たちも罪を犯したけれどもあなたがたも罪を犯したと言っているのです。
それでは、異邦人である私たちは、ペトロに責められる理由はないのでしょうか。そんなことはありません。ここでペトロが言ったイスラエルの人々という言葉には、自分たちは神様に最も近く、神様に従っていると思っている人々、という意味もあるのです。この日、ペトロの言葉を信じて洗礼を受けた3000人が歴史上初めて教会を作りましたが、それは新しい神の民、新しいイスラエルの誕生でした。私たちもそこに属しており、その一員なのですが、この新しい神の民、新しいイスラエルは、昔の神の民、古いイスラエルの罪を受け継いでいます。受け継いでいないはずはありません。
またイエス様の十字架刑にあたっては、別の神々を信じるローマ帝国の総督やローマの兵隊も罪を負っていますから、イエス様に対して行われたことを当時の世界全体が認めたということになるのです。ですから、どこの国の人であれ、責任を逃れることは出来ません。中には、自分は時と場所を隔てた遠いアジアの日本に生きる異教徒だから、イエス様の死になんの責任もないという人がいるかもしれませんが、その人に問われるのは、あなたはイエス様を死なせたことに賛成ですか、反対ですかということになろうかと思います。少なくとも、仕方がなかったんだとか無関心を決め込むは、今もイエス様をはりつけにしたままだと見なされても、仕方がありません。
ペトロの話は人々に、イエス様の死が自分とは関係ないところで起こったことではなく、まさに自分のために起こったのだということに目を向けさせたことは間違いありません。そこに私たちも入っています。神が遣わされたお方を人間は十字架という最もむごたらしい刑に処してしまったのです。
…けれども人間の罪のきわまるところ、これを上回って神の恵みが満ちあふれます。イエス様を十字架にかけたのは、人間のこれ以上はない恐ろしい罪でありますが、それにもかかわらず、その罪が神様の赦しの恵みによって乗り越えられ、救いが与えられてゆく、…そこに神がお定めになった、人智ではとうていはかりがたいみこころがあるのです。23節に、神は「お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのです」と書いてあるように、それはもともと神様ご自身のご計画によるものでありました。人間のとんでもない罪が、すでに父なる神様が世界をお救いになるためのご計画の中にすでに置かれていたのです。
もしも主イエスの十字架の死が、このように神のご計画によって起こったものならば、それはそれだけで終わるはずはありません。ペトロはそのことを24節以下で語って行きます。「しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。」
イエス様が復活なさったことはそれまで、信者の仲間うちでは語られていましたが、こうして外に向かって発表されるのはこの日が初めてです。ペトロは主の復活の証人として語ります。…ここで注意しておきたいのは、イエス様の復活とは何もイエス様ご自身の力というよりも、父なる神様のみわざであるということです。そうして、十字架において実現した神様のご計画がそこで途切れることなく、引き続き復活にも及んでいるということが世界に示されるようになったのです。
このことは、皆さんが十字架と復活を切り離して考えてみるとわかります。もしも十字架だけがあって復活がなかったとしたら、イエス様の死が本当にすべての人の罪のための身代わりの死だったのかどうか、確証できなくなります。そう考えることも出来ますが、いや、あれは敗北の死にすぎないと言って片づけることも出来るのです。逆に復活だけを大きく取り上げてイエス様の死をごく小さくしか扱わない、そんなこともあったなあという程度のことにするならば、教会で語ることは明るく、輝かしく聞こえるかもしれませんが、そんなことでは、イエス様の苦しみはもとより、復活された栄光のお姿も本当には見えてこないでしょう。…神様がイエス様を復活させて下さったことによって、十字架の死がただの死ではなく、唯一無二の特別な意味を持った救いの出来事であることが証しされました、このことを私たちは見落としてはなりません。
ペトロはそのことをダビデの詩によって説明しています。これは詩編16編8節以下の引用ですが、ここに出て来る「わたし」とは誰でしょう。
仮にこれを作者のダビデだとしますと、25節の「主がわたしの右におられる」というところからして変だとは思いませんか。主なる神が右におられるということは、主なる神と一つであると言う意味があります。ここでペトロが特に取り上げたのが27節です。「あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、あなたの聖なる者を朽ち果てるままにしておかれない。」
こんなことがどうして言えますか。…旧約聖書に、死を味わわなかった人物としてエノクとエリヤが登場します。創世記は「エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった」と書いています。列王記下は「エリヤは嵐の中を天に上っていった」と書いています。まことに不思議なことですが、この二人は死ななかった、だからお墓はありません。しかしながらダビデは死んで葬られました。その墓はこの時代、エルサレムに鎮座していて知らない人はありませんでした。ですから、この詩はダビデ自身のことを言っているのではありません。では、これは妄想なのか、それも違います。ここに当てはまる人が一人います。その人だけが死んで、甦ったのです。ダビデは預言者だったので、神様が見せて下さったことを、このように語ったのですが、そのことが今実現しました。…十字架につけられて死んだイエス様が復活されました。ペトロとほかの使徒たち、また仲間たちはそのことの証人です。復活なさったイエス様をその目で見ることが出来たのです。
神様のご計画に基づいて復活された主イエスは、天に昇られましたが、そのことも神様のご計画の中にあったのです。そのことを示しているのが34節と35節、これは詩編110編1節の引用です。これもダビデの作品ですが、人々はこの詩が意味することをペトロから教えられるまで、皆目見当がつかなかったでしょう。「主は、わたしの主にお告げになった。」主とわたしの主とお二方出て来ますがいったい誰のことなのか、これは、主が父なる神様、わたしの主がイエス様と考える以外、答えが出ない問題です。
ここには、ダビデがわたしの主と呼んでいる救い主が、父なる神様のみ心によって、その右の座に着くことが示されています。そして天に昇られたイエス様は、33節にあるように、父なる神様から聖霊を受けて、それを地上に注いで下さいました。それが、このペンテコステの日の出来事でありました。
このことをペトロの口から聞いた人々は、驚きのあまり呆然となったのではないでしょうか。…自分たちが偽物のメシア、神を汚す者だと決めつけてなぶり殺しに等しいやり方で殺してしまったイエス様がこともあろうに死の中から復活して、天に昇り、父なる神と同じところにいる!信じられないことです。そんなことが、としか思えないことです。しかし、それは自分たちが尊敬してやまないダビデがすでに預言しておられた!だとしたら、…自分たちはいったいどうすれば良いのか、ということになるほかありません。
皆さんは、周章狼狽する人々の姿が目に浮かびませんか。しかし、それは私たち自身の鏡でもあるのです。…ペトロの言葉は、自分の罪を知っておののく人々にとどめを刺すような言葉になったと思います。
「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったの です」。
人間の罪のきわまるところ、神と等しいお方、いや神その方を人間は十字架につけて殺してしまったのです。あまりにも重大な罪を犯してしまった人間たちは神の怒りを受けて滅びるしかないのではないでしょうか。ここから救われる道などあるのでしょうか。…その道はあります。そこを進むことで、罪と死の縄目から救われて、命へと進むことが出来ます。ただ、そこで示される救いに安易に飛びつく前に、ペトロの話を聞いた人々の抱いた恐れというものを、私たちの間でも分かち合うことから始めたいと思います。
神がイエス・キリストによって与えて下さる恵みは、決して安価な、すぐ手に入れることができるようなものではないのですから。
(祈り)
私たちの主、イエス・キリストの父なる神様。それゆえに私たちの父としても、今ここに臨みたもう神様。神様が今日、私たちをここに集めて下さり、またそのための健康と時間を与えて下さったことを感謝申しあげます。
神様、イエス様が十字架にかかられたことはまことにおそれ多い、何と言って良いかわからないことでございます。世の中には、イエス様のことが全くわかっていなくて、十字架のことは怖いと言うのならまだしも、イエス様をばかにする人がいます。かつての私たちもその一人でした。しかし今、そんな自分に戻ろうとは決して思いません。神様はイエス様を復活させ、天でご自分の右の座に着かせ、聖霊を送って下さることによって、イエス様の死が敗北の死ではなく、まさに世界を救うための神様のみわざであることを示して下さいました。…人間の罪がイエス様を死なせました。神のみ子で救い主である方が十字架にかからなければいけなかった、そのことを引き起こした私たち自身の罪を直視し、言葉だけではなく本当の意味で罪を悔い改めつつ、残された人生をまっとうする者として下さい。
とうとき主イエス・キリストのみ名によって、この祈りをお捧げします。アーメン。
聖霊が注がれる ヨエル3:1~5、使徒2:13~21 2016.6.5
ペンテコステの祭りの日にエルサレムで起こったことは、驚天動地のことでありました。突然、激しい風が吹いて来るような音が響いたかと思うと、一団の人々が神の偉大なみわざが語り始めたのです。それもいろいろな言葉で。そこで語っているのはみんなガリラヤの人たちばかりなのに、いろいろな言語が飛び交っているのです。
物音を聞いて集まってきた人々は驚き、とまどいました。その日、お祭りのためにローマ帝国の各地から来ていたユダヤ人たちは、そこで語られている言葉がアラビア語だったり、エジプトの言葉だったりするのを見て驚き、「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大なわざを語っているのを聞こうとは、これはどういうことなのか」と互いに言いあいました。ただそこには、神の偉大なわざなどどうでもいい人もいたわけです。その人たちは外国語が全くわからなかったという可能性もありますが、少なくともわかろうともしなかったことは確かです。その人たちの中から、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」とあざける声が出ました。そこでペトロは他の十一人の使徒たちと共に立ち上がり、そこにいた人たちに向かって語り始めました。それが2章14節からの説教で、これは使徒たちにとって、いちばん最初の説教となります。
まず説教の背景からお話しいたします。イエス・キリストの弟子たちの中で中心になっていたのが12人で、生前のイエス様は彼らを使徒と名づけておられました・この中からイスカリオテのユダが脱落したので、彼のかわりにマティアという人が選出され、新しく12使徒がそろいました。ここでペトロが説教していますが、それは12使徒の中でペトロが信仰においても能力においてもリーダー格で残りの11人がみなペトロに従ったということではありません。この点、私たちはカトリック教会とは違います。みなが一緒に立ち上がったということは、ペトロをスポークスマンとして、12人が語ったということなのです。
ペトロが語りかけた相手は、「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち」でありました。41節には、ペトロの言葉を受けて洗礼を受けた人が3000人ほどいたと書いてあり、これだけの人々が集まっていることからして、神殿の境内などの広い場所であったと思いますが、実際の場所はわかっていません。
ペトロは人々に、自分たちは酒に酔っているわけではないと、やんわりと言い聞かせます。「今は朝の九時ですから、酒に酔っているのではありません」。
この時代のユダヤ人は、一日に朝・昼・晩の三度祈りをしたと考えられています。みんなが信仰深い人だったかどうかはわかりませんが、朝の九時はお祈りの時間となっていました。ユダヤ人は朝の祈りが終わるまで食事をとりません。
朝食の時に酒を飲む人がいたかどうかわかりませんが、少なくとも朝起きてすぐ、食事の前に酒を飲むなど考えられないことでありました。だから酒に酔っているのではないと言っているわけです。朝から酒を飲んでいる人が、神の偉大なみわざを語ることなど出来ません。
では、今この出来事が起こった原因はどこにあるのでしょうか。ペトロは言います。これは酒によるのでない、預言者ヨエルによって言われていたことが実現したのであると。
この日、神のみわざがいろいろな言葉で語られたというのは、その時から始まる世界的な出来事を象徴しています。福音は全世界に、それぞれの言葉でもって伝えられるのです。では、神はいま突然思い立ってこんなことを始められたのでしょうか。そうではありません。神は、深いみこころの中で、すでにこの日のことを準備しておられました。紀元前4世紀に活動した預言者ヨエルも語っている、ヨエルを通して今日のことを予告されていたと言うのです。
仮にこの日、ペトロの説教がなかったなら、人々はいま見た出来事にどういう意味があったのか悟ることはなかったでしょう。人々がこの出来事の意味を悟ったのは、これがすでに聖書に書いてあることを教えられたからです。…こういうことは、私たち現代人にとっても起こることです。いま自分の人生で起こっていることがわからなかったり、世の中がなぜこういう方向で動いているのかわからないということがあります。そういう時は聖書をたんねんに調べてみることが大事です。いま自分が体験していることは、聖書の中にすでに書いてあるに違いないからです。
先ほど私たちはヨエル書と、ペトロが引用したヨエル書の言葉を両方読みました。ご覧になってすぐわかるように、ペトロが引用したのはヨエル書の言葉そのままではありません。そういう箇所については、ペトロがヨエル書の原文に自分たちの解釈を加えて引用しているものと考えて下さい。…おそらくペトロは他の使徒たちやさらにそのほかの仲間たちと共に、この日まで熱心に聖書研究をしていたのでしょう。その時に学んだことが、この日の体験と重なって、聖書で予告されていたことがいま実現したのだということを、驚きと感動をもって語っているものと思われます。
ペトロが引用した本文に入ります。「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。」ヨエル書では「終りの時」という言葉はなく、「その後、わたしはすべての人にわが霊を注ぐ」となっています。どうして違っているのでしょうか。これはですね、ヨエル書をその前後から読みこんで行けば、「その後」というのが「終わりの時」だということがわかるはずです。
終わりの時というのは、現代人が「もう世も末だ」と言う時の終わりとは違います。
旧約時代、ユダヤ人の間で終わりの時への期待がだんだんと高まって行きました。それは祖国を失い、亡国の民となっていた人々にとって悲願であったでしょう。神は終わりの時にかねて約束されたメシアを送って下さる、この方が虐げられたわが民族を導き、再び国を建て直して下さる、と言うように。そのことが起こる終わりの時と、文字通りの世界の終末は一つのものとしてとらえられていたようです。
こうした見方は、私たち現代人とはずいぶん遠いわけです。今日、地球の未来を予測して、人類は滅びると言う人がいます。私たちはそれが世の終わりの時だと信じたとしても、2016年の今が世の終わりの時とは思っていないでしょう。ただキリスト教の信仰ではそうではありません。世の終わりはイエス・キリストと共に始まっているのです。終わりの時はイエス様が来られた時に始まりました。そうしてイエス様の再臨と文字通りの世界の終末に至るのです。それは、「世も末だ」という言葉にいみじくも現れているような、世界が滅びに向かって進んで行く歩みではありません。そうではなくて、神が世界を完成させて下さるという確かな希望に向かっての歩みです。ただもちろん、その道は曲がりくねっていて、前に進めないこともあれば逆戻りすることもあるのですが、しかし神が世界を完成なさるということは少しも揺るぐことはありません。
では、いま私が述べたことは、私たちの信仰生活とどのような関係があるのでしょうか。こうした議論は、私たちの生活の実感とかけ離れているように見えなくもありません。しかし教会とは別なところから来る時代認識を私たちがすべて信頼して良いかどうか、考えてみて下さい。今はこういう時代でこれからはどういう時代になるかということが、いろいろ言われております。日本は右傾化する、左傾化する、テロが広がる、いや平和な時代になる、日本経済は持ち直す、いや衰退する、…なんでも良いのですが、そうしたさまざまな情報に触れて、時代の動きに対し正しく対処することが必要なのはもちろんですが、しかし、そこにいくら深入りしても真の救いはありません。これからどういう時代になってその中で成功するためには何が必要かと、鋭い時代感覚を働かせて巨万の富を得たとしても、そのような人がたどり着いたところが奈落の底だったということもあるわけです。ですから私たちは時代の動きをつかんでいながらも、一歩離れたところで神の導きにこそ耳を傾けていなければなりません。
神はこの終わりの時に、ご自分の霊をすべての人に注ぐとおっしゃいました。こんなことはそれまでありませんでした。誤解のないように申しておきますが、聖霊、神の霊というのはペンテコステの日に初めて与えられたものではありません。旧約時代にも与えられていました。その一つ、民数記11章24節以下にこんな話があります。
モーセが民の長老たち70人を集めて、幕屋の周りに立たせた。すると神が降って、モーセに授けられている霊の一部を取って70人にも分け与えた。すると70人は預言を始めた。…さらにこの続きがあります。何かの理由でその場にいなかった2人の長老まで神の霊を受けて預言し始めた。ヨシュアはこれを分派行動と見たらしく、モーセに頼んでやめさせようとした。するとモーセはヨシュアをとどめて、言った。「わたしは、主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望しているのだ。」
モーセは神の霊をいつも受けていたので、神のみ旨を正しく伝えることが出来たのですが、他の人には出来ませんでした。しかし他の人にも神の霊が与えられることが望ましいということが、ここに示されています。この時、聖霊を受けたのはモーセ以外に72人で、これは未来に起こることの前触れとなっています。ペンテコステの日の朝、聖霊を受けたのは、使徒たちなど200名ほどの人たちでした。しかし、これも来たるべきことに比べたら、ひな形のようなものです。父なる神がイエス・キリストを通して信者に聖霊が送り、これを分かちたもう時、制限はありません。そこから漏れる人はいないのです。
これが「終わりの時」に起こることの実質です。私たちは普通、終わりというと、そこに失望とか絶望しか思いません。万事休す、もうおしまいだ、ということを自分の人生において見るだけだったり、また自分がやっていること、ひいては人類の運命や地球の未来に見るだけであれば、そこには救いはありません。…人間にとっては、もう何も残っていないのが終わりの時であったとしても、しかし神にとっては始まりであり、そのみこころをついに実現させる時なのです。
「すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、…。」
聖霊が送られる時に男も女も、若者も老人も差別はありません。身分や階級の差別もありません。モーセの時はわずかな人たちだけだったのに、あらゆる人が聖霊を受けるので、たとえば「若い者は黙っておれ」と言われるようなことはありません。誰もが神の霊を受けて恵みにあずかります。今度はそれを自分の言葉で表現することが出来るようになるのです。神の恵みは特定の人に独占されません。
現実には、教会の中にも差別は残っています、残念ながら。しかし世界中のキリスト教信者がここに立ち返って、牧師や伝道者の説教を聞きながらも、誰もが聖書の言葉に裏付けされた信仰の言葉を語って行くなら、確実に世界は変わるのです。
ただ、もちろんそうなるまでは簡単ではありません。19節と20節に、終わりの日に起こる災いが列挙されています。このことについて短い時間では語り切れないので、第二テモテ書3章の言葉を紹介します。3章1節:「しかし、終わりの時には困難な時期が来ることを悟りなさい。」ここから不信仰のさまざまな姿が列挙してあり、あとでゆっくり読んで頂きたいのですが、その中に耳に痛いことが書いてありました。6節、「信心を装いながら、その実、信心の力を否定するようになります。」もう一つ、7節、「いつも学んでいながら、決して真理の認識に達することができません」。こういうことも、終わりの時に起こりうる困難です。
しかしながら、「主の名を呼び求める者は皆、救われる。」主の名を呼び求めるとは、イエス・キリストは救い主であると心で信じ、口で告白するということでありまして、
その人は信仰によって救われるということにほかなりません。どんな困難な時期にあってもそうです。この信仰は、外から来るさまざまな災いばかりでなく、自分自身の不信仰にも打ち勝たせてくれることを信じましょう。このことが、聖霊降臨によって始まったのです。
(祈り)
正義と愛に満てる天の父なる神様。ペンテコステの日に起こったことが、はるか昔の出来事ではなく、今ここでも起こっていることとして私たちの心に迫ってきたことを思い、感謝の気持ちをお捧げします。
神様は人間たちに、見えるものではなく見えないものに目を注ぐことを求めておられます。たしかに信仰生活は目に見えないものを追い求めることでもあります。父なる神様は目に見えませんし、イエス様のお姿も昔の人の証言から想像できるだけです。聖霊なる神様は父なる神様とイエス様にも増して、わからないのが現実です。しかしわからなくても、聖霊が働いて私たちの信仰の目を開かせ、聖書の言葉を本当に神の言葉として信じることのできた恵みを感謝いたします。
神様、私たちに働く聖霊の恵みを、さらに増し加えさせて下さい。そうして、この終わりの時において進められる神様の救いのみわざの中に加えさせて下さい。そして、それと共に、私たちにふりかかる困難を信仰によって打ち破ることが出来ますように。苦しみをも喜びに変えて下さる神様を賛美いたします。
主イエス・キリストの御名によって、この祈りをお捧げします。アーメン。
「思い悩むな」
尾道西教会、山本盾伝道師2016年5月29日
マタイによる福音書6章25-34節
どんな人にも悩みはある、と言われます。いつも明るく振る舞っているあの人も、実は深い悩みを抱えている、人知れず悩んでいる、という話を聞くことがあります。そうしますと、この「思い悩むな」という話は、誰もが学ぶべき教えであると言えますし、また実際多くの人がこれを覚え、クリスチャンでなくても心に留めている聖句ではないでしょうか。しかし皆さん、誰も好き好んで思い悩んでいる人などおりません。出来れば思い悩みたくない、悩みから解放されたい、そう願っています。また、朗らかで快活な人を見るとつい「ああ悩みのない人が羨ましい」と思ってしまうのが人の常ではないでしょうか。何も今更、聖書から「思い悩むな」と言われなくても、悩まない方が良いことくらい知っている。そんなこと言うなら楽天的に生きられる方法を教えてくれよ、と注文したくなります。ですからまたそんな需要に応える処世訓も世の中には沢山ありますね。悩みを解決するための本も盛んに書かれています。そういう本と聖書は何が違うんでしょうか。信じる者は救われるから悩みも無くなる、信仰者は毎日能天気に暮らせるなんて書いてあるんでしょうか。勿論書いてませんし、クリスチャンも思い悩みます。実は私も今日、どうやって説教しようかと考えて思い悩みました。日々の生活で決断を迫られる時、どうでもいいことほど色んな迷いが生じて悩みますね。聖書には思い悩むなと書いてあるのにまた悩んでしまった、どうしようと言ってまた悩みますね。その繰り返しです。そうするうちに、聖書に書いてあるのは理想論だ、凡人の私には無理だ、聖書の教えなんて役に立たないと言ってみたりする訳です。でも本当のところ、この聖句は何を語っているのでしょうか。皆さんと一緒に御言葉のメッセージを聞き取りたいと思います。
主イエスは「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って伝道を始められました。マタイ5章から7章の「山上の説教」も天の国についての教えであると言って良いと思います。そうしますとこの「思い悩むな」というのは、もう既に天の国は近づいている、新しい出来事が始まっている、私たちは今、主イエスに教えられた新しい掟に従って生き始めている。だから思い悩むな、というメッセージとして受け取りたいと思います。因みに「思い悩むな」と訳されている元の言葉を正確に訳しますと「心配し続けるな」と訳すことも出来る言葉であります。すなわちこれは、今、実際に思い悩んでいる私たちに向けて、それはもう止めなさい、悩む必要などない、と語られた言葉であると言えます。
ところで、この御言葉を真剣に受け取りますなら、思い悩むこと自体が罪なのではないかと私たちは考えがちです。果たしてそうでしょうか。ここで、「思い悩む」と訳されているのと同じ言葉を探しますと、「心に掛ける」とか「配慮する」と訳されている箇所もあります。人のことを心に掛ける、人のために配慮する、そういった思い悩みや心配りはむしろ勧められております。そうしますと、聖書は思い悩むこと自体を禁止していると言うよりは、間違った所に心を用いることを問題にしているのだ、ということが分かります。主イエスのみ言葉は、思い悩むことなくひたすら主に仕えなさい、という意味で受け取れると思います。神に仕えることを第一としなければ、私たちは不安を抱えて生きるしかないのです。思い悩むのは、不安があるからです。命や体の不安から解放されたい、安心したい。でも安心できないから、私たちは思い悩みます。しかし、私たちの命や体は本来神のものであって、神が私たちに下さったものです。神が私たち一人一人をお造りになったのですから、私たちの命や体のことは、神さまが一番よくご存じのはずです。神に代わって人間が心配するのは的外れです。それなのに私たちは、まるで自分のことは自分が一番よく知っているかのように思い悩んでしまいます。そんな私たちに、主イエスは仰います。「だから、言っておく。自分の命や体のことで何を食べようか何を飲もうかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか」。この御言葉を聞く時、私たちは少し戸惑ってしまいます。
イエスさまの仰ることももっともだけれど、食べることで命は保たれているのではないのか。衣服を着ることで体は守られているのではないのか。食べ物や着る物のことはどうでもいいのか。主イエスは、そんな風に考える私たちの視線を、神さまがお造りになった自然へと向けさせます。ガリラヤ地方の、とある山の上での出来事です。
「空の鳥をよく見なさい」と主イエスは仰います。ここで「空」と訳されている言葉は、「天の国」の「天」と同じ言葉であります。主イエスはここで私たちに、神が支配しておられる天の御国を見上げさせています。そして、ただぼんやり眺めるのではなく、よく見なさいと仰います。天の鳥を見つめなさい。彼らを養い、生かして下さる方はどなたなのか。私たちの全ては神の御手の中にあり、髪の毛一本に至るまで、私たちは天の父なる神のものであります。この方以外の何かを恐れ、不安に駆られて、まるで自分の命を自分で支えているかのように、私たちは思い悩んでいるのです。しかし鳥たちは「種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない」と主イエスは仰います。鳥のように自由に生きろということでしょうか。文明を捨てて自然の中で暮らせというのでしょうか。そうではありません。問題は働くことではなく、心配することなのです。大きな口で餌をねだる雛のために親鳥が忙しく飛び回っている様子を、主イエスが御覧になったことがないとは思えません。むしろ働かないのは、自分の職業を捨てて主に従った弟子たちの方でした。あるいは、種を蒔く土地も持たず、収穫したものを納める倉などあるはずもなく、日雇い仕事にもあぶれてしまった貧しい群衆の方かもしれません。何を食べようか何を飲もうか何を着ようかと思い悩むまでもない人たち、彼らこそ今日のこの御言葉を聞いた最初の人たちでした。イエスさまは彼らに仰います。「だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか」、私たちを価値あるものとして下さる天の父が、私たちの生活を整えて下さらないはずがありません。地上に富を積んでしまい、心を天に向けられなくなっている私たちは、この貧しい人たちへの神の配慮を知る必要があります。
次に主イエスは「あなた方の内誰が、思い悩んだからといって、寿命を僅かでも延ばすことが出来ようか」と問われます。現代人はこの「寿命を延ばす」ということに必死です。死の恐怖を出来るだけ遠ざけ、一日でも長生きしようとあくせくしております。年を取ったら人生終わりとばかりにアンチエイジングに励み、「健康の為なら死んでも構わない」というセリフが冗談に聞こません。医学の発展により私たちは確かに「寿命を延ばす」ことが出来ましたけれども、そのことによってますます、生老病死の悩みは深まっているのではないでしょうか。「思い悩むな」という御言葉は口語訳聖書では「思いわずらうな」となっておりますけれども、「思いわずらい」は思いを患うこと、心が病気になってしまうことに通じるのではないかと思います。とは言えここで主イエスが教えておられるのは、心配し過ぎると寿命が縮まるから、心を大きく構えなさい。ゆとりとくつろぎが大事ですよ、などということではありません。私たちの命は神から与えられた賜物であって、その長さは天の父なる神がお決めになります。人間が心配することではありません。因みにここの箇所は文語訳では「汝らの中たれか思ひ煩ひて身の丈一尺を加へ得んや」と訳されております。実は原文も「身長に1ペキス(45cm)加えることが出来るか」という意味の文章ですけれども、かなり大袈裟な表現ですから、これは寿命の話だろうということになっております。しかし考えてみますと、私共の思い悩んでいることは、背丈を45cmも伸ばそうとすることではないでしょうか。私ももっと身長があればと思いますけれども、45cmも伸びたら大変です。困ってしまいます。私たちは「神様どうか御手を伸ばしてお救い下さい」と祈る代わりに自分の体を伸ばし、神をも恐れない巨人になろうとしているのではないでしょうか。寿命も、背丈も、生活の仕方も、私たちそれぞれに合ったものを神が整えて下さっているのに、そのために日夜思い悩んでいるとすれば、なんと空しいことでしょうか。
続いて主イエスは、「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい」と仰います。野の花というのは、いわば神御自身が育てた花であります。この花はただ神によって生長させられ、神のみに依存しているので、一切心配事がありません。主イエスはこの花を「注意して見なさい」とお命じになります。ただ見るのではなく、そこから神の国の真理を学ぶよう私たちは促されています。更に主イエスはこう仰います。「栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾っていなかった」。今日の聖句で最も大胆で美しい表現であります。「野に咲く花のように」と言えば理想の生き方のように聞こえますが、天衣無縫に生きることを聖書が勧めている訳ではないですし、勿論、働きもせず紡ぎもしないで怠惰に暮らせと命じているのでもありません。神があなたにどれほど素晴らしいものを与えて下さるか、そのことを悟りなさい、と教えられているのです。「今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装って下さる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ」。この「信仰の薄い者」というのは、例えば嵐を鎮める奇蹟で主イエスが弟子たちに「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ」と仰る箇所でも使われていますが、元のギリシア語では「小さな信仰の者」という意味の言葉です。ですから主イエスの仰ったのはこういうことではないでしょうか。あなたがたの信仰はまだまだ小さい。神が全てを支配しておられることを知らず、小さくしか信じられないから、神は自分たちの衣服のことまで気にかけて下さらないと思い込んでいるけれども、贅沢に暮らしたソロモン王にまさって、たった一日だけしか咲いてない花の方をより美しくして下さる方ならば、どうしてあなたがたにそれ以上良くして下さらないはずがあろうか。私たちは、小さな信仰を大きく成長させて下さることを願い求めるように、促されています。
主イエスはこれに続けて25節で仰ったことを繰り返します。「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ」。本来、ユダヤ人以外は皆異邦人、神を信じない者でしたけれども、神の恵みによって、御子イエス・キリストを信じる者は皆、神の国の民とされました。しかし、そうして救われていながら、衣食住の問題が頭から離れないで、神から心が離れてしまうなら、神を知らない異邦人と同じではないかと主は警告しておられます。とは言え、何も浮世離れした仙人のような生活をしろと言うのではありません。「あなたがたの天の父は、これらの物が皆あなたがたに必要なことを御存じである」と主イエスは仰います。神は世を救うために、御子イエス・キリストを遣わして下さいました。そのことによって私たちもまた、天におられる神を、私たちの父と呼ぶことが許されています。その天の父が、私たちが地上で生きて行くのに何が必要か、御存じないはずはありません。私たちがもし自分の命と体のことで思い悩むなら、私たちが配慮する以上に神が配慮しておられる御業について思い悩んでいるということになります。それは神を侮辱することになるのではないでしょうか。
では、私たちがもはや異邦人ではないのなら、切に求めるべきものは一体何でしょうか。33節の御言葉に答えがあります。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」。この「求めなさい」というのは、「求め続けなさい」と訳すこともできる言葉です。私たちはもう既に求めているし、そうでなくても、主イエス御自身がこのことを何度も祈って下さいましたし、今も私たちと共に祈っていて下さいます。それどころか主イエスがこの世においでになったことで、神の国と神の義は、来るべき神のご支配はもう既に、今ここに実現しているのだということが出来ます。だからこそ、私たちは思い悩まずに、全てを神に委ねるよう、求められているのです。「思い悩むな」というのは決して、無責任な楽天主義を勧めているのでもないし、現状を運命と思って受け入れよとか、肉体は汚れているから飲み食いはどうでも良い、霊魂のことだけ考えろとか、そんな話ではないのであります。
主イエスは山上の説教の冒頭で、「義に飢え渇く人々は幸いである、その人たちは満たされる」と宣言して下さいましたから、私たちは臆することなく神の国と神の義を求め続けて与えられ、神の義が私たちの義とされます。すなわち私たちの罪が赦されるんです。そればかりか、必要な物全てを与えられて満たされます。神が私たちの主として、私たちを、命も、体も、心の中も全て、神の義によって正しく治めて下さるなら、私たちは思い悩みから解放されます。
最後に、「だから」と主イエスは続けます。「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」。私たちの必要を神が備えて下さるからと言って、それが問題のない人生を保証することにはなりません。神の子として鍛えられるために必要な迫害や苦難があるかもしれません。けれども、問題が起こる前から心配して問題を増やしてしまう必要はありません。時が来れば神がそれらの問題をも取り扱って下さるはずだからです。「明日のことは明日自らが思い悩む」というのは、明日になってから心配しなさいという意味ではなく、未来のことは未来を知る方に委ねなさいという勧めです。しかし、ここで勧められているのは、取り越し苦労をせずに気楽に構えてのんびり生きろ、なるようになるさ、ということではありません。ここで「苦労」と訳されている言葉は、元々は「悪」とか「悪意」と言う意味がありまして、「徳」とか「義」の反対の言葉であると言って良いかと思います。そうしますと、主イエスは「その日の悪あるいは悪意は、その日だけで十分である」と仰ったことになります。つまり、思い悩むことは神の「義」に反する「悪」であり、その悪に打ち勝つためにこそ、私たちは神の義を求めるのです。ですから、私たちは、まずはその日の「悪」から救われることを祈り求めるべきだということになります。と言う訳で、今日の聖句で主イエスが教えておられるのは、「思い悩まずに祈れ」ということではないでしょうか。私たちが何をまず求めるべきか、その正しい順序まで、主イエス御自身が教えて下さいました。
神は私たちの祈りを必ず聞いて下さいます。耳を傾けて私たちが祈るのを待っていて下さいます。神さまは、私たちが毎日いろんなことに思い悩んでいることをよく御存じです。ペトロの手紙一の5章にはこう書かれています。「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです」。全ての心配事を主の御手に委ねて祈るなら、私たちは全ての物をお造りになった創造者なる神、この命と体を賜物として与えて下さった神に感謝し、信頼して生きることが出来るし、不要な思い煩いではなく、禁じられていないどころか主に求められている気遣いや配慮に、心を用いることが出来るのです。
さて、思い悩むのではなく、神の国と神の義を求めるよう、教えられた私たちでありますが、振り返ってこの世を見渡しますと、いまだ御国の到来していないこと、御心が行われていないことを思うのであります。山上の説教で主イエスがお命じになったこととは全く反対のことが地上で行われているのを見て、私たちは思い悩まずにいられるでしょうか。一体私たちは何故、神の御支配が完成され、神の御旨が実現されるはずだと信じることが出来るのでしょうか。それは、神が私たちを愛し、世を愛して、御子イエス・キリストをお送り下さったからです。すなわち、神は御自分の民イスラエルを憐れんで、天からマナを降らせて養って下さいましたが、この終わりの時に至って、それよりも遥かに尊い食べ物を、天から下して下さったのです。私たちはもう、何を食べようか何を飲もうかと思い悩むことはありません。私たちが食べるべき食べ物は、十字架の上で裂かれた主イエスの御体、私たちが飲むべき飲み物は、十字架の上で流された主イエスの御血であります。更に、楽園を追放されたアダムとエバに、神は皮の衣を作って着せて下さいましたけれども、同じ様に罪を犯して神から遠ざかってしまった私たちにも、私たちの天の父は、遥かに尊い衣服を用意して下さいます。もう何を着ようかと思い悩むことはありません。私たちが着るべきなのはイエス・キリストであります。ガラテヤ書の3章にこう書いてあります。
「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」。
さあ皆さん、これ以上の食べ物、これ以上の飲み物、これ以上の衣服があるでしょうか。来たるべき御国の王である御子が、私たちが受けるべき苦難をその身に負って、十字架の上で死んで下さり、復活して死に勝利して下さいました。命のことで思い悩んでいた私たちに、永遠の命が約束されました。体のことで思い悩んでいた私たちに、キリストの体なる教会が与えられました。その教会で私たちは礼拝を守っています。そして、罪に汚れた古い自分を脱ぎ捨て、洗い清められ、新しい服としてイエス・キリストを着た者は皆、天の国の食卓に招かれています。そのしるしとして、私たちは聖餐に与ることが、許されています。パンを食べ、葡萄酒を飲む度に、私たちは思い起こします。聖霊なる神様が私たちの内に働いて、私たちの思いと行いを清めて下さっているということを。何を食べようか、何を飲もうかと思い悩むことは、この大いなる神の恵みを無視することであります。与えられた恵みの大きさを知るなら、全ては思い悩むに値しません。思い悩まずに、信頼して、豊かな恵みの賜物を受けとりましょう。私たちに必要な物を全てご存知の天の父が、明日のことも分からない私たちをさえ、御子キリストによって着飾らせて下さる神が、私たちが神の子となるため必要な聖霊の賜物を、私たちに注いで下さらない筈がありません。ですから、約束された御国を受け継ぐために、まず私たちの心から悪しき思いを捨て去り、それぞれ置かれた場所で勤しみ励みつつも、何も持たない者のように、一切を神に委ねましょう。そうやって地上を歩まれた主イエスの御生涯に倣って、私たちも歩み続けましょう。使徒パウロは、フィリピ書4章でこう言います。「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」。「思い悩むな」と私たちにお命じになった方が、私たちの心を悪しき思いから守って下さることを信じ、祈りを捧げましょう。
音飛び酷くyoutubeにUP不可能です。申し訳ありません。
嵐の中から語る神の声
ヨブ40:1~14、ルカ22:40~42 2016.5.20
ヨブ記の学びもいよいよ終りに近づいてきました。今日は、沈黙を破ってついに現れた神がヨブと語るところですが、このテキストには問題があると指摘する人がいます。…というのは1節に「ヨブに答えて」と書いてありますが、その前にヨブの発言がありません。ヨブが発言していないのに「ヨブに答えて」と書いてあるのはどうしたわけかということです。こういうところを見て、今日の箇所は、編集者が文章を間違って並べてしまったのだという考え方が出て来ました。それによると39章から直接続くのは8節から14節までの部分、つまり神の全能を言い表す部分で、続いて3節から5節までのヨブの応答、「わたしは軽々しくものを申しました。…」、最後に1節2節、「ヨブに答えて、主は仰せになった。全能者と言い争う者よ、引き下がるのか」と。このように並べ替えた方が意味が通るのかもしれません。ただ、これを確定することは出来ません。そこで疑問点は残るものの本来の順序で考えていきたいと思います。
ヨブ記を初めから読んできた私たちには、38章からの神の言葉は意外なものだったと思います。肩透かしのような思いをした人も多かったでしょう。
私たちの想像を絶する苦しみの中に突き落とされたヨブは、神に訴え続けてきました。私は、神様からこれほどの苦しみをいただくような悪逆非道なことは何一つしておりません。どうして神様はこのようなことをなさるのですか、と。…ヨブ記という、古来多くの人を慰め、励まし、また論議の的となってきた書物の主題は、ひとことでまとめるなら神が治めておられるこの世界になぜ苦しみと悲惨な出来事があるのかということです。ヨブは古今東西すべての、いわれない苦しみにあえぐ人々の代表として、ここに出ているのです。
そこで私たちは、こうした問題に対する答えが神様の言葉から与えられるかと思って期待すると、みごとにはぐらかせられることになります。ヨブが訴え続けた問題に対する神様の側からの明快な説明はありません。そのため失望してしまうのです。神様はやれ岩場の山羊がどうのダチョウはどうのと言うばかり、それどころか「すばるの鎖を引き締め、オリオンの綱を緩めることができるか」、…人間には全く不可能なことを突き付けてくるのです。今日のところも同じです。「全能者と言い争う者よ、引き下がるのか。神を責めたてる者よ、答えるがよい」、人間としてはどう答えて良いのかわかりません。9節以下、「お前は神に劣らぬ腕をもち、神のような声をもって雷鳴をとどろかせるのか」、こうした言葉もそうですね。人間にはいかんともしがたいことです。
確かに神様と人間とは格が違います。私たち人間は野生動物の神秘を知り尽くしたり、星の運行を司ることなどとうてい出来ません。そんなことは当たり前です。
しかもヨブはそんな言葉を求めてはいないのです。神様が治めておられる世界になぜこれほどの苦しみがあるのですか、と聞きたいわけですが、神様は答えられません。
ではヨブは、神様は私の言うことに答えて下さらないじゃないですかと言って食い下がったでしょうか。そうではありませんね。「わたしは軽々しくものを申しました。どうしてあなたに反論できましょう。」このように言って、神様の前ですっかり兜を脱いでいるのです。それはいったいどうしてかということが今日のお話の核心となります。
さて、そこに入る前に、注目したいのは、ヨブが神様に答える時に、口に手を置いたということです。ヨブは4節で、「わたしはこの口に手を置きます」と言っています。…私たちが口に手を置くのはどういう時でしょうか。それは、相手の言うことを認めたものの、まだ心にくすぶっているものがある時です。いちおう「わかりました」と言うのですが、「だって」とか、「でも」とか、「しかし」という言葉が出そうです。しかしそれを言っちゃだめだとわかっているので口をふさぐのです。
この時のヨブも、神様にまだまだ言いたいことがあったと思うのです。心にくすぶっているものがあります。「神様はそうおっしゃるけど…」。でも全能の神に面と向かって反論することは出来ないし、陰で聞こえよがしに言うことも出来ません。自分は神様に反論できる立場にはいないのだということがわかったのです。だから、もう二度と繰り返しませんと言うのです。ただ、うっかりすると、「でも」とか「しかし」という言葉が出てこないとも限りません。ヨブはそんなことをしないように、口に手を置いたのです。
それでは、神は次の段階でどう出て来られるでしょうか。神様としてはヨブのそういう気持ちは先刻ご承知ですから、今度はヨブの中にくすぶっているものをすべて打ち砕かれようとします。そこから始まるのが7節からの言葉だと考えられます。そのように議論を進めて行きますと、今日の聖書箇所には編集上の手違いなどなく、すべてこの順番通りであるということになるようです。
「主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。男らしく、腰に帯をせよ。お前に尋ねる、わたしに答えてみよ。」これは38章の1節、3節の言葉と全く同じです。ただこれは、編集上の手違いということより、神様が再び、新たにヨブの前に現れて語りかけて下さったということではないかと思います。
神の言葉の第2ステージが始まりました。そこで8節の言葉を見ると、ヨブがそれまで言っていたことに対する反論になっています。「お前はわたしが定めたことを否定し、自分を無罪とするために、わたしを有罪とさえするのか。」
ヨブは、神様が有罪だと言い切ったことはありませんが、それに近いところまでは行っていたのです。その一例として31章35節以下があります。
「どうか、わたしの言うことを聞いてください。見よ、わたしはここに署名する。全能者よ、答えてください。わたしと争う者が書いた告訴状を。わたしはしかと肩に担い、冠のようにして頭に結び付けよう。わたしの歩みの一歩一歩を彼に示し、君主のように彼と対決しよう。」こういう言葉がヨブの罪とされ、神様によって厳しくとがめられることになるのです。
皆さん、ちょっと思い出して下さい。ヨブ記の最初のところで、ヨブが財産も子どもたちも、一切のものを奪われた時に何と言ったでしょう。彼は「主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられる」と言ったのです。奥さんが自殺を勧めてきた時にも、「わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」と言っています。幸福であれ不幸であれ、神様から頂くことに対して自分は従います、と告白しているのです。私たちのうち誰も、こんなことは言えないでしょう。
ところが、そんな素晴らしい信仰を持っているヨブでさえ、友人と議論しているうちに「なぜ、わたしは母の胎にいるうちに死んでしまわなかったのか」などと言うようになりました。信仰が揺らいで行くのです。やがて、私がこんな目にあっているのは神様のせいだ、私は何も過ちを犯していない、私は潔白だ、責任は神様にあるのだ、というようになって行ったのです。
誤解のないように申し上げますが、ヨブのこの変わりようについて、私たちが上から目線で不信仰だとか言って非難することは出来ません。ヨブにとっては、どれも言うに言われぬ思いの中で出て来た血を吐くような叫びなのです。おそらくヨブを批判出来る人など誰もいないと思うのです。しかし神様は違います。神様から見れば、ヨブにいくら言い分があったとしても、それは通りません。自分を無罪とするために神を罪に定めるのは、明らかに罪であるのです。
神は次に、再度ご自分の偉大な力を示されます。「お前は神に劣らぬ腕をもち、神のような声をもって雷鳴をとどろかせるのか。」41章の終りまで、神のこうした言い方は続きます。これは38章や39章での神のおっしゃり方と共通していますが、たたみかけるように語ることで神の偉大さをますます強烈にヨブの前に現すことになっています。こうしてヨブは、今日のところでは口に手をあてながらしぶしぶ認めた神の正しさを、やがて心の底から認めるということになって行くのです。
ヨブは神に向かって「ひと言語りましたが、もう主張いたしません。ふた言申しましたが、もう繰り返しません」と言います。これは、それまでの自分の主張を引っ込めて、神様の前に白旗をあげて降伏している姿です。
ヨブは、以前のように自分の正義をかざして神に論争を挑むようなことは、あまりにおそれ多いことだとわかったのです。神はそれまでご自分が造られ、維持されている宇宙と自然をヨブに見せつけました。その内の何一つとして、神を超えるものはありません。神の言葉の中に人間は出てきませんでしたが、
人間も被造物の一つです。神によって創造され、そしてこれがほかの生物と違っていることですが、神の創造のみわざを見て、自分たちのなすべきことを知ることが出来るのです。…神はそのご支配が宇宙と自然を貫いていることをヨブに見せつけました。これを受けていまヨブは、神様に向かって自分が正しいと言うことは、被造物としての分を超えたことであることがわかったのです。
ヨブが神に向かってもうこれ以上主張しませんというのは、神に対する敗北宣言にほかなりません。ヨブはこの段階では、まだ神様に完全に心服したということではないのですが、そんな気持ちをぐっと飲みこんで神様にはかなわないと言うのですから、敗北宣言なのです。しかし、それはどうせ神様には何を言ってもむだだというようなあきらめから来るものではありません。ここで注意しておきたいことは、神にたいする敗北宣言というのは同時にサタンに対する勝利宣言なのだということです。
私たちはもしかしたら、ここで神様に対して兜を脱ぐことは間違っていると考えてしまうかもしれません。ヨブが問題にしてきた、神が治めておられるこの世界になぜ苦しみと悲惨な出来事があるのかということはまだ解決していません。神様がおられるのにこの世には不条理なことがまかり通っています。これをそのままにしたまま、ただ神様を信じるというのはおかしいのではないでしょうか。
そこで、頼りにならない神様を遠ざけて、人間の力で困難に立ち向かおうとする考え方が出て来ます。それは個々人の生き方から人類の未来に至る広範囲なところにあります。ヨブについて見ると彼は24章で、貧しく虐げられた人々の苦しみを告発していますがそうした問題の解決策として、お金のある人が貧しい人々に献金をするという方法がありますが、そうしたことではとても解決出来ない時に出て来たのが革命による社会の変革という考え方です。そこにはしばしば、無神論者が主導して神の存在を否定し、人間の力によって理想社会を実現しようということが起こります。理想の社会をめざして結集された努力、それを頭から否定することは出来ませんし、そのことが良いことをもたらすこともあるわけですが、しかしそれが暴走することを世界はいやというほど見てきました。
目的のためならどんな手段でも許されると考えて、暴力や大量殺人を蔓延させたことが起きましたし、理想社会を目指す勢力が権力を握った時にそれに反対する勢力の存在を許さず、独裁国家が出現するということもありました。偉大な理想を掲げて行われた企てがしばしば悲惨な現実をもたらすという現実は、人間は神ではありえないということを突き付けてくるのです。
ではキリスト者は、理想社会の追求などということは初めから放棄すべきなのでしょうか。そんなことはありません。日本キリスト教会は1983年に「現代日本の状況における教会と国家に関する指針」を出しました。そこでは信仰者が政治のことや社会のことに一切関わるべきでないという考えは、聖書に基づいて否定され、必要な時は、相手が国家であっても何であっても、「人間に従うよりは、神に従うべきである」とのみ言葉に基づく信仰を貫くことを求めております。
やっかいな問題は、キリスト者やキリスト教勢力が権力を握った時握った時にしばしば自分たちがいちばん優れているという錯覚に陥り、自分たちとは考え方の違う勢力や国家や宗教などを下に見て、敵対し、最悪の場合戦争まで起こしてしまうことがあることです。これはキリスト教信仰の曲解に基づく逸脱です。そうならないためにも、教会は信仰の核心にいつも肉薄し続けていなくてはならず、自分の欲望の実現のために聖書の言葉を持って来るようなことがあってはなりません。ヨブがたどりついたこと、神様に対して敗北するということは、人間存在や私たち自身にとっての敗北ではありません。神に対する敗北はサタンに対する勝利なのです。イエス・キリストはゲツセマネの園での祈りの闘いをされました。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」と。主イエスも父なる神のみ前に敗北したことでサタンに勝利し、十字架を引き受ける決意に導かれたのです。ヨブの場合、主イエスとは違うものの、やはり祈りの闘いの中で神の勝利にあずかったものと言えます。ヨブが求めていた、彼の受けた苦しみの理由を神は説明されませんでした。ヨブ記の最初に書いてある、神とサタンのやり取りはヨブのあずかり知らないことでした。しかし神が彼と共にいて、サタンに勝利した、ということだけで十分だったのです。ヨブの信仰に私たちも導かれたいと思います。
(祈り)
恵みと憐れみに富みたもう神様。きょう私たちをこの礼拝の場にお招き下さり、みことばを聞かせて下さったことを、感謝申し上げます。
この礼拝の時は、神様が私たち一人ひとりの中に、霊において住んで下さることを知ることの出来る時です。神様がヨブに向かって示されたように、神様のなさることを人間が批判して、神様を有罪にしてしまうことは出来ません。そのことを知らない人が、苦しみの中で神様を恨んだり、神様から離れたりすることがあるのですが、もしも私たちがそのような状況になった時、たとえ何もわからないような状態にあっても、神様を第一としてサタンを退け、それによって勝利の人生を歩む者とさせて下さい。
先週、沖縄では悲惨な事件が起こり、今週はオバマ大統領が広島に来ます。戦争と平和の間で揺れる日本と世界に、神様が愛される平和のメッセージが力強く語られてゆきますように。そのためにも、あなたの建てた一つひとつの教会に力を与えて下さい。
とうとき主イエスの御名によって、この祈りをお捧げします。アーメン。
聖霊が降る
使徒2:1~12 2016.5.15
皆さんは、イエス様がして下さった数々の素晴らしいことを知っているでしょう。イエス様のお言葉を聞き、イエス様がなさったことをその目で見た人たちは驚いて、この方こそ神様が送って下さった救い主キリストであると信じました。そこでイエス様のおそばにいた人たちは、イエス様がいつまでも自分たちと一緒にいることを願いました。しかしイエス様はついに天に帰られることになりました。あとに残された人たちには心細いことです。イエス様行かないで、と言う人もいたでしょう。とはいえイエス様がご自分を信じる人たちをひとりぼっちにしてしまうことはありません。イエス様はその人たちに「わたしは、父なる神様が約束されたものをあなたがたに送ります。その時まで、エルサレムの都にとどまっていなさい」とお命じになりました。そこでイエス様が言われた、父なる神様から送られるものとは、いったい何だと思いますか。 イエス様が天に帰られたあと、お弟子さんたちを中心にたくさんの人たちは、毎日ひとつの建物に集まり、みんな心を一つに合わせて、「神様がたたえられますように。イエス様が私たちとずっと一緒におられますように。…」とお祈りしていました。そうして、とうとう五旬節、ペンテコステというお祭りの日になりました。それはイエス様が十字架につけられてからちょうど50日目でした。 その日はみんな朝早くから集まっていました。昔の人はとても早起きでした。太陽がのぼって、夜が明けると、すぐに集まってお祈りを始めたのですが、そのお祈りがだんだん力強くなり、ますます熱心になって、まるで爆発しそうになった時です。突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえて、みんなのいる家中に響きわたりました。そして炎のような赤いものが舌の形になって現われ、一人ひとりの上にくだりました。するとみんな、まるで生まれ変わったようになって、神様やイエス様のことを熱心に語り始めました。 この日、世界各地に住んでいるたくさんのユダヤの人たちがエルサレムの都に集まっていましたが、大きな物音に驚いて集まってくると建物の中は大騒ぎだし、そこから街角に飛び出した人たちが熱心にしゃべっています。しかもある人はアラビア語をしゃべり、また別のある人はエジプトの言葉をしゃべっているというありさまで、あっけにとられて言いました。「なんということだ。この人たちはみなガリラヤの人ではないか。いつもズーズー弁を話している人たちがいまいろいろな言葉で話している、
それも神様の偉大なみわざを語っているとは、いったい何が起こったんだろう」。 ここでお弟子さんたちはこんなことを語っていたのだと思います。「イエス様は天から遣わされた神様のみ子で救い主なのです。イエス様は、イエス様を信じないあなたがたによって十字架につけられてしまいました。けれども死に打ち勝って復活されたのです。私たちはそれを見ました。どうか皆さん、自分がイエス様を十字架につけた罪を悔い改めてイエス様を信じて下さい。そこにしか救いはないのです」と。 もっともどんな素晴らしいことを言っても、言葉がわからなければ何にもなりませんね。英語がわからない人にいくら英語でしゃべってもちんぷんかんぷんです。しかしこの時、ふしぎなことですが、お弟子さんたちは世界のいろいろな言葉でイエス様のことを語ったのです。だからお弟子さんたちの語る言葉を、遠くの国からエルサレムに来ていた人がみんな理解できたのです。…いまイエス様のことは、世界中いろいろな言葉で、英語でもロシア語でも中国語でも、もちろん日本語でも語られていますが、その始まりとなったのが、この日に起きたことなのです。 では皆さん、この日お祈りしている人の上に与えられたのは何だったと思いますか。それは天から来て、一人ひとりの上に降りてきたのです。これは聖霊と言います。聖は聖書の聖、霊は幽霊の霊ですが、聖霊は幽霊と違って怖くありません。それどころか聖霊が与えられたことほど素晴らしいことはないのです。 神様はただおひとりです。けれども三つの働きをなさっています。聖書には、父なる神様と子なる神様と聖霊なる神様のことが書いてあります。父なる神様はわかりますね。いつもお祈りする時に呼びかけるのは、天におられる父なる神様です。次の子なる神様というのは救い主イエス様です。イエス様はただ偉い人というのではありません。イエス様も神様なのです。…そうして三番目が聖霊なる神様です。ペンテコステの日、お祈りしている人に与えられたのが聖霊という神様なのです。 いま先生は父なる神様、子なる神様、聖霊なる神様と言いましたが注意して下さい。3つの別々の神様がおられるのではありません。3つの名前があっても1つの神様なのです。 そのことを皆さんが知っているものに例えましょう。灯台というものがあります。海を照らす灯台です。皆さんは見たことがありますか。 灯台には、まず光を造りだす機械が必要です。機械が光を造る、それがレンズを通って外に出ます。暗い海を行く船は灯台の光を見て、「あ、あそこに陸地があるのだな」とわかる
ので、安全に運転することが出来ます。そこで灯台にある光を造りだす機械が父なる神様だとしますと、レンズはイエス様です。神様の恵みはイエス様というレンズを通して与えられます。そして灯台から出て来る光が聖霊なのです。灯台は、光を造りだす機械とレンズと光という3つの働きによって動いていますが、神様も、父なる神様、イエス様、聖霊という3つの名前を持った1つの神様なのです。 先生は今日のお話の初めに、イエス様がご自分を信じる人たちをひとりぼっちにしてしまうことはありません、と言いました。イエス様は天に帰られましたが、天からこの世界に聖霊を送って下さいました。聖霊が与えられた人たちはいろいろな言葉で神様のことを語り始めましたが、これが教会の始まりです。この日、イエス様のことを聞いて信じた人が3000人いたということです。この3000人が最初の教会を造りました。それが約2000年前の今日のことなのです。だから今日は教会の誕生日です。皆さんは誕生日が来るとお祝いするでしょう。それなら教会の誕生日は、もっと盛大にお祝いするのが本当ではないでしょうか。 (祈り)恵み深い神様。神様から見ればまことにちっぽけな私たちを神様は愛し、持っておられるすべてを注いで下さっています。いま聖霊なる神様がイエス様を信じる人たちの群れをつくって下さったこの日を、教会の誕生日として祝う礼拝に、私たちが集められていることを心から感謝いたします。私たちにはこの広島長束教会があります。世界には、また日本の中にも、教会のない町や村がいくつもあります。私たちがこうして教会に来ることが出来ることは本当に大きな恵みのたまものです。神様、2000年前のペンテコステの日に送って下さった聖霊を、どうか私たちの上にも送って、この場を満たして下さい。聖霊の働きによって神様の恵みにさらに目が開かれますように。イエス様のことがもっともっとわかってきますように。そうしてイエス様のことを知らないお友だちにもお話ししてゆくことが出来るように、知恵と力をお与え下さい。記念すべき教会の誕生日にあたって、神様の御導きに応える私たちの思いを増し加えさせて下さい。イエス様のみ名によって、この祈りをお捧げします。アーメン。
スマホから他の録音ソフト利用しましたが、音飛びしますね。更に改良必要。
最後のラッパと共に
ホセア13:14abcd、Ⅰコリント15:50~58 2004.5.9
コリントの信徒への手紙一から、キリストの復活と死者の復活を続けて学んできましたが、今日はそのまとめの話となります。 私が広島長束教会に赴任してから、葬儀を3回ほど行いましたが、葬儀というものは悲しみの中で準備に追われるご遺族ばかりでなく、牧師にも教会員にも葬儀社にも、たいへん重い責任が負わせられるものです。私が以前札幌の大きな教会で働いていた時は、かなりひんぱんに葬儀がありましたが、そのたびに右往左往して、慣れるということがありません。…皆さんは葬儀に出席したとき、そこで何を見るでしょう。どうしようもない虚しさでしょうか。滅びゆくしかない命の姿でしょうか。いいえ、そうであってはなりませんし、教会でそんなことが語られるようであってはなりません。この世には、すべてのものが滅びて、何もなくなってしまうという思想がありますが、これは私たちが信じていることではないのです。そこで葬儀の中で、故人がどんなに素晴らしい人だったかということを繰り返し聞かされることがあります。牧師がメッセージの中で故人の業績や徳をたたえるということもあるのですが、これは葬儀の本来のあり方からいうと、どうかな、と思いますね。故人を賞賛するのが葬儀の目的ではありません。他の教えならともかく、キリスト教では葬儀で神様のことを語ります。神様が故人に対してどんなに素晴らしいことをして下さったかということを語り、これに続けて、残された遺族や友人その他の人たちの上にも同じ導きがあることをお話しするのです。それなしに、いくら故人をほめたたえても意味がありません。神様が故人に対してして下さったことの中で最も素晴らしいことは、世界に対してして下さったことでもあります。それは十字架上で死んだイエス・キリストが復活なさったということで、神様がこれをなさった目的は、イエス様を信じるすべての人を復活させて下さるためです。イエス様を信じて生きた人々は永遠の命を授かるのです。葬儀において、牧師はそのことをこそ語らなければなりません。…古来、死に対する恐れと不安は、人間にとって最大の問題でありました。神様はこの問題に、復活という答えを出して下さいます。復活が見えてくる時、愛する人の死によって悲嘆に暮れるばかりの人にも慰めが与えられることを願います。悲しみの中にも神様を賛美する心があふれてくるなら、それは心に残る、本当の葬儀です。もっとも誰であったとしても、人間の生と死を通して神様がなさろうとされることを理解し、神様を賛美するまでになるのは簡単な道のりではありません。その心境に達するまで、私たちはどれほど多くの人生の山と谷を越えてゆかねばならないでしょうか。
…やはり人間には死から目をそむけようとする傾向がありますから、死はこわい、見たくないと思います。そこで、いろいろな楽しみを追いかけることで、死を忘れてしまおうとする人がたくさんいるのです。いくらそうしても、死はいつの日か必ず目の前にやってくるのですが。しかし、そもそも人間はなぜ死をこわいと思ってしまうのでしょうか。……もしもその理由が病気の苦しみとか体の痛みを思ってのことであれば、解決の道はあります。いろいろ議論されていますが、安楽死というのが一つの方法でしょう。しかし、いくら楽に死ねたからといって、それで死がこわくなくなってしまうわけではありません。ある人が人生に行きづまって、自殺を考えるようになりました。手首を切ったこともありました。しかし、死んで神様の前に立つことを思うとどうしても死ねなかったそうです。どんなに楽に死ねたとしても逃れることの出来ない、死の恐ろしさというものがあります。…それは私たちが罪びとであることです。罪をかかえながら、神様の前に立たなければならないということです。…それを思えばとても自殺なんか出来ません。それこそどんな所に行くことになるのかわかりませんから。…もしも誰か、自分には罪はないという人がいれば死はこわくありません。その人は、神様の前に胸をはっていることが出来るのです。しかし、そんな人はいないのです。 聖書を開きましょう。55節の2行目に「死よ、お前のとげはどこにあるのか」と書いてあります。死のとげとは何でしょう。56節に答えが載っています。「死のとげは罪であり、罪の力は律法です」。死はとげを持っている、それが罪だというのはなかなか難しいですが、こういう方向から考えたらどうでしょう。…この世界には、とげを持っていない死というのもあります。何かと言いますと動植物の死です。彼らには罪がありません。だから死においてもとげはありません。ちょうど時間が来ましたということで死んで行くわけですから、死はほとんど自然現象なのです。ところが人間はそうはまいりません。人間の死を犬や猫の死と同じと見なすことは出来ません。人間一人ひとりの死は単なる自然現象ではありませんから、人は罪がある限り死を恐れることになります。その罪をあばくのが律法です。…かりにモーセに与えられた十戒がなかったとしたら、そこに書いてあること、つまり偶像を拝んだり、盗みを行ったりということをしても罪に問われることはないでしょう。律法があるからこそ、「あなたがしていることは掟違反です。あなたは掟にふれずに生きていくことが出来ないのですか。それならあなたは神様の怒りを受けて滅びるしかありません」となるわけで、これが人間と他の生物との絶対的な違いなんですね。
律法が人間を罪に定めます。そこで、律法をすべてにわたって厳格に、完全に守れば罪から免れることが出来るはずです、理論的には。しかしパウロでさえそれが出来なかったことが、ローマの信徒への手紙に書いてありますでは、その状態から人間を救い出し、神様の前に恐れずに立つことが出来るための方法はないのでしょうか。夢のような話です。しかしそれがあるのです。イエス・キリストがすべての人の罪の身代わりとなって、十字架上で神の怒りを引き受けて下さった、そこから与えられる救いを頂くことです。すべてイエス様を信じる人、この方を救い主キリストと信じる人は犯した罪を赦され、救われて、永遠の命が与えられる、これはキリスト教信仰の根本です。まだ信者になっていない方はこのことを信じてほしいし、信者ならこのことをさらにはっきり心に刻みつけてほしいと思います。残念なことに、信者になって何年もたつのにこの点があいまい人は多いのです。ある集会で、「あなたは自分が救われていることを知っていますか」と尋ねられた人が、この人は信者なのですが、「自分にはわかりません」と答えたそうです。この人はイエス様を救い主と信じているのに、自分が救われるか、滅ぼされるかがわかっていないのです。この問題について聖書自体に語ってもらいましょう。ヨハネの手紙一の5章13節:「神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです」。永遠の命を得るというのは、願望でも目標でもなく、もちろんかなわぬ望みというのでもなく、今すでにそうだと言うのです。もう一つはヨハネ福音書3章16節です:「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。神は世を愛されます。愛する独り子イエス様を与えられたほどに。このイエス様は罪びとたちのために死なれ、贖いの働きを達成されました。このあと何が起こるでしょう。すべてイエス様を信じる者は滅びることなく、永遠の命を持つのです。これ以上、何が必要でしょうか。皆さんはどうでしょう。イエス様を信じる者は滅びず、永遠の命を持つと聖書に書かれていのに、すでに信者になった自分が滅びるかもしれないと考えますか。…そうであってはなりません。神様はお約束をたがえることはないお方です。 では今度は、人間は死んだあとどこへ行くのかということを考えることにしましょう、この問題をはっきり答えられる人はいません。私も見てきたわけではありませんからよくわかりません。キリスト者の間で二つの違った考えがあるようなので、そこからお話しいたします。
一つ目は、人が死ぬとすぐに天国か地獄に行くというものです。イエス様のお話の中にも死後天国に行った人や、地獄の炎の中でもだえ苦しむ人が出てきます(ルカ16:19~31)。もう一つが最後の審判ということです。世の終わり、キリストが再臨する時にすべての人が復活し、神と共に永遠の命にあずかる人と、反対に永遠の罰を受ける人とに分けられるというものです。この二つのことが私たちの頭の中に混在しているのではないでしょうか。いったい人が天国と地獄に振り分けられるのは死んですぐなのか、それとも最後の審判のあとなのか。……繰り返しますが、なにせ死後のことだけにはっきりしたことは言えません。聖書に書いてあること自体どちらにも取れそうですが、どうもあとの方が真実に近いと思われます。すなわち人が死ぬとずっと眠り続け、世の終わりに目ざめさせられ、神の前に立つのです。もっとも、ずっと眠り続けるといっても、当人たちにとってはほんの一瞬かもしれません。世の終りがいつになるのかはわかりません。イエス様ご自身、「その日、その時は、だれも知らない。…ただ父だけがご存じである」と教えておられます(マタイ24:36)。しかし、その日は必ず来ますし、「わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならない」、第2コリント書5章10節の言葉です。このことは神を信じず、神から離れて生きていた人にとっては恐ろしい瞬間です。
しかし私たちにとっては違います。最後のラッパが鳴ると共に、たちまち死者もその時生きている者も神のみもとに集められるでしょう。その時、朽ちるべきものが朽ちないものを着、死ぬべきものが死なないものを着る、すなわちイエス様を信じる者は罪と死から解き放たれて永遠の命の中に入れられるのです。私たちが今このように礼拝を守ることがゆるされているというのは、最後の審判に先立って罪を許され、神様との和解を与えられているということでもあります。 葬儀の話に戻ります。死と向かいあいつつ、しかし絶望を突き抜けた希望を見出すことが出来るのが本当の葬儀です。そうであれば、教会が行う葬儀は、いつどこで行っても神様をたたえる歌に満ち、力強く、またみごとに主イエス・キリストのご臨在を示すものとなるでしょう。私たちは、自分自身の死が見えてくるような中にあっても、悲しみと絶望に溺れてしまうのではなくて、「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか」と言うことの出来る者でなければなりません。私たちに先立って死んでいった信仰の諸先輩たちは滅びの門をくぐっていったのではなく、神様のもとに凱旋していったのです。そのことを知った時、累々と並ぶお墓は信仰の生涯をまっとうした人々の勝利の記念碑となるのです。私たちの主イエス・キリストによって私たちに勝利を賜る神様に感謝します。この世に生きている間も、死んだあとも、私たちを生かすのはキリストのみ名のほかにありません。
(祈り)恵みとあわれみに富みたもう神様。神様は私たちの力です、岩です、光です。…私たちがこの世に生きているときも、この世をあとにした時も、神様は私たちをイエス様と共におらせ、導いて下さいます。そのことを今日の礼拝でも告げて下さったことを感謝いたします。私たちはふだん自分自身の死も、世の終りと最後の審判にも真剣に向かいあうことの少ない者たちです。忙しいことを口実に、そこから目をそらせてしまっているのですが、そんな者たちをどうか憐れんで下さい。私たちが死ということに本当に向かいあうことになれば、いやが応でも自分が犯してきた罪が目の前に突きつけられることになります。私たちはそのことに耐えることが出来ないでしょう。しかしそんな者たちに、イエス様による救いの約束が与えられていることを心から感謝いたします。神様、どうか罪と死を打ち破る神様の力が、私たちの地上の人生に豊かに注がれて、そこからエネルギーを与えられ、私たちが生きている間、主の業に常に励むことが出来ますように、また死んだのち、みもとに召して下さるようにと心からお願いいたします。神様、広島長束教会の中にもいま死に至る病とたたかっている人がいます。どうかその人がイエス様の力によって心を強く保ち、少しずつでも健康な体を取り戻すことが出来ますようにと願います。九州での地震を止め、被災者のために祈り、働く教会、ボランティア、その他の多くの人たちに力と希望と慰めを与えて下さい。主のみ名によってこの祈りをおささげします。アーメン。
TEST
HI-Q MP3 RECORDERで音をとってみましたが音飛びします。聞き苦しくて申し訳ありません。今後も改善してまいります。
よみがえりの体
創世記2:7、Ⅰコリント15:35~49 2016.5.1
人が死んだらどうなるのかということは、人間にとってたいへん深刻な問題です。第一コリント書のこれまでの説教でも見て来ましたように、もしも死者がよみがえることがなく、人間死んだらすべてが無に帰してしまうとするなら、…「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」ということになります。これは、命を守ろうと、必死に死から逃げ回って安全な道を求めたあげく、どうしても死から逃れられないことを悟って、人生を失望とあきらめの内に終わる人の姿です。 これとは別に、最後までお金もうけに精を出す人もいます。ヤコブの手紙の4章13節から15節にかけて、そういう人が出てきます。「よく聞きなさい。『今日か明日、これこれの町へ行って一年間滞在し、商売をして金もうけをしよう』と言う人たち、あなたがたには自分の命がどうなるか、明日のことは分からないのです。あなたがたは、わずかの間現れて、やがて消えて行く霧にすぎません。むしろ、あなたがたは、『主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう』と言うべきです。」 ここでは商売するのがいけないと言っているのではありません。仕事による社会貢献を忘れて、ただお金もうけばかりしていることが戒められているのです。この人たちも、どうせ明日は死ぬ身ではないかと刹那的な楽しみにふけっている人たちと同様に、死から逃げ回っていることではかわりありません。…神はそんなことではなく、まず誰もが死から目をそらさず、しっかり見つめることを求めています。 人は、明日自分の命があるかどうかさえわかりません。すべての人間はまるで神の手の平の上にいるようなものです。人はすべて神のもとから来て、死後また神のもとに帰ってゆきます。死んですべてが終わるわけではないのです。私たちは死そのものよりも死んで神様に会うことこそおそれなければならないでしょう。そうだとすれば、この世に生きているうちから信仰の生活に励み、善いことをしてゆくべきです。その時、自分は何もできないと考える必要はありません。人はたとえ寝たきりの生活を強いられていたとしても、善いことは出来るのです。その一つが祈ることです。…現世は、人が神に会うための準備の期間なのです。その先に、復活ということが待っています。 けれども、そう納得するのは簡単ではありません。コリント教会にも神の力を信じられない人がいました。そこでパウロは、そういう人を念頭に想定問題を作ったわけです。「しかし、死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません」。
きっといろいろな声があったに違いありません。「パウロ先生は復活のことをおっしゃるけど、私たちは実際によみがえった人を見たわけでもないのに、どうしてそれを信じることが出来るのですか。人は霊魂となって復活するのですか、それとも生前の姿そのままなんですか。年取って死んだ人が復活したらやはり年寄りなんですか、もし復活できるんだったら私は若い時の姿で復活したいなあ。」これは私たちも思っていることでしょう。死者の復活をイメージするのは難しいです。…昔は土葬が多かったので、棺に入れられた死体が甦ることがイメージ出来たかもしれませんが、これではゾンビですね。今、私たちが火葬場で長い間待ったあと、骨と灰ばかりになった愛する人を見ると、それが復活するなんて想像しにくいと思います。…では、体は滅びても霊魂か何かになって生き続けるのでしょうか。…しかしそれは、聖書が教えていることではありません。死んだ人が化けて出てきたり、虫になって現れたりということを聞くことがありますが、少なくともそれは復活ではないですね。パウロはそんな弱々しいものを示しているのではありません。パウロは復活した人の体を「霊の体」と言います。ただ、私たちがそれを、霊の体だから形のないふわふわしたものではないかとか、それこそ幽霊のようなものではないかと考えるのはまちがいです。パウロは、人の霊魂が滅びないどころか体も復活することを力強く告げているのです。 パウロは、死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのかと聞いてくるだろう人を、愚かな人だと言います。私たちは、失礼な言い方だと思ってしまいますが、パウロの方はこんなこともわからないのかという感じです。パウロにとっては、あれこれと理屈をつけて死者の復活を疑ったり、その意義をおとしめてしまうこと自体、愚の骨頂だったのです。 パウロの考えは、あれこれ言っている人とそもそもの出発点からして違っています。彼はイエス・キリストの死と復活を植物に例えました。…あなたは種を蒔いたことがあるでしょう。あなたが蒔くものは、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒にすぎません。…しかしそれがどうなってゆくか。…種は芽をふきます。根をはって生き始めます。茎を伸ばします。やがて花が咲き、豊かな実を結びます。このように一粒の種は、そこからは想像も出来ないような新しい体となるのです。 ここには紀元1世紀の人々の考え方が反映されています。私たちは、種にはこれを実らせる遺伝子情報が入っているのを知っており、種が成長し、育って行くのを当たり前のように思いかちですが、これは昔の人たちにとっては驚くべきことだったのです。…みんな、種は死んだものと思っていました。種は全く死にました。そうとしか思えません。
しかし、その死のただ中から新しい命が生まれて来ます。大きく育ちます。そして元の種からは、とても想像もつかないような姿になるのです。たとえばからし種という、まるで粉みたいな小さな種が大きく育つと、空の鳥が来て枝に巣をつくるほどの木になります。昔の人はそれを見て、死んだものと思っていた小さな種のどこに、それほどのエネルギーがあったのかと思って、驚きに打たれたことでしょう。 種がこのように成長してゆくことが、死者が復活したらどうなるかということを指し示しています。 パウロは「あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか」と言います。種は死にました。少なくとも昔の人にはそう見えましたが、そこから芽が吹き出てゆきます。…イエス・キリストも死なれました。しかし新しい命をまとって、復活されました。イエス様を信じて死んだ人たちも、どうしてそうならないと言えましょう。…誰もが大なり小なり罪を犯して生き、そして死にます。しかし神様はイエス様のとりなしに免じて、かろうじてではありますが、一人ひとりの罪を赦して下さいます。死者は今度は永遠の命を与えられて生き続けることになります。では、そのありさまはどんなでしょうか。 イエス様の復活後のお姿は、生前のものとは微妙に違っていました。だから、イエス様と会ったのにそれがイエス様だとわからない人がいたのです。イエス様を信じて人生をまっとうした人が復活したあとも、生前と全く同じではないはずです。私たちの未来も同じです。私たちが死んで、よみがえった時、まず、それは幽霊や妖怪のような情けないものではありません。お化けとは違って、足があります、体を備えています。私たちは新しい体を与えられます。復活によって、私たちは全く新しい者となるのです。 私たちは、信仰によって、神様が与えて下さる新しい体ということをしっかり受けとめなければなりません。今のこの生活の延長線上に復活を考えてしまうと間違ってしまいます。復活において私たちは、神様によって新しく創造されるのですが、ここに種のたとえを重ね合わせてみましょう。私たちの今のこの体と復活後の体とは、種とそれが大きく育った時の姿ほどの違いがあるのです。種を見ただけで、それが将来どのような姿になるか、わかる人はそれほどいないでしょう。それと同じように、私たちの今の姿から、復活後、永遠の命を与えられた時の姿を想像するのは至難の業なのです。 私たちはそのことを知らないと、勝手な空想というか妄想に入り込むことになります。ある教会で、信徒の人が聖書研究をした時に目の不自由な人が質問しました。「天国では生前目の不自由だった人間は目が不自由なままなんですか」。信徒の人が「そうだ」と答えたので、目が見えない人は怒ってしまいました。これは怒るのが当然です。
人がこの世に生きている間、その人を苦しめていた障害が死後まで持ち越されることはありません。人は復活した時、年寄りは年取ったままなのか若い時の姿になるのかといったことはわかりませんが、私たちの想像の及ばない、素晴らしいことが起こるのは確実です。 私たちの今の体と復活の体は非連続に近いです。しかし私たちは復活において、別の人になってしまうわけではありません。私が私でなくなってしまうのではありません。その点では、今の私たちと、復活する私たちとは連続しています。38節から41節までの間に、どの肉も同じ肉ではないとか、人間と獣と鳥と魚ではそれぞれ違うとか難しいことが書いてありますが、神様がそれぞれに応じた新しい体を与えて下さるということです。復活において、全く新しい命と体を与えられるとしても、私は私、あなたはあなたであり続けることは確かです。 パウロは人が生きている時と復活の時を並べて、朽ちるものと朽ちないもの、卑しいものと輝かしいもの、弱いものと力強いものと言い表しました。これらはまとめると自然の命の体と霊の体とになります。ここにいる私たちはみな自然の命の体を持っています。それは最初の人間アダムから変わりません。私たちはみな、罪を犯して楽園を追放されたアダムの似姿になっているのです。しかし第二の人、最後のアダム、天に属する者であるイエス・キリストがおられます。イエス・キリストは、天におられるときの栄光のお姿をお捨てになって、私たちと同じ人間になって下さいました。私たちと同じようにご飯を食べ、労働をし、喜びも悲しみも共にされ、…そして死すべき人間と同じになられたのです。イエス様は本来、死を味わわなくて良い聖なるお方だったのに、死の苦しみを、それも十字架という苦しみを引き受けられました。イエス様は十字架上で死なれました。
麦が死ぬように完全に死なれたのです。しかし、一粒の麦は、地に落ちて死ななければ一粒のままですが、死んだことで多くの実を結びました。イエス様は死者の中から復されました。 イエス様は「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」(ヨハネ11:25)と言われました。実にイエス様が死者の中から甦られたことで、この方を信じるすべての人が甦ることになりました。こうして「天に属する者たちはすべて、天に属するその人に等しい」ということが実現します。つまりみんなが天に属する人、イエス様の似姿になるのです。……ですからイエス様を信じながら、自分の復活を信じることが出来ないで、あれこれ理屈を並べる人は不幸です。愚かな人だ、とパウロに言われてもしかたがないでしょう。 最後に、復活を待ち望んで歩む今の命について、お話しいたします。今日の聖書の箇所は難しいところが多く、40節以下の天上の体の輝きと地上の体の輝きが違い、太陽の輝き、月の輝き、星の輝きも違うというのもなかなか難しいのですが、今日は神様がお与えになる体がそれぞれ異なった輝きを持っているということをわかれば十分です。 復活後の素晴らしい命のことを聞くと、人はそちらにばかり憧れるということが起こりがちです。しかし忘れてならないのは、今この体をもって生きる地上の歩みもまた、神様が与えて下さったものだということです。もう、こんな生活ごめんこうむりたいということがいくらあったとしても、その中にも輝きが与えられています。自分では、こんな人間がどうして、と思っていても、そこにも輝きが与えられています。 神様が与えて下さる永遠の命と輝きを待ち望むことは、同時に、今のこの人生においても、神様がそれぞれの人に与えて下さった輝きを信じ、それを見出し、さらにこれを輝かせていくことであるのです。
(祈り)恵みと愛のうちに私たちを導きたもう神様。み名を賛美します。神様がこうして礼拝に招いて下さったので、私たちはこの世にはない恵みにあずかることが出来ました。今日も天から差してくる光にふれることが出来ました。感謝申し上げます。作家の三浦綾子さんは生前、自分には死という最後の仕事が残っていると言ってました。私たちは天国の素晴らしさを教えられていますが、そこにたどりつくのは簡単ではないことも示されております。まだまだこの地上で、悪戦苦闘しなければならないでしょうが、どうか残された人生の日々を神様の恵みをもって輝かせて下さるようお願いいたします。「天に属する者たちは、天に属するその人に等しい」、きょう私たちはもったいない言葉をいただきました。私たちのこの地上での毎日の生活、その一刻一刻が、天に属するイエス様を目指してのひたすらな歩みでありますように。広島長束教会に集まる人、関係する人々の中でも特に、苦しみと悩みの中でけんめいに生きぬいている人たちが、今日いただいたみことばによって力づけられ、恵みが与えられますようにお願いいたします。また全国の教会が、復活とそこに向かって生きる恵みを大胆に語ってゆけるよう、聖霊において信仰を増し加えさせて下さい。今、地震と闘っている九州の人々に希望と力を与えて下さい。この祈りをとうとき主イエスのみ名によって、み前にお捧げいたします。アーメン。
ウォークマンデスクを初期化して使うと何故か2か月8~9回で不具合が起きます。数時間かけてsonyさんがサポートしてくれましたが無理でした。(ソニーX-アプリ使用)今後はスマホで何とか30分録画したいと思います。御迷惑をお掛けします。
神の創造のみわざ
ヨブ39:1~30、マタイ10:29 2016.4.17
今日はヨブ記の中から、生物に関連したところを学んでゆこうと思います。 いわれなき苦しみにあえいでいるヨブの前に沈黙を破ってついに現れた神は、「わたしが大地を据えたとき、お前はどこにいたのか」とか「オリオンの綱を緩めることがお前にできるか」といった問いかけを立て続けになされます。どれも人間にはとても答えられないようなことばかりで、ヨブは何も言うことが出来ません。神は天体とか地球の始まりとか天候などに続いて、今度は生物について問いかけられるのです。 ここには山羊、ろば、野牛、ダチョウ、馬、鷹といった動物が次々に出て来ます。これらは私たちがふだん気にかけることもないものかもしれません。こういう生き物を相手に仕事をしている人は別として、ふだん人間と人間の間でばかり暮らしていると、こうした生き物に関心を持てなくなることがあるかもしれません。信仰の世界においても、神と人間のことばかり考えることが多いのです。そのためキリスト教の歴史の中では、長い間、自然について言及している聖書の言葉が見過ごされてきたように思います。神様が自然を通して教えられていることに目が開かれるようになったのは、世界的規模で自然環境の危機が叫ばれ始めてからと言っても良いのです。 ヨブは、神様が自分にされたことは不当だと叫び続けてきましたが、神は動物たちの生きる姿を示すことで、何かを示していられるのです。それを見てまいりましょう。 まず最初が山羊と雌鹿です。岩場で生活する山羊は今もパレスチナやアラビアにおり、ヨーロッパでアルプスやピレネー山脈に住んでいるものはアイベックスと呼ばれています。大きな角が特徴的です。パレスチナでは死海の周辺の切り立った岩場に住んでいるようです。私はテレビで見たことがあります。彼らは90度に近いような断崖絶壁の中で、不満も恐怖心も持たないで平気で暮らしています。そんな危険な場所で生まれ、育ち、身を守り、食べ物を見つけ、結婚相手を迎えます。誰から教えてもらうわけでもないのに、子供を産み、育て、乳離れ、親離れ、子離れするのは本当に不思議です。 これに比べて人間は、出産の苦しみでは山羊や雌鹿をはるかに上回りますが、それ以外で見るとずっと恵まれた環境に住んでいます。しかし、子どもを産み、育てることで苦労しています。山羊や雌鹿の世界では幼児の虐待はないし、親離れできない子も子離れできない親もおりません。 岩場の山羊が生活しているのは人間がとても入って行けない所ですから、彼らがいつ子供を産むのか、ヨブの時代には全くわからかったはずです。
現代でもまだまだわからないところが多いのではないでしょうか。つまり人間の知りえないところで、神のみわざがなされているということです。 次が野生のろばです。…家畜としてのろばは、当時たくさん飼われており、ヨブ記の最初にも、幸せな時代のヨブに雌ろば500頭の財産があったことが書かれています。これに対し野生のろばは、牧畜民にとっては自由奔放で御しがたい動物でありました。彼らは、人間ならとても生きていけないような荒れ地、不毛の地を住みかとしてかけまわっています。ただ、荒れ地や不毛の地と言ってもそれは人間の見方にすぎません、この動物にとってはそうした場所こそが楽園でありまして、かえって「町の雑踏を笑う」、人間が住んでいるところこそ不自由でたまらない場所なのです。 彼らは「追い使う者の呼び声に従うことなく、餌を求めて山々を駆け巡り、緑の草はないかと探す」。人間は、野生のろばなんて何とみじめな動物か、家畜になった方が良いのにと思いがちですが、野生のろばが口を開いたとしたら、大きなお世話だ、われわれは自由に生きているんだと言うことでしょう。神はこの動物も養っておられます。このように、人間の手が及ばない、神に守られた別の世界があるということです。 三番目が野牛です。野牛というのは昔は世界中にたくさんいましたが、今日ではすでに絶滅したものが多く、また絶滅危惧種になっているものもあるようで、数はたいへん少ないようです。 野牛は野生のろば同様に奔放で、しかもろば以上に荒々しく、人間が飼い慣らすことがきわめて困難な動物です。いくら力が強くても、人間の仕事を手伝わせることは出来ません。(家畜の牛ももともとは野牛だったので、たいへんな苦労して飼い慣らしたのでしょうが。) 神は、この、人間の手には負えない、人間の思い通りにならない動物もお造りになりました。こういう動物がいる、このことから、この世界が人間のためだけに造られたものではないことが教えられます。…今日、キリスト教を批判する人の中には、「キリスト教は人間中心で自然のことを顧みず、人間による自然の支配を進め、自然を収奪してきた。だから今の世界的な環境問題に重大な責任がある」と考える人がいます。…しかし、そこで批判されているのとは違うことがここにあります。神は人間の思い通りにならない動物を造り、彼らの居場所を確保することでお、人間のおごりを戒めているのです。 四番目がダチョウですが、この鳥は愚か者の代名詞だそうです。アラブ人はダチョウを「馬鹿者」と呼び、「お前はダチョウよりばかだ」という言い方があるということです。そんなことになったのは、ダチョウが卵を産んだ時、産みっぱなしで地面に置き去りにし、砂の上で暖まるにまかせるからです。そのため、ほかの動物が来て、卵を踏みにじることもあるわけです。
17節は「神が知恵を貸し与えず、分別を分け与えなかったからだ」と言います。…ここをこのように考える人がいます。「神はある動物を賢く、ある動物を愚かなものとして造られた。人間も同じで、ある人を賢く、ある人を愚かに造られたが、愚かな人がそのことで神に向かって文句を言うことは出来ない。造られた者である人間が造り主である神に口出しすることは出来ない」と。 しかし、この場所からこういう結論を導くのは行き過ぎだと思います。…ダチョウは愚かな鳥に見えますが、それでも生活を営み、ちゃんと子孫を残しているのですから。実はダチョウにはダチョウの知恵があるのです。ダチョウが自分の産んだ卵を砂の上に置いたままというのは、熱帯では地面が熱いので、親鳥が卵を抱いて暖める必要がないからです。さらに親鳥は何もしないどころか、あまりにも熱い時とか、反対に夜間で冷え込む時には、卵を抱いて保護することがあります。人間から見て愚かに見えたことでも、それはダチョウなりの知恵があってのことなのです。 だから、「神が知恵を貸し与えず、分別を分け与えなかったからだ」と神様がおっしゃったのは、人間への皮肉ではないかと思います。人間から見たら知恵も分別もないけれども、しかし神様がダチョウを見捨てておられるのではありません。その証拠に、ダチョウが走る時は時速40キロ以上にもなります。ダチョウは神様から素晴らしい能力を与えられているのです。 五番目が馬ですが、ここでは競走馬などではなく軍馬のことが言われています。馬はたいへん古くから飼い慣らされてきた、人間に最も身近な動物の一つで、たいへん優れた能力を持っています。その一例が戦いの時で、戦場を疾走し、弓矢に対しても、また鉄砲に対しても、ひるまずに突進して行くのです。 軍馬は最近まで使われてきました。二つの世界大戦を通して、軍馬を使った戦争はだんだんと消えてゆきましたが、現在でも戦争で使われることがあるようです。神様が馬に与えた勇気と力、これは今後、戦争ではないところで用いられなければなりません。 最後に鷹と鷲になります。「鷹が翼を広げて南へ飛ぶのは、お前が分別を与えたからなのか。」注解書によると、パレスチナに住むある種の鷹は、渡り鳥として南に飛ぶのだそうです。鷹が渡り鳥だというのは、私は初めて聞くことで少し驚いたのですが、渡り鳥といわれるものがなぜたいへんな距離を、進路を間違えずに正しく飛んで行けるのかについては諸説あって、現代でもわからないことがまだまだあるようです。その問題が解明されたとしても、神の偉大さがますます輝くことになるでしょう。 鷹も鷲もその王者のような風貌で人をひきつけます。彼らの目は素晴らしい視力を持っています。「その雛は血を飲むことを求め、死骸の傍らには必ずいる」、これは血のしたたる肉を食べていることからそう見えたのでしょう。
人間にとって目を背けたくなるような光景であっても、それも神のみわざの現れなのです。 今日私たちは、このように、自然界でさまざまな動物たちが生きている姿を見ることが出来ました。では、このことが示していることはなんでしょうか。 それは、ここで人間中心の世界観が否定されているということです。人間はとかく、人間こそがこの世界の主人公だと考えるものです。しかも、その中心に自分がいることも多いのです。自分のまわりで世界が回っているように思っている人はたくさんいます。従って自然界に対しても、人間あっての自然というような見方をしがちです。 しかし神はここで、人間の思いが及ばない世界があることを示されました。ここに出て来る動物たちの中には、馬のように人間に役立つものもありますが、岩場の山羊も野生のらばも、野牛もダチョウも鷹も鷲も人間のために生きているのではありませんね。人間には何の役にもたたない動物たちです。 神は人間をある目的のために造られました。ある種の動物たちも、人間の役に立つようにという目的で、神が造られました。しかし岩場の山羊から鷲にいたる動物の多くは、人間のために何かするという動物ではありません。神様は人間の知らない別な目的をもって、彼らを造られたと考えるほかありません。そして人間はその動物たちについて一部分しか知っていないのです。 神がどういう目的をもって、自然界を造り、これらの動物を造られたか、人間にはわからないことばかりです。そのことは人間には神のなさることを知り尽くすことは出来ないことを指し示します。…そうして、その神が人間を造られたのです。ここから類推すると人間も人間のことを知り尽くすことはできないということになるのではないでしょうか。 これまでヨブも、ヨブの友人たちも、自分の考えるところに従って、神のなさることはこうだとか、
こうでなくてはならないと言っていましたが、実はみんな間違っていました。神を自分たちの理解の中に閉じこめておくことなど誰も出来ません。 神が自然界において示されたことは、人間の目から見て喜ばしいこともあれば、全く理解できないこともあります。恐ろしさにふるえあがってしまうようなこともあります。ただ、どれも神がそのみこころによって起こされていることだけは確かです。人間は神のみこころを信じて安心なのか、大丈夫なのか、これは誰しもいだく疑問です。自分の信じている神がもしも暴君のような神だったら大変なことになります。…この時のヨブは、神が圧倒的な力で迫ってくる中、ただ御前にひざまずくしかなかったのでしょう。ただ私たちは、ここに現れた神のみこころの中心にイエス・キリストの出来事があることを知っています。ヨブが知らなかったことまで知っている私たちは、ヨブにまさる思いでこの神様に自分の人生をかけてゆきたいものです。 4月14日に熊本を中心に大地震が起こり、現在も収束していません。この地震が起きた理由を活断層のずれといったことで解明して行くことは大切なことですが、これだけでは、被災者たちの、なぜ自分たちがこんな目に遭わなければならないのかという疑問に答えることは出来ません。 1925年の関東大震災の時もそうでありました。なぜ神がこれほどの災いを起こされたのかわからないのです。しかし、ある教派の指導者はこう言いました。「われわれはすべてを失った。しかし、信仰だけは残った。」復興への新たな歩みが、そこから始まりました。 自然災害に遭遇して神のなされることがわからなくなることはあります。しかし、その時、信仰こそが苦しみを克服する道をつくります。私たちの思いでははかれない神のみこころの中にこそ、人生を真に生きる道があるのです。
(祈り)愛する天の、父なる神様。いま私たちは、神様が治めておられる自然界の神秘について聞くことが出来ました。動物たちの生態について、私たちがいくら研究したとしても、その先にさらにわからないことが待っていますが、私たちが自然を知れば知るほど、ますます神様の前に謙虚な者となることが出来ますように。動物たちをそれぞれ導いて行かれる神は、世界60億の人間たちをそれぞれ導いておられます。人間もまたわからないことだらけの存在です。自然も、人間も、本当に深く知ろうとするなら、神様の知恵に頼らなければなりません。神様、人間が神様の創られた被造物の一つにすぎないことを私たちはもはや口惜しいこととは思いません。神様のもとのその場所にこそ、私たち人間の人生の輝きがあり、自由があるからです。どうか、そのことを私たちの喜びとさせて下さい。神様、九州で起こった地震では日本キリスト教会関連での被害はごく少ないようですが、私たちはそれに安心していることは出来ません。いま多大な悲しみにある人の悲しみがいやされ、その悲しみが力に変えられてゆきますように、また日本中の人が九州の痛みを自分の痛みとして、共に喜び、共に泣き、あしたへの展望を開いてゆくことが出来ますように。そのためにもこの国にある教会すべてに神様の生けるみことばを与えて下さるようにとお願いいたします。尊き主イエス・キリストのみ名によってこの祈りをお捧げします。アーメン。
最後の敵、死を滅ぼす
詩編8:4~7、Ⅰコリント15:20~34 2016.4.17
今日は、九州の地震についてお話しすることも考えたのですが、いま自然の猛威の前に立ちつくしている状況で、語る言葉がすぐには出てこないので、聖書をそのまま語ることもこのことにつながると思いまして、前から予定した通りの話とさせて頂きます。教会ではいま第一コリント書から、復活に関するところを集中的に取り上げています。先週は死者の復活とキリストの復活について学びました。コリント教会の中に、イエス・キリストの復活を信じてはいるものの、死者が復活するなんてありえないと考える人がいて、これに対しパウロは手紙で、いったいどういうわけだと書いてきたのです。その要点は、キリストは復活された、だからキリストに結びついた死者も復活して永遠の命を与えられるのだ、というものでありました。コリント教会の中のある人々は、キリストが復活されたのは全歴史を通してただ一つの空前絶後の出来事で、キリスト以外に死んだあとで復活する人はなく、生きたまま世の終りを迎える人以外、すべての死者は滅びてしまう、と考えたのです。しかしパウロは、死者の復活を否定することはキリストの復活そのものを否定することになると言うのです。それは、死者が復活しないならば、キリストも復活する必要がなかったからです。まさに一人でも多くの人々を復活させて、永遠の命を与えるためにキリストは復活なされたのですから、キリストお一人だけの復活というのは、何の意味もないことなのです。パウロはそのことを「初穂」のたとえをもって言い表しました。初穂とは、その年の穀物の最初の実りです。初めて出来た穂は、引き続いて生じる豊かな実りを約束するしるしですから、これを見ると農民はとても喜びます。父なる神も復活されたみ子を見て、喜ばれたことは間違いありません。キリストが死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となって下さったことで、死者たちの上に復活の恵みが約束され、保証されるようになったのです。その恵みは当然、私たちにも及んでいます。私たちも、生きている内に世の終りを迎えるのでない限り、やがて死者となって眠りにつくことになります。しかし、いつの日か、キリストが引き上げて下さいます。キリストが死者たちの初穂として復活して下さったことにより、あとに続く私たちが神様の祝福を受けて復活出来るのです。パウロはそのことをさらにアダムとキリストの対比によって語ります。21節:「死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。」
創世記の初めに、最初の人間アダムが罪を犯したため、エバと共に死という定めを受けるようになったことが書いてあります。神はアダムに言われました。「お前は顔に汗を流してパンを得る。土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る」(創3:19)と。罪の報いは死なのです。ただ、もう少し説明しましょう。動物も植物も、すべての生物は必ず死にます。アダムやエバが堕落する前からそうですし、そのことは現在まで変わりません。こういう、自然現象としての死ということがありますから、罪の報いとしての死と言われると混乱してしまうのですが、動植物の死と人間の死は一緒に考えない方が良いでしょう。というのは動植物には罪というものがないからです。彼らは罪というものを知らずに生きて、死んで行くのです。人間はそうはまいりません。どんな人間の死であっても、それを動植物の死と同じように見なすことは出来ないのです。誰もが神様との関わりの中で生きています。神にそむくことが罪です。程度の差はあれ、すべての人が罪とのたたかいの中で人生を過ごします。そして、その総決算としての死と世の終りの復活、神の前での裁き、があるのです。アダムが犯した罪とは、神様の下で神様に従って生きていた人間が、それを束縛と思うようになり、神様に背いて、自分が主人となって生きようとしたことにあります。これが人間の罪の根本でありまして、私たちもみんなアダムと同じ罪を日々犯しているのです。その結果、神様と私たちとの関係は損なわれており、これが行くところまで行って神様との敵対関係になれば、死というのは神様の怒りと裁きのしるしでしかありません。「アダムによってすべての人が死ぬことになった」とは、そういうことです。アダムは全人類を覆う罪の初穂となったのです。けれどもこれだけがすべてではありません。パウロは、「死者の復活も一人の人によって来る」こと、そして「キリストによってすべての人が生かされる」ことを語るのです。神様が遣わして下さったみ子イエス・キリストが、全人類の罪を背負って十字架にかかり、死んで下さったことによって、このことを信じる人の罪が赦され、罪によってもたらされる死とそのあとに体験することに対して、苦しみ、恐れが取り除かれたのです。…もちろん私たちも、迫りくる死に対して不安や恐れを感じます。しかし、イエス様を信じることで、神様との敵対関係は根本的に解消されたのですから、もはや自分の死を神様の怒りや裁きとして恐れる必要はなくなったのです。キリストの復活はこのように、人を死の恐れや苦しみから解放し、新しい命の中に生かして行く恵みの初穂になっているのです。
キリストの復活は実に眠りについた人たちの初穂であって、このことによって死者の復活、ひいては私たち自身の復活の道が開かれたのです。…では、神はそれをどのような順序で実行されるのでしょうか。パウロは23節以下で、そのことを3段階にわたって示しています。私たちはここから、それぞれの順序だけでなく、神様が究極的に目指している目的を目にすることが出来るのです。第一段階がキリストの復活です。キリストは初穂として復活されました。これはすでに終わっています。第二段階が「キリストが来られるときに、キリストに属している人たち」の復活です。キリストが再臨される時に、キリストを信じつつそれ以前に死んだ人たちは復活し、永遠の命を受けて生きる者とされます。その時に生きている人たちも、生きたままキリストのもとに引き上げられ、やはり永遠の命を受けて生きる者とされるのです。最後の第三段階が世の終りです。24節25節はこう書いています。「そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。最後の敵として、死が滅ぼされます」。これはなかなか信じにくいことでしょう。今も、神に敵対するこの世のあらゆる力に取り囲まれている私たちには、これが空想か幻想に思えてしまうかもしれませんが、それは死を打ち破る神の力を信じきれていないからでありましょう。世の終りに起こることは、キリストが「すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡され」ることです。つまりキリストのご支配がすべてにわたって貫き通されることによって、世の終りが来るのです。私たちが生きている今のこの世界は、神様とは違う別の力が跳梁する世界です。人間の罪が力をふるい、人と人との不幸な関わり合いが、苦しみや心の病気、いさかい、対立、戦争まで起こします。それでもこの世界は神様のみことばによってかろうじて支えられており、もしもこれがなかったなら世界も日本の国も私たちもどうなってしまうかわかりません。…人間を苦しめているものの究極にあるのが死の力で、これから逃れられる人は一人もいません。しかしキリストが再びおいでになる時、これらすべての力を滅ぼし、神に敵対する力をすべてご自分の足もとに置かれるのです。私たちはこのことを信仰によって見ることが出来ます。…キリストはあらゆる罪を滅ぼされます。そうであるならば、最後の敵として滅ぼされるのが死です。神様は死の力をも滅ぼされます。ですからキリストが再臨される時、…死んだ者は復活するのです。 キリストの復活ということは死者の復活につながり、
それは宇宙と世界の歴史を支配したもう神様の究極の目的につながっているのです。皆さんにもこのことが少しずつでも見えてきたことと思います。コリント教会の人たちはそのことが見えなかったので、死者はみな滅びてしまうものと考えていました、しかしそれとは矛盾するようなことがあったのです。人間は、頭では、死がすべてを呑み尽くすと考えたとしても、それではとても割り切れない思いをかかえているものだからです。29節に書いてある死者のためのバプテスマというのは聖書の中の難所であり大きな謎です。コリントの教会はすでに死んだ人のために、生きている者がバプテスマを施したのでしょうか。しかもパウロはこれを認めていたのでしょうか。カルヴァンはこれを、死ぬまぎわの人が受けるバプテスマだと考えましたが、確定することは出来ません。いずれにしても、死によってすべてが終わってしまうならば全く必要のないことです。…ついでに申し上げますが、モルモン教会はここのところから死者のためのバプテスマを制度化しました。このグループは、神を信じないまま死んだ人であっても、教会がその人のためにバプテスマを施すと、その人は救われるのだと説いています。キリストによって立てられた教会なら、決してそんなことはいたしません。復活の希望がなければしないこととしてパウロが語った第二のことはこうです。「なぜわたしたちはいつも危険を冒しているのですか。兄弟たち、わたしたちの主キリスト・イエスに結ばれてわたしが持つ、あなたがたに対する誇りにかけて言えば、わたしは日々死んでいます。単に人間的な動機からエフェソで野獣と闘ったとしたら、わたしに何の得があったでしょう。」パウロが野獣と闘ったのかどうかよくわかりませんが、彼がいつも死の危険と向かいあいながら福音を宣べ伝えていたことは確かです。ここでパウロは、自分を見ろと言いたいのでしょう。パウロたち、この時代の伝道者はまさに命をかけて伝道して行きましたが、それは復活が確かなことだからこそできたことです。みんな、死を超えた先になお神の恵みと新しい、本当の命を見ていました。
…もしも復活がありえないことならば、この世の人生がすべてとなります。その時、人は死を恐れ、安全な方、安全な方へと逃げて行こうとします。32節の「単に人間的な動機から」、これは人間の考えとか、思いということです。つまりこの世の人生がすべて、死んだらすべておしまいということでは、野獣と闘うような危険を犯すことはありません。もちろん危険なことばかり挑戦するのが良いとは言えないのですが、死から逃げ回って、人生で安全な道を求めたあげく、かえって命を損なったり、失ってしまう場合があるのです。主イエスは、「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る」(マタイ16:25)と言われました。なぜ、こんなことを言われたのか。それは、命を守ろうとするあまり、命より大切なものを失ってしまうことが多いからです。しかし命を守ろうとどんなに必死になっても、死はどこまでも追いかけてきて、最後にはつかまってしまうのです。「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」というのは、命を守ろうと、必死に死から逃げ回って安全な道を求めたあげく、どうしても死から逃れられないことを悟って、人生を失望とあきらめの中に終わる人の姿です。人は命より大切なことを見出した時、死を恐れなくなるものです。人生をそれまで以上に充実させ、そうしてかえって命をながらえるものです。…私の知っているある人は20数年前、「私にはもうすぐ死という喜ばしいことが起こる」と言っていました。死というのは神様と会うことですから、喜ばしいことなのです。ただ、その方にすぐに喜ばしいことが起こったかというといっこうにその時は訪れず、いま92歳で、ますます元気に活動されています。…最後の敵、死が滅ぼされることを見据え、復活の信仰に生きることの一つの例として紹介させて頂きました。十字架にかけられて死んだキリストは復活され、ご自分を信じる者を救い上げて下さることを約束して下さいました。その先に、死が滅ぼされることと神様による世界の完成があります。私たちの思いや考えをはるかに超えた、この神様の恵みの中に私たちの人生があるのです。
(祈り)天の父なる神様。今日、私たちは礼拝に出席できるための健康と時間を与えられ、こうしてみ前に集うことが出来ました。すべて神様の恵みの賜物と思って、感謝申し上げます。神様、私たちの中で年若い者たちは別として、だんだん年を取ってくると、人生は下り坂に見えてきて、その先には滅びと死しか待っていないように思いがちです。しかしキリストに結ばれた私たちが、望みを持たないほかの人たちと同じであってはならないでしょう。どうか、過ぎ去ってゆくもののことを悲しまず、死の向こうから与えられる永遠の命にこそ目を向けさせて下さい。そこから与えられる光に照らされて歩む毎日を与えて下さい。神様、いま九州は激甚災害に襲われています。どうか今こそ神様の愛とお支えを災害の渦中にある人々の上に輝かせて下さい。いま救助を待っている人や生きるための闘いをしている人、救助隊やボランティア、彼らを支えるすべての人の上に、神様の力とお励ましが与えられますよう心からお祈りいたします。私たち一人ひとりにもそのためになすべきことをお示し下さい。神様の御導きをこそお願いいたします。とうとき主イエス・キリストのみ名によってこの祈りをお捧げいたします。アーメン。
復活:確かな望み
コヘレト9:4~6、Ⅰコリント15:12~20 2016.4.10
イエス・キリストが十字架の死のあと三日目に復活されたことは、いうまでもなくキリスト教の中心にあることです。キリスト教を宣べ伝えることは、キリストが死者の中から甦られたことを宣言することにほかなりません。他の宗教なら教祖の偉大さを宣伝したり、入信したらどんなに幸せになるか約束したりするものですが、キリスト教は誕生してから二千年の間、ひたすらキリストが復活されたことを世界に告げてきたのです。キリストが復活されたことは、キリストを信じる人たちの死からの復活を約束するものです。キリストお一人が復活されても、かりに自分たちみんな、死んで滅びてしまうのだとしますと、そんな教えはキリスト教からははずれてしまうでしょう。…しかしながら、復活ほどわかりにくいことはありません。求道中の方はもとより、洗礼を受けてクリスチャンになってからもそうです。中には、信者でありながらキリストの復活を否定する人がいます。私が以前勉強していた日本聖書神学校では、そこの先生で日本キリスト教団に属する人が、「キリストの復活は歴史的事実ではない」と教えていました。その先生が言われるには、キリストの復活は信仰の事実ではあるけれども歴史的事実ではないのだそうです。神学校の先生にもこんな人がいます。キリストの復活についてそれだけ、実に多様な考え方があるということですが、それだけに私たちは聖書の根本に立ち帰って、右にも左にもそれないようにしなければなりません。 キリストの復活がわかりにくいのは、なにも現代ばかりではありませんね。パウロが生きていた時代も同じでした。では復活をめぐってコリントの教会に起こったことは何だったのでしょうか。キリスト教の伝道はキリストの復活と聖霊降臨によって始まりました。人間の罪が殺してしまったイエス様を神はよみがえらせて主として下さったということを、コリント教会の人々もそれまで聞いて知っていたはずですが、パウロは、こうして手紙を出さなければならなくなったわけです。パウロは書いています。「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか」。ここでキリストの復活と死者の復活について問題を整理してみましょう。私は先ほど、キリストが復活したということは、キリストを信じる人たちの死からの復活を約束するものであると申しました。私たちはこれまで教会で、まずキリストが復活され、そのあとキリストを信じて死んだ人々が復活することを教えられてきました。そのあとと言いましたが、すぐにではありません。
死者は眠り続けますが、世の終わりの時、みんな眠りから覚まされて、神のもとに集められるのです。そのことをヨハネ福音書5章28節はこう書いています。「驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。」終りの時には善人も悪人も、キリストを信じている者もそうでない者もみな復活し、神の前で裁きを受けてふるいにかけられることになります。ヨハネ福音書のいまのところでは、善を行った者と悪を行った者とに分けられていますが、聖書全体から判断しますと、キリストを信じ、キリストに免じて罪を赦された者が善を行った者とみなされて永遠の命を与えられ、神と共に永遠に生きることになるとみなすことが出来ます。キリストを信じることのなかった人は裁きを受けることになりますが、その結果は神のみこころによるとしか私は言えません。そこでコリント教会の人々ですが、彼らは「死者の復活などない」と言っていました。注意しておきたいのは、それはキリストは復活しなかったという主張ではないということです。コリント教会の人々は、キリストが死んで、三日目に甦られたことは受け入れています。しかし、それ以外の人々とは区別して考えるのです。彼らは、死んだ人間が復活することなどありえない、と考えていました。…ただそれでは、この人たち自身、身の置きどころがなくなってしまうのではないでしょうか。キリストお一人が復活されても、死者の復活がなければ、キリスト以外の人間はすべて滅びてしまうからです。…そこで、当時の状況を調べてみるとこういうことがわかりました。初代教会の時代の多くの人々は、自分たちが生きている間にキリストが再臨され、世界が終わると考えていたのです。パウロ自身も初めはそのように考えていたことが、他の手紙からわかります。コリント教会の人々は、自分たちが生きている間に世界は終わる、自分たちは生きたまま神のみ前に立ち、永遠の命を与えられる、と考えていたのです。…しかし、この時代、イエス様を信じて教会に加わった人々の中にも、当然ながら死んでゆく人があるわけですね。その人たちはどうなるのか、という問いが生じてきました。…自分は生きたまま永遠の命にあずかると考えていた人たちは、世の終りの前に死んでしまった人たちは、残念ながら滅びてしまったのだと考えたのです。これは死者が復活することなどありえないというところから出て来た、当然と言えば当然の結論です。彼らは、イエス様なら死者の中から復活されても、それ以外の人間に同じことが起こるはずはないと考えたのでしょう。この結果、イエス様を信じ、生きたまま世の終りを迎える人たちとそれ以外の人たちの定めは全く異なってしまいました。
イエス様を信じたまま死んだ人たちと、イエス様を信じないまま死んでしまった人たち、イエス様を信じないまま世の終りに立ち会った人々が同じ定めになってしまうわけです。現代の教会が置かれた状況はコリントの教会とは違います。私たちは、世の終りがすぐに来るというような緊迫した状況の中で生きているわけではないと思います。いつその時が来るのかわからないまま、私たちはキリスト以外の死者が復活するということを何となく信じているわけですが、もしもパウロがここで教えてくれなかったとしたら、その理解にも達しなかったでしょう。 ではコリント教会の、死者の復活などないという主張に対してパウロはどのように反論したでしょうか。彼の議論の中心は13節の言葉です。「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです」。パウロが、ここで書いていることはわかりにくいと思います。論理の組み立て方が私たちにはなじみにくいもので、私もすべて理解することは出来なかったのですが、わかった限りのことでお話しします。まず死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったということですが、死者の復活が前提条件となってキリストが復活すると考えると、何がなんだかわからなくなるでしょう。そうではなく、もしも死者の復活がないのなら、そもそもキリストの復活が起こる必要はなかった、というのがパウロの言わんとしていることだと考えられます。…なお、今日の話の最初に、終りの日に悪人も含めすべての人が復活すると申しましたが、パウロはここで、キリストを信じ、キリストに結びついて死んだ人たちの復活だけを取り上げているものと思います。パウロの中では、キリストに結びついて死んだ人とキリスト自身の復活が固く結びついています。もしも死者の復活がないのなら、そもそもキリストの復活が起こる必要はなかった、これを私たちに置き換えて言い換えるとどうなるでしょうか。…世の終りがいつになるかわからず、今この中にも生きてその日を迎える人がいるかもしれませんが、そのことは考えないで、私たちはみんな終りの日の前に死者になっていると考えて下さい。…そうするとこうなります。「もしも私たちが復活しないのならキリストも復活しなかった。」、…これを逆から言うとこうなります。「もしもキリストが復活したのなら私たちも復活する。」パウロは、キリストの復活を、このことを信じる人間の復活と不可分の関係にあるものとして、とらえていました。キリストは復活されました。それなら、キリストと結ばれている私たちも復活し、永遠の命にあずかるのです。 パウロはこのあと14節から19節にかけて、もしもキリストが復活していなかったらということが書きます。もしも、キリストの復活が事実でなかったら……、キリスト教はすべて偽りの上に成り立っていることになります。
キリストが復活しなかったら、すべての死者は復活しません。たとえイエス様を信じていても、永遠の命にあずかれないのです。そうしますと教会に集まって礼拝することなど何の意味もありません。この教えを信じて死んだ人はみんなむなしい望みを抱いて死んだことになります。自分が復活できないのに復活できるのだと思いこんでいるのだとしたら、これほどみじめな人生はないのです。 キリストの復活と私たち自身の復活が結びついているということが大切です。私たちの中にももしかすると、キリスト様は復活されて当然だけど、私なんぞはとても無理です、という人がいるかもしれません。でも、それは死んでも滅びない命を提供して下さろうとするイエス様を冒涜することにもつながるのです。キリストが本当に復活されたのなら、それはキリストお一人だけに関わることではありません。キリストが復活されたのは、キリストにあって生き、そして死んだ者すべてを、ご自分と同じように復活させ、永遠の命に生きるようにするためなのです。そのことは20節のたとえで明らかになります。「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」。初穂とは、穀物の最初の実りです。初めて出来た穂は、引き続いて生じる豊かな実りを約束するしるしですから、これを見ると農民はとても喜びます。父なる神は復活されたみ子を見て、喜ばれました。それは大きな収穫が約束されているからです。キリストに結ばれている人たちは、たとえ終りの日が来る前に死んでしまっていても、未来は約束されています。パウロはこの観点から、キリストの復活を、すべてキリストを信じる者の復活を約束する、神が与えて下さった救いと希望のしるしとして示して下さったのです。 聖書は私たちに、キリストの復活を自分の人生と重ね合わせて信じるように勧めています。もしも私たちがくりかえし聖書を読んでゆくなら、このことがもっともっとはっきりしてゆくことでしょう。ローマの信徒への手紙の10章9節はこう書いています。「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるならあなたは救われる」。ここで皆さんにたとえ話をいたしましょう。
仮に私が佐藤さんに借金をしてそれが返せなくなり、裁判沙汰になってしまったとします。裁判所は私に借金を返せなければ牢屋に入っているようにと命じます。私は借金を返せず、牢屋に入ることになりました。しかし、その時、私の良い友人である田中さんが、私の身代わりになって牢屋に入り、刑を受けてくれました。田中さんが牢屋に入ると私は自由になりました。しかし、私の体は自由になっても、心は依然として自由ではありません。なぜなら、田中さんが自分の身代わりとなって投獄されたことが、本当に問題の解決になったのかどうか、私には確信がもてないからです。田中さんに申し訳なく思います。田中さんが牢屋に入っている間、私の心には平安がありません。……いつ私の心は自由になるのでしょうか。それは田中さんが牢屋から釈放されて、私の案件が終わるときです。その時はじめて、私の心は自由になります。キリストが十字架の上で死なれたその時、私たちの罪の問題は解決しました。しかし、キリストが死なれただけで、死の中にとどまり続け、復活しなかったとしたら、私たちはこれで良かったのかと思うことでしょう。キリストの死が神様の要求を満たしたかどうかわからないからです。しかし、神様はキリストを死者の中から復活させました。私たちはキリストの復活を見るとき、私たちの罪深い案件が最終的に解決したことを確信できます。…そうでなければ、なぜ神様がキリストを復活させるのでしょうか。神がキリストを復活させたのは、私たち人間の罪に対する裁きについて神が満足しておられるからです。私たちが、キリストの復活を信じることが出来た時、私たちは自分が神様の前に晴れて義とされ、罪のない者となったことを確信出来るのです。キリストの復活を信じるということは、自分の生涯は死をもってすべて無に帰すのではなく、死を超えた勝利の命を約束されていることを確信することでもあります。私たちが聖書に示された、この確かな望みに生きる者となりますようにと願います。
(祈り)私たちに永遠の命を賜う聖なる神様。私たちはそれぞれ、重荷を背負いながら懸命に生きておりますが、こんな私たちを今日みことばによって信仰の確信を与え、強めて下さったことを感謝申し上げます。私たちはいま、復活について大切な示唆が与えられました。口では復活を信じると言っても、実際は死の力の前におびえ、無力感にさいなまれている者たちをどうか憐れんで下さい。神様は私たちが思うよりはるかに大きなお方です。神様が与えて下さる救いの恵みは、私たちが願っているよりはるかに素晴らしいものに違いありません。どうか神様がイエス様を復活させた、その恵みを私たちが自分から断ち切ることをせず、感謝して受けとめ、大きく育てて行くことが出来ますように願います。絶望している人に希望を、弱い人に勇気を、強い人にやさしさを与えて下さい。とりわけ病気とのたたかいのため、また老齢のために教会に来ることが出来ない人たちを顧みて下さい。聖霊のお助けなくしては、一日たりともみこころにかなった歩みが出来ない私たちが、どうか罪と死から解き放たれ、それゆえにこそ毎日を主を仰ぎつつ、平安の中、大胆に生きてゆく者として下さい。尊き主イエスのみ名によって祈ります。アーメン。
キリストの復活youtube
ホセア6:1~3、Ⅰコリント15:1~11 2016.4.3
私たちは3月20日に主イエスのご受難を記念する礼拝を、27日に復活を記念するイースター礼拝と祝会を行いました。ペンテコステはこのあと5月15日となります。そこで、ペンテコステに至るまで、復活についての聖書の教えを4回にわたって学ぼうと考えております。 そこでコリントの信徒への手紙一を取り上げたわけですが、この手紙が書かれた事情については折りに触れて見て行くこととして、パウロがこれを書いたのは紀元55か56年だということが判明しています。ここにキリストの十字架と復活についての証言がありますが、この出来事は30年頃に起こったので、20数年あとの証言ということになります。これが文字に書かれたものとしてはいちばん早い、歴史上最初の証言だと考えられています。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書は、70年以降に成立しているからです。 15章全体の主題は死者の復活です。コリントの教会では、人が死んだあと復活するかということが大きな問題となっており、これについてパウロが書いているわけですが、その中で、どうしても語らなければならないことがキリストの死と復活でありました。 この世界に教会というものが初めて出現した頃、初めから繰り返し伝えた事柄は何であったでしょう。それはキリストが十字架につけられたことと復活されたことです。このことをパウロは3節から5節にかけて書いています。「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。」 最も大切なことというのは、選択肢がいくつかある中で、最も好ましいものということではありません。これこそが中心であって、仮にこれがなかったとしたら全体が崩壊してしまうような、なくてはならないもののことです。 パウロは1節で、「わたしがあなたがたに告げ知らせた福音」と言います。福音とは良い知らせ、それはコリントの人々が受け入れ、生活のよりどころとしているのですが、その中心が3節以下の「最も大切なこと」、すなわち「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたこと」なのです。
まずここで、キリストがわたしたちの罪のために死んだということをみてみましょう。イエス・キリストは数々の素晴らしい説教やみわざを行いました。キリストの伝記を書こうとしたら、題材には事欠きません。しかし、それらすべてを飛び越えて、十字架の死が二つの中心の一つとして置かれているのです。 もっとも、それは、イエス様の教えやみわざなどどうでもよいということではありません。この点は誤解されませんように。むしろ、それらすべてが、十字架の死からふりかえってみることで、本当の意味や大切さがわかってくるのです。十字架の死は「わたしたちの罪のため」に起こったのです。イエス様はわたしたち、すなわちここにいるわれわれを含む古今東西のすべての人の罪を一身に背負い、その身代わりとなって十字架につけられました。それは、この方を信じる者の罪が赦されるためです。 もしも、この十字架の出来事を見ないで、つまり頭からはらいのけたままで、イエス様のご生涯を見るとどうなるでしょう。…横浜に世界八大聖人をまつるお堂があり、そこにイエス様も孔子やソクラテスやブッダやムハンマドなどと共にたたえられているそうですが、そのような、ほかに何人もいる聖人や偉人の一人にすぎなくなってしまうでしょう。…そんな人の中でよくあるのが、イエス様の山上の説教は素晴らしいとしてこれを尊ぶ一方、十字架のことはわからないし、興味もない、という態度です。もちろん山上の説教は尊ぶべきですが、もしもそこから十字架を取り除けてしまえば単なる倫理的、道徳的な教えでとどまってしまいます。私たちは、イエス様の生前の教えもみわざも十字架と結びつけて心に刻みつけて行くのでなくてはなりません。 十字架の出来事は、「聖書に書いてあるとおり」に起こりました。パウロがこれを書いた時点で、新約聖書はまだ出来ていませんから、これは旧約聖書のことです。パウロはキリストの十字架の死が旧約聖書に書いてある通りに起こったのだと言うのです。…それは、この出来事が歴史の中でたまたま起こった事件ではないし、「わたしたちの罪のために死んだ」というのもパウロの勝手な思いつきなどではないということです。 旧約聖書をひもといてみると、キリストの十字架を予告するたくさんの言葉がありますが、その一つ、イザヤ書53章に「苦難の僕」として知られる預言があります。深く心を打つところです。そこの5節に「彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった」、また「彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」という言葉があります。……これらは、間違いなくキリストの十字架の死を指し示しています。
キリストが人間の罪のために死んだというのは、キリストが処刑されたのちに後からこじつけた説明ではありません。何百年も前、いやそれ以上昔から預言されていたこと、すなわち神のみこころによって行われた出来事である、とパウロは言いたいのです。 パウロは続けて、4節でキリストが葬られたことを明記します。墓に葬られたことがそんなに重要なのかと思う方がおられるかもしれませんが、これは書かなければならなかったことでした。キリストは十字架から降ろされた時、仮死状態だったのではありません、確実に死んでおられたのです。神のみ子キリストは死ということにおいてまで、人間たちと共におられました。死を味わって下さいました。…イエス様が私たちに先立って死んで下さった、このことは死という定めの前におびえているすべての人にとってこの上ない慰めとなるでしょう。イエス様は死者の内の一人となられました。このことは、次に来る復活への備えとなっています。 パウロは次に福音のもう一つの中心、キリストの復活について語ります。これはキリストの十字架が自分たちの罪のためであることよりもっと信じがたいことではないでしょうか。しかし、これを信じることが出来ないままで、人が救いに入ることはありません。復活も聖書に書いてあるとおりに起こりました。旧約聖書には復活を指し示す言葉もいくつかあります。なかなか意味が取りにくいのですが。詩編16編10節11節は歌います。「あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく、あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず、命の道を教えてくださいます。」ホセア書6章1節2節、「主は我々を引き裂かれたが、いやし、我々を打たれたが、傷を包んでくださる。二日の後、主は我々を生かし、三日目に、立ち上がらせてくださる。」…ホセア書は我々と言ってますね。これはイエス様と信徒は結ばれているので、信徒はイエス様と共に罪に死に、イエス様と共に復活するということではないかと思いますが、これについて今日はこれ以上話す時間がありません。パウロはキリストの復活を宣べ伝えることの大変さを身にしみて知っていました。彼がギリシアのアテネで伝道したときです。初め、パウロの話を聞いていた人たちが、キリストの復活に話が及んだとたん、ある者はあざ笑い、またある者は「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言いました(使17:32)。パウロの行くところ、どこでも同じようなことがあったでしょう。そこでパウロは、これが実際におこった事実である、と力を尽して語るのです。
この手紙が書かれた紀元55年ないし56年は、キリストの復活の出来事があってから20年ほどしかたっていません。歴史の中で、それが実際に起こったかどうか、真実を確かめる方法は第一に証言です。この時、キリストの復活を目撃した証人がまだたくさん生き残っていました。ですから、ここで多くの証人たちの名前が挙げられています。「ケファに現われ、その後十二人に現われた」。ケファとはペトロのことです。復活されたキリストはペトロに現われ(ルカ24:34)、次に使徒たちが集まっているところに現われました(ルカ24:36~43、ヨハネ20:19~23)。ユダがいないから11人ではないかという人がいますが、これは十二人という名前で使徒たちの一団を指したものではないかと考えられています。こうして6節以降に入りますが、「五百人以上の兄弟たちに同時に現われ」というのは、よくわかりません。聖書には、ほかのどこにも記録されていないことだからです。次いでヤコブに現われました。ヤコブはイエス様の弟で、初め自分の兄を救い主とは信じなかったのですが、十字架の出来事のあと人生を180度転換させ、初代教会の有力な指導者になりました。「その後すべての使徒に現われ」、12弟子以外のすべての弟子たちに現れたことのようです。…このように、キリストが復活なさったことについては、たくさんの証人がいます。ですから、復活は絶対に起こったことなのです。「そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現われました」。月足らずとは未熟児のことですね。昔は未熟児が生存する可能性は低かったので、もしもその子が生きながらえたら両親はたいへん喜んだことでしょう。まるでそのような自分にキリストが現れて下さった。これはもちろん、キリスト教会の敵であったパウロがキリストと衝撃的な出会いをして、伝道者となったことを言っています。神の罰を受けて殺されても当然の自分が今こうして生きている。キリスト者となり、それどころかキリストの復活を証言してまわる者となっている。何もない自分と比べ、神の恵みがいかに大きなものであるかをパウロは語らずにはいられないのです。
聖書を読みながら、一つ気がついたことがあります。それは、復活を語ろうとするとき、自分がどうしてキリスト者になったかに思いをいたすことが多いということです。パウロは神がなさったことを語りました、それはそのまま自分がどうして伝道者になったかを語ることになりました。このように、キリストの復活を信じて語ろうとする人は、こんな自分が変えられていまキリストを信じて生きている、生かされている、そのことに必ず向き合うことになると思うのです。「神の恵みによって今日のわたしがあるのです」というとき、パウロには万感胸に迫るような思いがあったのではないでしょうか。パウロは他のすべての証人と共に、十字架につけられて死んだキリストが復活されたことを力強く語ります。…復活されたキリストに出会って古い自分が死に、新しい自分が生まれた。いま自分は復活の主によって生かされている。自分と共にある神の恵みはつきることがないのだ、と。復活されたキリストはケファに現われ、12人に現われ、500人以上の兄弟に現われ、ヤコブとその他すべての使徒に現われ、最後にパウロに現われました。パウロが最後です。それ以後、この世で直接キリストにお目にかかった人のことを私は知りません。それでは、復活したキリストが現れていない人は神の恵みが受けられないのでしょうか。そんなことはありません。ケファからパウロまでの人たちは、いわば人類を代表してキリストに会ったのです。私たちは聖書を読み、礼拝に参加し、祈ることで、聖霊の導きの下、十字架と復活の奥義に肉薄し、この人たちの体験を自分のものとすることが出来ます。そのことによって神の恵みにあずかります。ここにいる私たちの人生が本当に良い実りを生んで行くものとなるのは、イエス・キリストにおいて神様がなしとげて下さった救いに感謝し、これに対して少しでも応えて生きようとするところにあります。つまり私たちの生活全体が、福音の中に置かれることによってです。この福音は、人生のアクセサリーなどではありません。まさに生活のよりどころなのですが、その中心に十字架と復活が立っています。
私たちの人生と生活の全体が、十字架と復活の二つによって支えられていますように。その時、たとえまわりの人からどう思われようとも、自分でも満足できないとしても、神の恵みの中にいるのです。
(祈り)恵み深い神様。私たちの飢えた心を今日、この日の礼拝によって満たして下さっていることを覚え、心から感謝いたします。 主イエス・キリストの十字架と復活は私たちの信仰の何よりも大切な二つの柱ですが、なかなかここに近づくことが出来ません。神様から目に見える幸せをいただくことばかり願うあまり、キリストの御苦しみと勝利に心が向かわなのです。とりわけ、復活になるとただのお題目のようになってしまうことが多いのです。それは、ふだん罪と死の力にあまりに強くとらわれていて、これを打ち破る神様が見えなくなっているからに違いありません。神様、どうか私たちの心の目を神様に向かってもっと開いて下さい。復活を信じている口では言いながら、死んだも同然な心をかかえて生きる者としないで下さい。神様の救いを求めながら、悩みに打ちひしがれそうになっている人々がたくさんいますが、キリストは死に勝利したのです。それなら、この世にこわいものは何もないはずではありませんか。どうか弱い、臆する心の一つ一つに喜びの知らせを届けて下さい。 どうか広島長束教会がキリストの十字架と復活をほめたたえ、そこからのみ生まれる平安を伝えてゆく教会でありますように。この祈りを尊き主イエス・キリストの御名を通して、み前におささげします。アーメン。
イエス様の復活と私たちyoutube
マタイ28:1~10 2016.3.27
先生が中学生の時のことです。仲良くしていた友だちのお母さんが突然倒れて、しばらく昏睡状態が続いたあと死んでしまったのです。まだ48歳という若さでした。お葬式に出て、つらい思いになりました。だってその日の朝まで元気だったのに、つめたくなってしまい、もう会えなくなってしまったからです。その日、先生の友だちは気丈にふるまっていましたが、6つ下の弟さんは泣きじゃくっていました。 今日ここにいる日曜学校の子どもたちは、身近な人が死んだ経験があるかな。日本では、人が死ぬと葬式を行い、そのあと死体を焼き場に持っていって焼くことになっています。死んだ人に最後のお別れをして焼いてしまうと、骨が残ります。これを遺骨と言って、壺に入れてお墓におさめるのです。悲しいし、残念だし、また怖いのですが、イエス様が亡くなられたあと、残された人たちの気持ちも同じようなものだったと思います。 皆さんは、教会でいつもお話ししているイエス様が、神の子で救い主だということを知っているでしょう。イエス様はすばらしいみ言葉を宣べ伝え、また病気や心の悩みのために苦しんでいるたくさんの人を救って下さいました。 お弟子さんたちや女の人たちはイエス様を尊敬し、崇めていました。イスラエルの国を救い、国民を幸せにするのはこの方に違いないと信じて、みんなイエス様の行くところにはどこにでもついてきて、イエス様のお役に立つことならなんでもしようとしていたのですが。…ところがそのイエス様が十字架にかけられてしまいました。これはイエス様のおそばにいたすべての人たちにとって、天地がひっくりかえるような大変な出来事でした。 マグダラのマリアさんたち女の人たちは、イエス様が十字架の上で苦しんでおられるのを泣きながら見つめていました。イエス様はついに亡くなって、十字架から降ろされました。昔は死体を焼くことはなかったので、ご遺体は岩をくりぬいたお墓に運びこまれました。その入り口に大きな石が置かれました。女の人たちはその様子を見届けましたが、これは女の人たちにとって、すべてが終わってしまったということです。イエス様が死んでしまっては、生きていてなんの良いこともありません。イエス様がどんなに正しい方であっても、どんな素晴らしいことをなされても、死んでしまったらもうおしまい、あとには何も残らないのです。…このあと自分たちに出来ることといったら、イエス様のご遺体に油を塗って、きれいにしておくことくらいでした。
イエス様が死んだのは金曜日です。女の人たちは次の土曜日は安息日なので一日休んで、日曜日の朝、お墓に向かいました。イエス様のご遺体に香油を塗ったりして、ていねいに葬ってさしあげようとしたのです。 するとどうでしょう。二人の女の人がお墓に向かって歩いていた時、地面がぐらぐらと揺れました。そう、地震が起きたのです。するとイエス様のお墓にふたをしていた大きな石が転がってしまい、その石の上に天使が座りました。まばゆいばかりの姿でした。お墓の番をしていたローマの兵隊たちは、怖くなって、倒れてしまいました。マリアさんたちも怖くて倒れそうだったのですが、天使は言いました。「怖がることはありません。あなたがたが探しているイエス様は、もうここにはおられません。よみがえられたのです。さあ、お墓の中をごらんなさい。そして、このことをイエス様のお弟子さんたちに伝えなさい」。 二人の女の人がお墓の中をのぞいてみると、確かに、そこにあったはずのイエス様のご遺体がありません。二人はこわかったのですが、でもイエス様がよみがえられたのだとしたら、これほど嬉しいことはありません。急いで走り出して行きました。するとどうでしょう。行く手にイエス様が立っておられるではありませんか。…イエス様は静かに「おはよう」と言って挨拶をされました。それは、いつもの、あの優しいイエス様でした。二人は嬉しさと感動のあまりイエス様に近寄って、その足を抱きかかえ、み前にひれ伏しました。それはイエス様への礼拝でありました。 十字架の上で死んだイエス様がよみがえった、これを復活といいます。もっともイエス様は生きていた時の元の体に戻られたのではありません。新しいお体になられました。皆さんの中には、死んだ人が復活するなんて冗談じゃない、いくらイエス様でもそんなことがあるはずないじゃないかという人がいるかもしれません。でも、イエス様は本当に復活されたのです。イエス様が復活されたことは神様とイエス様ご自身が宣言されました。そして、その時代に生きていたたくさんの人たちも言っていることですから、絶対に確かなことなのです。 神様の敵である悪魔は人間たちをそそのかして、イエス様を十字架にかけて、殺してしまいました。こうして、イエス様がどんなに素晴らしい方であっても、死んでしまったらおしまいなんだ、と世界の人に見せつけようとしたのです。 でもイエス様がお墓の中や死の世界に閉じ込められたままでいるはずはありません。
神様はイエス様を死の世界から救いだされました。…神様に立ち向かうことのできるどんな力もこの世界にはないからです。…世界にとってこれほど素晴らしいことはありませんでした。 人は必ず死にます。いまどんなに元気な人であっても、永久に生きて行くことは出来ません。…そして、人が死んだらどこに行くのか、私たちにはわかりません。…イエス様も同じようになるところでした。しかし神様は、イエス様を復活させることで、死ぬことがすべての終りでないことを見せて下さいました。 聖書は私たちに教えてくれています。イエス様を信じる人は死んで生きるということを。…私たちみんな、いつかは死にます。しかしそれは、死んで何もなくなってしまうというのではないのです。死んでよみがえられたイエス様は私たちと一緒におられ、新しい、永遠の命の中で生かして下さるでしょう。 (祈り) 天の父なる神様。私たちがイエス様の復活を記念する礼拝に集められ、ここで神様を賛美することの出来る恵みを心から感謝します。 イエス様は本当に復活なさいました。それまで人間は死という恐ろしい力の前に誰もなすすべがありませんでした。あきらめるしかありませんでした。しかし、神様はご自分が死を打ち破るお方であることを世界に示して下さったのです。 神様、私たちはすでに死んでしまった大好きな人たちのことを思うと、悲しみを押さえることが出来ません。しかし、みんな死に打ち勝った神様の恵みの下にいることを感謝いたします。私たちすべて、いつかは死にます。ここにいる子どもたちもいつかは死にます。しかし神様の憐みの下、この世に生きている間、命を大切にし、死んだあとも神様のもとで永遠の命を賜りますように心からお願いいたします。 今日、このあと行われる小児洗礼式を守り、導いて下さい。 いま世界はテロや戦争におびえています。そんな世界に、教会を通してイエス様の勝利を告げ知らせて下さい。 尊き主、イエス様の御名によって、この祈りをおささげします。アーメン。
十字架の言葉youtube
Ⅰコリント1:18~25、イザヤ29:13~14 2016.3.20
本日、イエス・キリストの十字架の死を記念する礼拝にあたり、パウロの書簡から学ぶことにいたしましょう。 コリントの信徒への手紙を書いたパウロが、福音を全世界に伝えようと、ユダヤから船に乗って当時の世界各地をめぐったことはよく知られています。私がギリシアのアテネに行ったとき、パウロがそこに乗って演説をしたというアレオパゴスという大きな岩を見ました。私はその岩に向かい合って、アテネの中心をしめる大きな山と有名なパルテノン神殿が立ちはだかっているのをみて、「パウロはたった一人でギリシアの神々と立ち向かっていたのか」と思って驚いたものです。その場所から車で一時間ほどの距離のところにコリントがあります。昔栄えた町は今は廃墟になっていました。 パウロがアテネやコリントでたたかった相手は多かったはずです。何しろそこは輝かしい文化を持つギリシアの中心地なのですから。みごとな建築や美術品、人々を熱狂させたスポーツの祭典、洗練されたファッションや食文化もあったのではないでしょうか。何よりそこは、世界に冠たる学問の都でした。ソクラテス、プラトン、アリストテレスなどの哲学者、アルキメデス、ピタゴラス、ユークリッドなどの科学者の名前がきら星のように輝いています。こういった学問によって刺激され、頭を鍛えられた人々に向かって、どうやってイエス・キリストのことを宣べ伝えていくか、そこにパウロの並々ならぬ苦労があったと思うのです。 ギリシアの人々にとって、パウロが語っていることは信じがたいことであったにちがいありません。好奇心が旺盛で、何か新しいことを話したり聞いたりすることに時を過ごしていた人々とパウロの間の会話を、多少想像をまじえて再現してみましょう。パウロは言います。「あなたがたを救うのはギリシアの神々でもローマ皇帝でもありません」。ギリシア人は尋ねます。「では、それは誰なのか」。パウロは答えます。「ユダヤから出たイエスというお方です。このお方は神の子でキリスト、救い主であられます」。「キリストは何を行った人なのか」。「キリストはすべての人の罪の身代わりとなって十字架の上で死なれました」。 ギリシア人はここでパウロの言うことがわからなくなります。ギリシアの人々が信じている神々と、パウロが言う神がまるで違っていたからです。神はギリシアの人々にとっての憧れの存在でした。富、力、知恵、美しさ…人間が憧れるすべてのものが神々のもとに集約されていました。そうした神々が死を味わうことはありません。神々は永遠に変わることなく、また死ぬこともない存在だとされていたのです。…ですから、神の子で救い主である方が十字架の上で死ぬなどとは、信じられないのです。
十字架というのは口にするのも恐ろしい、死刑の中でももっとも残酷なもので、いちばん罪の重い犯罪人を処刑する方法でありました。…そもそも「十字架につけられたキリスト」という言葉は成り立たない。十字架につけられた者はキリストではないし、キリストなら十字架につけられるはずはない。……ギリシアの人々が理路整然と考えた結論はそのようなものであったはずです。 こうした人々の中で最初は少数ではありますが、イエス様を信じる人々が起こされ、コリントに教会が出来ました。しかし、そこはいろいろな面でたいへん問題の多い教会でした。パウロはこの教会のために心を砕き、祈って、思いのたけを手紙にしたためましたが、その中で一気に福音の核心に迫ります。「十字架の言葉は神の力です」。 十字架の言葉というのは聞き慣れない言い方ですね。口語訳聖書では「言葉」の部分が一つの字で、つまり言(げん)の字だけになっていました。ヨハネ福音書の冒頭にある「初めに言があった」、これと同じ言い回しが使われているのです。…十字架の言葉とはイエス様の十字架が語ること、十字架の教えというふうに考えることが出来ます。 教会はいつもイエス様のことを語っていますが、それはイエス様を偉人として仰いで、その徳を語り伝えようというのではないのです。イエス様がガリラヤ湖のほとりで説教したり、また病気の人をいやしたりということはもちろん大切なことですが、これを横に置いても何より語らなければならないのが十字架です。パウロは偉人としてのイエス様ではなく、十字架にかけられたイエス様からあふれ出て来ることを語るのです。だれがそんな話を喜んで聞くのかと思うような話をするのです。「十字架の言葉は神の力です」。ここに、伝道者パウロのゆるがぬ確信があります。神の力はキリストの十字架に現れている。キリストの十字架を見上げると神の力が見えてくる。それがはっきりわかるのだ。十字架は私たちすべてを救う力なのだ。…しかし、これは人間の常識を超えたことであるにちがいありません。 パウロは、ギリシアの人々が思い描いているのとは全く別の切り口から、語り始めます。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。それは、こう書いてあるからです。『わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする』」。かぎかっこでくくられた言葉は、イザヤ書29章14節からの引用です。パウロの言葉の中に「愚かな」と「賢い」、この二つが繰り返し出て来ます。愚かさと賢さ、そして知恵ということが比べているのです。その中で愚かさについては、21節に「宣教という愚かな手段」と書いてあるように、宣教ということにおいても現れています。
宣教とはいま私がしているような、説教を中心とする教会の営みですが、そういうことは愚かなことだとパウロは言うのです。…私もそう思うことがあります。私が毎週日曜日の礼拝で30分ほど語ったところで、世の中が変わるわけではありません。それも、みんなを喜ばせるような明るく楽しい話ならともかく、十字架につけられた神の子について話すことは難しいし、皆さんに喜んでもらえるとは思いにくく、虚しい、愚かなことではないか、と思わされることがあるのですが、これに対し聖書が、いやそんなことはない、お前のしていることは立派なことだとほめてくれるのかと思ったらそれも違う、お前のしていることはやはり愚かなことだと言うのです。そうして、それがさらに発展して25節では「神の愚かさ」と言うのですから、何をか言わんやです。つまりパウロは、神様は愚かな方だとすら言っているのです。神様ご自身が愚かな方だとすると、神様に仕えるパウロもすべての人間も愚かな者たちになってしまうでしょう。 そこで、「宣教という愚かな手段」ということについてもう少し考えてみましょう。ここでは宣教とか説教ではなく、もっと気のきいたやり方があると言っているのではありません。愚かなのはむしろそこで語られている内容です。…パウロは23節で「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています」と言っています。十字架につけられたキリストこそ、パウロが語り、教会が語っていること、つまり宣教や説教の内容です。これを語ることが愚かだと言うのです。 その結果は、…23節に書いてある通り、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものでした。…ここでユダヤ人というのはユダヤ本国とローマ帝国の各地にいるユダヤ人で、コリントの町にも住んでいました。異邦人とは本来ユダヤ人以外の人々を示す言葉で、この場合はギリシア人となります。どちらの人々もなかなか十字架につけられたキリストを信じようとはしません。 その理由はまずユダヤ人については、22節で「ユダヤ人はしるしを求める」と書いてありますね。ユダヤ人はイエス様の上に、この方がキリストである、目に見えるしるしを求めました。ユダヤ人は、自分たちが世界の中でただ一つだけ神に選ばれたという誇り高い民族なので。そういう民族的な優越感を満足させるような救い主を求めたのですが、これについてイエス様は失格でした。特に申命記21章23節に「木にかけられた死体は神に呪われたもの」と書いてあることから、十字架につけられた者が救い主であるはずがないと考えたのです。…この人たちは、イエス様が神の呪いまで引き受けて下さったということに思いが及びません。それゆえ、つまずいたのです。 他方異邦人、すなわちギリシア人は昔から知恵を探していました。
彼らはパウロから「知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。」と言われて、カチンときたことでしょう。わが国には世界に冠たる知識人がいるのに、何ということを言うのかと。 もしもパウロは、主イエスの教えから、ただ「敵を愛せよ」とか「自分がしてほしいと思うことを人にもしなさい」といったことだけを語ったなら、ギリシア人としても「それは立派な、知恵ある教えだ」と言って、耳を傾けたかもしれません。しかし十字架につけられたキリストは違います。それは、彼らの、知恵を求める思いを到底満足させるものではありません。しかし、パウロはその人たちの中に入って伝道し、信徒を増やして行ったのです。その理由については、使徒言行録を学ぶ時に明らかになるでしょう。 それではユダヤ人でもギリシア人でもない私たちはどうなのでしょう。私たちは一方で、ユダヤ人のようにしるしを求め、またギリシア人のように知恵を求めています。イエス様が神の子でありキリストであるしるしがほしい、しかしそれは見えません。目を凝らして見れば十字架そのものがしるしであることがわかるのです。しかしユダヤ人と同じで、呪われた十字架の死がまさか自分のためであったということに思いがなかなか及ばないのです。 私たちはまたイエス様の中に、この世をうまく渡って行く知恵を求めています。もしもイエス様のことを勉強したら、頭が良くなって世の中のしくみがよくわかるようなるとか、最高のセールスマンになれるとか言われると興味がわくのではないかと思うのですが、それとは違うことを聞くと、こんなことを勉強して何の役に立つのかと思ってしまうのです。…従って、どちらにしても十字架の言葉は愚かなもの以外ではありません。いまも多くの人がこの理由によって、教会の門をくぐろうとはしません。教会は相も変わらず、愚かなことを続けているのです。……しかしながら、そこから新しい世界が始まります。 十字架の言葉は滅んでいく人々にとっては愚かなものですが、私たち救われる者たちには神の力です。このことは救われる者は、滅んでいく人々よりも賢く、知恵ある者だというのではありません。むしろ反対で、この世の基準では愚かだと言って良いようなものです。
信者でない人たちを前に自分がばかのように思えて、悩んだことがありはしなかったでしょうか。しかし、私たちはある時からふっきれたようになって、それ以降もうそんなことは考えないようになるものです。 ユダヤ人やギリシア人の、しるしや知恵を求める生き方というのは、いっけん賢そうに見えても、実はそうではありません。…まわりからどう思われようと、自分が罪人であることを認め、キリストが十字架上で死なれることによってその罪が担われ、赦されたことを信じる者は、そこから得たこの世にはない恵みを二度と手放そうとはいたしません。…それは上へ上へと昇って、少しでも偉くなろう、権力を握ろう、お金持ちになろうとする生き方ではありません。キリストは天で父なる神のみもとにおられたのに、わざわざこの、低い世界に降りて来られ、最後にはどんな穴よりも低い、深淵において死なれました。ですからキリストに従う者も低い所へ、弱い人、より貧しい人に向かって歩いて行こうといたします。そのことがまわりから愚かなことのように見えるのはもちろんです。けれども、そこにしか神と共に人生をまっとうする世界はないのです。 余談になりますが、皆さんは「あしあと」という詩をご存じでしょうか。「ある夜、わたしは夢を見た。わたしは主と一緒だった。しかし砂の上には一人の足あとしかなかった。そこで主に文句を言うと主は答えられた。『足あとが一つだったとき、わたしはあなたを背負って歩いていた。』」 主イエスは私たちが滅びに落ちないよう、私たちを背負っていて下さいます。…ただ私は、この詩にさらに先があるべきだと思えてなりません。…イエス様が人を背負っていたとしたら、十字架にかけられる時、人をおろしてからご自分だけ苦しみを受けられたのでしょうか。もちろんイエス様が身代わりとなって下さったから、あなたは無傷でいられたのです。しかし、本当にそれだけなのか、もしかするとイエス様はあなたを背負ったまま十字架につけられたのかもしれません。こうしてあなたの古い自分がはりつけにされ、罪から救い出されたのです。 何を言っているのかわからなかったかもしれませんが、これには聖書に根拠があるのです。
パウロはロマ書6章8節で書いています。「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。」キリストと共に死ぬというのは難解ですが、そこまで考えを深めて行くべきだと思うのです。もちろん今日は時間がありませんが。…私たちがキリストによる罪の身代わりの死を感謝するだけでなく、さらにその先に向かっても進むことが出来ますように、と願います。(祈り) 天の父なる神様。棕櫚の主日礼拝でイエス様のご受難を思い、礼拝を捧げることの出来る恵みを感謝いたします。あなたは今、十字架の言葉が人間を救う神の力であることを示して下さいました。このことがどうか私たちの古い自分に逆らって、自分の上に事実となっていきますよう、十字架のイエス様を見上げつつ歩む日々を与えて下さい。 神様、私たちは、イエス様の開かれた道に従って行こうと思っています。しかしすぐに、この世の華やかさに憧れる思いや、怠惰な思いがそれを引きとどめ、教会に関わることが愚かなことのように思いがちです。神様、私たちが根がなくてすぐに枯れてしまうような者ではなく、よい地に落ちて豊かな実を結ぶ信仰者であるために、必要な備えをさせて下さい。 広島長束教会のために祈ります。この教会が、いつも十字架の言葉を正しく、力強く語っていくことが出来ますように。私たちを同じ思いとし、訓練し、戒め、また恵みをもって導いて下さい。教会なくして広島の地に救いはないからです。神様を賛美します。この祈りを主イエス・キリストのみ名によっておささげいたします。アーメン。
使徒の務めyoutube
詩編69:20~30、使徒言行録1:15~26
2016.3.13
今日はイエス・キリストが昇天されたあとで、聖霊降臨をまぢかにひかえた時に起こった重要な出来事についてお話しいたします。 11人の使徒たちを中心に120人ほどの人々が集まっていました。その時ペトロが立って、裏切り者ユダのことを説明し、ユダに代わる新しい使徒の選出について提案したところ皆に受け入れられ、マティアという人が選出されました。 初めにユダについて学びましょう。イエス・キリストが自ら選ばれた12弟子の一人であったイスカリオテのユダが、こともあろうに自分の先生を裏切って、敵に引き渡しました。主イエスを十字架につける引き金を引いたのがユダです。しかし、彼自身は自分のしたことを後悔して、自殺してしまいました。 この場にいた120人ほどの人々は、主イエスの十字架の死を見て絶望のふちに落とされましたが、やがて死をも打ち負かす神の偉大な力を目の当たりにして喜びにふるえました。しかし、ユダが引き起こしたすべてのことでたいへんな衝撃を受けたことは想像に難くありません。 ユダに関して、詳しく書いてあるのはマタイ福音書の27章3節以降です。 「そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、『わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました』と言った。しかし彼らは、『我々の知ったことではない。お前の問題だ』と言った。そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ」。 のちの時代に、ありとあらゆる非難と糾弾の言葉を浴びせられたユダでありますが、決して100%悪人だったわけではありません。ユダは主イエスが有罪となり、引き立てられる姿を見て後悔しました。彼はすぐに、イエス様を売って得た代金の銀貨30枚を返しており、その上自分は罪を犯しましたと告白しているのです。ユダのこの態度はきわめてまじめなものではないでしょうか。しかし、そこには決定的な失敗があったのです。…それは主イエスを銀貨30枚で売ったことではありません。もちろんそのことは重大な罪でありますが、それよりなお重大なことは、ユダが主イエスのみもとに行かなかったことです。ユダがすべきだったことは自分の命を断つことではなく、十字架にかけよってイエス様の前で自分のしたことを告白し、謝罪することであったのです。…自分のしたことをいくら後悔しても、それが神様に、イエス様に向けられていなければなりません。それを怠るとどんな結果になるかということをユダの悲惨な死は示しているのです。 マタイ福音書の続きを読んでみましょう。「祭司長たちは銀貨を拾い上げて、『これは血の代金だから、神殿の収入にするわけにはいかない』と言
い、相談のうえ、その金で『陶器職人の畑』を買い、外国人の墓地にすることにした。このため、この畑はこんにちまで『血の畑』と言われている」。 この部分を使徒言行録の方はこう書いています。「ユダは不正を働いて得た報酬で土地を買ったのですが、その地面にまっさかさまに落ちて、体が真ん中から裂け、はらわたがみな出てしまいました。このことはエルサレムに住むすべての人に知れ渡り、その土地は彼らの言葉で『アケルダマ』、つまり、『血の土地』と呼ばれるようになりました」。 私たちは、ユダはいったい首をつって死んだのか、それとも地面にまっさかさまに落ちて死んだのか、土地を買ったのは祭司長たちなのか、それともユダ自身なのかと思ってしまうのですが、これは難しい問題ではありません。…ユダは首をつったあと、死体が地面に落ちた状態で発見され、その土地が祭司長たちによって買われて「血の畑」とか「血の土地」と呼ばれるようになったのでしょう。銀貨30枚を神殿に投げ込んだユダが土地を買ったわけではないと思われます。マタイ福音書と使徒言行録に書いてあることは結局同じことです。 さて、現代の社会において、どんな団体であっても、そこから裏切り者が出て、敵に内通するなどしますと、「我々はだまされていたんだ」とか、「あいつは羊の皮をかぶった狼で、初めからスパイだったのだ」と全面否定され、除名されたり除籍になったり、その人が何か賞を受けていたらはく奪される、…集合写真からその人の写真が消される国だってあるのです。しかし、ペトロの態度はそうではありません。かなり理性でありまして、あいつは初めから弟子でもなんでもなかったのだ、とは言わないのです。 ペトロは、主イエスがユダを選び、任命されたことまで否定してはいません。「ユダはわたしたちの仲間の一人であり、同じ任務を割り当てられていました。」また,25節の「ユダが自分の行くべき所に行くために離れていった、使徒としてのこの任務を継がせるためです」というところから見ると、ユダには使徒としての任務が与えられていたわけですね。ですから、裏切りを起こす前については、一定の評価が与えられているようです。その上でペトロは、ユダが脱落したからと言って、その職務をなくそうとはしません。ユダが抜け落ちたことで生じた大きな穴は補充されなければなりません。 ペトロは、「ユダについては、聖霊がダビデの口を通して預言しています。この聖書の言葉は、実現しなければならなかったのです」と言います。ペトロは、ユダについて、起こったことすべてが神のあらかじめ定めた決定に基づくものだと述べることで、人々の動揺を静め、信仰が揺らがないようにしているものと思われます。…その時ペトロが引用した「その住まいは荒れ果てよ、そこに住む者はいなくなれ」というのは詩編69篇26節の言葉で、ユダが滅びることが予告されています。また、「その
務めは、ほかの人が引き受けるがよい」は詩編109篇8節の言葉で、ユダの担っていた務めを他の人が行うことが予告されています。 復活後の主イエスは、ルカ福音書24章44節で、「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する」とおっしゃっていました。主は復活後の短い時間の中で、旧約聖書に書いてあることがご自分の上でどのように実現したか、また実現していくかということを教えられたに違いありません。その場でしっかり聖書を学び直したペトロだからこそ、神様の永遠のご計画の中にユダがいたことを述べることが出来たのです。……しかしながら、ここから私たちにとって解き難い謎が姿を現わすのです。…ユダは生まれる前から滅びに定められ、呪われた人生を送るしかなかった人なのでしょうか。主イエスはユダがご自分を裏切ることをわかっていながら、弟子にしたのでしょうか。…もしもそうだとすると、ユダの立場はどうなってしまうのでしょう。それでは、ユダがいくら自分で良い人生を送りたいと願っていたとしても、人間以上の力の前に何も抵抗出来ないまま滅びたということになるのではないでしょうか。それが愛の神のなされることだろうか、という疑問が起こるのです。ただ、神のなされることについて人間がどうこう言うことの出来る資格があるとも思えません。…また、ユダの裏切りによって主イエスが十字架にかけられ、その結果、イエス様を信じる人々に救いがもたらされたのです。…このように考えて行くとますますわからなくなるのです。なお、1978年にエジプトにある洞窟の中からユダの福音書という文書が発見されており、近年復元されたことで世界的な話題になりました。そこでは、ユダが主イエスの意を受けて裏切り行為を働いたと書いてあります。しかし、この文書は新約聖書の各文書が書かれた紀元1世紀よりはるかあと、220年から340年の間に書かれたものと推定されており、どこまで信頼できるのかという問題があります。この文書はもちろん、聖書に加えられることはありません。私はいまイエス様の愛はユダに対しても、最後まで注がれていたのではないかと思っていますが、ユダの問題はあまりにも難しく、いので、今日のところは、神のご計画の中にユダがいたことだけを確認して、次に進みたいと思います。 では、ユダにかわる使徒の選出に移りましょう。詩編で「その務めは、ほかの人が引き受けるがよい」と言われたことに基づき、ペトロは自分たち使徒と一緒にいた者の中から、主の復活の証人を選ぶよう呼びかけ、この結果マティアが選出されました。こうして再び12使徒がそろいます。私たちはここからいくつかのことを学ぶことができます。
まず、これはユダが脱落したための非常措置であって、このあと2度と同じことはなかったということです。こののち使徒ヤコブが殺されるという事件があり、残った使徒たちも一人ひとり死んで行くわけですが、補充されることはありませんでした。使徒とは、遣わされた者という意味があります。それは主君から全権を委託されて事を行う代理人です。従って、主君イエス様を身をもって証しできる力を持っていなければなりません。ですから、生前のイエス様をよく知っていることが条件になりますが、それだけではないのです。イエス様が復活されたことを見た人でなければなりません。ペトロは告げます。「主イエスがわたしたちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネのバプテスマのときから始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者の中からだれか一人が、わたしたちに加わって、主の復活の証人になるべきです」。生前の主イエスを身近で知っており、十字架と復活に立会い、それによって人間の罪のために死なれた主イエスが復活されて今も生きておられることを証言するために、主イエスによって立てられた人、主の復活の証人が使徒なのです。使徒の数はイスラエルの12部族と同じ12人に限られました。こうして120人ほどの人々から候補をつのると、2人が推薦されました。ここから一人を選ぶためにくじを引くことになりました。こんな方法で良いのかということになりそうですが、これも、その時限りです。…この時は、最初の使徒選出とは違って、主イエスに決めて頂くわけには行きません。
イエス様はおられず、まだ聖霊も降っていない時に、どうやってみこころを確かめたら良いでしょうか。そこで「すべての人の心をご存じである主よ」と主に祈ってなされたのです。こうして人間の考えや感情が入らないようにされました。主はくじ引きという非常手段に応えてみこころを示されたのです。…ですから私たちの教会が、たとえば教師の任職や長老の選挙という時にくじ引きをするということはありえません。しかし、祈ることは受け継がれています。ここで使徒に選出されなかったのがバルサバと呼ばれ、ユストともいうヨセフという人ですが、15章22節にもバルサバと呼ばれるユダが出てきて、同一人物ではないかと考える人もいます。マティアについては、その後、聖書でその名前を見ることはありません。使徒たち12人が一緒に出て来る時にその中にいたことは確かですが、残念ながらその後どこに行って伝道したかというようなことは一切わかっておりません。ただ、マティアが選ばれたことで人間の側の体制は整いました。あとは聖霊が降るのを待つだけです。マティアを含めた使徒たちは紀元1世紀だけに存在した主の復活の証人であって、こののち現在まで続くキリスト教会の土台となった人々です。今、使徒は一人もいませんし、どこの教会であっても使徒と称する人がいてはなりません。…主の復活の証人が与えられたことは、世界と私たち一人ひとりにとって、他にかけがえのない恵みとなりました。私たちは聖書から、主イエスを別にすればこの人たちの言葉を聞くのでありまして、他の人々の言葉を聞くのではないのです。
(祈り)主イエス・キリストの父なる神様。人々に福音すなわち、喜ばしい知らせ、救いの言葉を告げ知らせる教会を担うことがどれほど大切で、困難な務めであるかを思い知らされます。12弟子の一人として使徒としての任務が与えられ、主イエスからじきじきに教えと訓練と愛を受けたユダでさえその務めから落ちてしまいました。まして私たちは、神様の憐れみと御支えがなければその任に耐えることは出来ません。神様、いま広島長束教会には見るところ、社会で有力者と呼ばれている人もお金持ちもいませんが、しかしそれぞれ神様から世界に一つしかない賜物を与えられていると思います。どうかこれを豊かに用いて、私たちが喜びをもって教会に仕えるようお導き下さい。このことは、一人ひとりがその人生を神様と世界の前にまっとうすることになると信じます。神様、東日本大震災と福島の原発事故から5年がたちました。どうか私たちが今も悲しみの中にある人々と心を合わせることが出来ますように。また、この出来事が突き付けた重大な課題を、全国民と共に日本のキリスト教会も担い続けて行くことが出来ますようにと願います。神様、どうか教会につながる一人ひとりの健康を守って下さい。病気とたたかう人とその家族を顧みて下さい。皆が、今も生きておられるイエス様の恵みによって生かされ、イエス様に続いて歩むことによって、この世にはない喜びに満たし、またそれぞれの社会的責任をまっとうさせて下さい。お導きをお願いいたします。主のみ名によってこの祈りをお捧げします。アーメン。
造り主を覚える
ヨブ38:12~41、エフェソ1:7~9 2016.2.28
先週に引き続き、ヨブの前に、沈黙を破ってついに現れた神が語る言葉を学びます。今日の箇所は、私は一読して茫然となってしまうほど、ここからいったいどんな説教が出来るのだろうと思ってしまったのですが、窮地に追いやられた中で、それでも神様から投げかけられる光を信じて、読み進みたいと思います。 さっそく12節に入りましょう。ここで神は、「お前は一生に一度でも朝に命令し、曙に役割を指示したことがあるか」と問いかけられました。不思議な言い方です。朝というのは、黙っていても自然にやってくるように思っている人もいますが、そうではありません。誰か太陽に出て来いと命令した人がいるでしょうか。コペルニクスの地動説が認められる以前、大地は不動であって、太陽がその軌道の上を規則正しく動いて、昼と夜を分けているものと考えられていました。それはすべて神がなさることであって、神は朝ごとに太陽が間違いなくその軌道を通るよう、命じているものと考えられていました。ここではヨブに対し、一度でも太陽に出発点を知らせ、通ってゆく道を示したことがあるのか、と言われるのです。しかしヨブにそんなことが出来ないのは当然のことでありまして、ヨブ自身も自分にそんなことが出来るとは、これまでひとことも言っておりません。それなのに、こんな当たり前のことが質問されて、そういうことが出来ないならお前は黙ってろと言われるのだとしたら、それはあまりに理不尽なことではないでしょうか。… しかし、ここで言われているのは、そんな単純なことではないようです。…ヨブはこれまで、自分がなぜこんな苦しみにあわなければいけないのかということを神に問い続けてきたのですが、ここで神はそのことに直接答えることはされません。しかし別の角度、いや別の次元と言っても良いところから答えておられるのです。そのお答えは私たちにはなかなかわかりにくく、そればかりかヨブの時代から2600年あまりたった今も解き明かされていない大きな謎が秘められているように思われます。 一節ずつ取り上げていったら日が暮れてしまうので、グループごとにまとめてゆくこととします。13節から15節までは大地と曙のことを言っています。神は朝に命令し、曙に役割を指示していることを示されるのですが、それが意味するところの一つを13節が示しています。「大地の縁をつかんで、神に逆らう者どもを地上から払い落せよと。」ここに古代の人々の世界観が出ていますが、後回しにしましょう。いま注目したいのは、「神に逆らう者どもを地上から払い落せよ」と書いてあることです。これは比喩的な言い方でありましょう。神に逆らう悪人というのは、昼よりも夜、光よりも闇を好むものです。しかし神は光をもたらすことによって、悪人の罪を明るみのもとに出すのです。
このように神の自然支配は単なる物理的な力ではなく、倫理的な意味も持つのです。ヨブは友人たちとの議論の中で、神がおられるのになぜ悪人が栄え、善人が苦しむのかと問題提起しましたが、神はすでに、その深いみこころによって悪人を裁いておられることをここで示しておられます。 神は続いて、死の門、闇の門について語られます。「お前は海の湧き出るところまで行き着き、深淵の底を行き巡ったことがあるか。死の門がお前に姿を見せ、死の闇の門を見たことがあるか。」当時の人々は海の底、闇の中に陰府の世界があると考えていました。そこには門があって、ひとたびその門をくぐると、人は二度と地上に生きて帰ることは出来ないのです。人間にとって考えるだけでも恐ろしい所、しかし神はすべてを知っておられるのです。 18節から21節までは大地の広がりに関してです。「お前はまた、大地の広がりを隅々まで調べたことがあるか。」大地はあまりに広大です。「光をその境にまで連れていけるか。暗黒の住みかに至る道を知っているか。」光が住んでいるのは東の果て、暗黒の住みかは西の果てです。ヨブがそこまで行き着くことは到底不可能です。 私はここまで問いつめればもう十分だと思ったのですが、神はさらに続けられます。 23節から30節は気象に関することですね。ヨブは、お前は雪の倉に入ったことがあるか、霰の倉を見たことがあるか、と問われます。これは、天に倉庫があって、そこから雪や霰が降ってくると考えられていたからです。むろんヨブがそんなものを見たり、入ったりしたことはありません。 24節の「光が放たれるのはどの方向か」では稲妻の光のことが言われています。東風とは、植物を枯らすとして恐れられた砂漠の嵐です。しかし天から降ってくる水は、大地に尽きない恵みをもたらします。「誰が豪雨に水路を引き、稲妻に道を備え、まだ人のいなかった大地に、無人であった荒れ野に雨を降らせ、乾ききったところを潤し、青草の芽がもえ出るようにしたのか。」これほどの恵みを、神以外の者がもたらすことは出来ません。 31節から、今度は目を宇宙に転じさせます。「すばるの鎖を引き締め、オリオンの綱を緩めることができるか。時がくれば銀河を繰り出し、大熊を子熊と共に導き出すことができるか。」すばるというのは牡牛座の一角をなすプレアデス星団のこと、オリオンも、大熊も子熊も星座のことです。神が司っているのはこの地上の現象だけではありません。神は広大無辺な宇宙をも司っておられます。33節に「天の法則」という言葉がありますが、天体の運行には法則があるということを当時の人々はすでに気づいていて、星占いがさかんだったりしました。もちろん唯一の神への信仰と星占いは全く別のものです。夜空に輝く星々はもちろん神々ではなく、それは神が造られたものであって、それが天の法則のもとに動いているのです。
このあと34節から41節にかけて、神は再び地上のさまざまなことでヨブに注意を向けさせます。37節の「天にある水の袋」、これは水をたくわえるもので、これを傾けると雨となるのです。…39節から41節にかけては動物界の強いものと弱いものの代表が登場します。動物界の強いものは獅子です。そして弱いものの代表としてカラスのひなが出て来ます。その両方とも、神はきちんと餌を与えて養われます。どんなに強いものも、またどんなに弱いものも。そこに万物の造り主としての神のみわざの不思議があるのです。 これまで見てきたように、神はここでご自身が開始され、今も続けてなさっておられる驚くべき創造のみわざを列挙して、ヨブに向かい、お前はこのことが出来るか、こういうことを知っているか、と矢継ぎ早に尋ねられます。それは、ほとんどが自然現象に関することでした。ヨブはそれまで、因果応報、勧善懲悪の考えとは違うこの世の現実を取り上げて、いったい神のご支配とは何なのかと言ってきたわけですが、神はその問いに直接答えられません。そうして、そのかわりに持ってきたのが、人間社会とは別の次元となる神の創造のみわざのことだったのです。神様からの問いにヨブは当然、答えることが出来ません。こうしてヨブは神のなさることについて何も知っていないということが明らかになります。それは、どんな人間も神のなさることは何も知っていないということで、そのことこそ38章が語っていることだと思います。 ここから私たちはまず、自然界で起こることを自分の関心の外に置かないように教えられます。日本では、国民だれもが早い時期から文科系と理科系に区分されてしまいますが、これは問題です。文科系の人は人間社会の間だけで考えて初歩的な物理学の法則も知らない、理科系の人はもっとも基本的な文学書も読んでいないということがしばしばあるのですが、これは不幸なことで、こんにちいくつかの大学などで文理融合ということが進められているのは時代の要請にかなったことでありましょう。 ヨブが陥った苦しみの原因も、ただ神と人間一人ひとりの関係の中だけで考えて明らかにすることは出来ません。神が造られた大地やそこに生きる生物、そして宇宙にまで目を向けなければならないのです。神が自然界においておこなって来られたみわざについて人間は根本的に何も知っていないということがここで明らかになりましたが、そのことは、神が人間一人ひとりにもたらす幸不幸の原因も秘められていて、人間には知りえぬことがらであるということになるのではないか、と思います。…そういえばヨブが苦しみを受けた直接の原因は天において神とサタンとの間に起こった論争でしたが、そのことをヨブは知ることが出来ませんでした。そこでヨブは耐えきれなくなって神と議論しようとしたのです。
そこに欠けていたものは神への信頼でした。ヨブはどんなに苦しくとも、そして苦しみの理由が何もわからなくても、神への信頼を貫くべきであったのです。 さて、今日のところでは、神が大地の縁をつかむとか、雪の倉、天にある水の袋といった現代人には信じられないことがたくさん出て来ました。これは古代人の考え方に従った言い方ですが、こうしたことをもって聖書をおとぎ話のようだとか、非科学的だとか見なして否定することは出来ません。一方、聖書は自然科学の教科書ではないので、聖書に書いてあるから大地の縁も、雪の倉も、天にある水の袋も一字一句そのまま信じなさいということも出来ません。ただ、聖書は神のみこころを記したもので、この神が自然を創造されたのですから、神が自然を通して人間に教えていることを読み取ることは出来るはずです。 たとえば創世記にある大洪水とノアの箱舟の話ですが、これは現代の世界に向けて警鐘を鳴らしたものとも考えられます。ノアの時代の人々は常に悪いことばかり考え、その結果大洪水を招いたのですが、これは現在の世界においては、人間が自分の欲望ばかり追求して暴走するとき異常気象など、全地球的な環境破壊を招くことを予告したものと受け取ることが出来ます。このように考えて行くと、聖書に書いてあることが現代人にとって非科学的に見えたとしても問題になりません。それは今の私たちにとっての道しるべとなるのです。 ヨブ記をこのように読んだ人として高木仁三郎という方がいました。すでに亡くなられた物理学者で、キリスト者ではなかったようですが、聖書を深く読み込んで、「聖書は核を予見したか」という文章を書いており、その中に、神がヨブに与えた言葉について考えたところがあったので紹介します。 高木さんは、ヨブ記38章の特に31節から33節の言葉に着目しています。
「すばるの鎖を引き締め、オリオンの鎖を緩めることがお前にできるか。時がくれば銀河を繰り出し、大熊を子熊と共に導き出すことができるか。天の法則を知り、その支配を地上に及ぼす者はお前か。」…神はそれまでヨブに対し、神が地上において行ったことと天、この場合宇宙で行ったことを語っておられますが、天と地上は違うのです。天の法則と地上の法則は違っており、天の法則を地上に持って来ることは出来ません。それはたいへんな罪なのです。 何を言っているのでしょうか。高木さんは物理学者として、宇宙、星の世界と地上とが全く別の法則のもとにあることに注意を喚起します。たとえば太陽で常に起こっていることは核爆発です。そこで起こっている現象というのは、私たちが地上の世界で体験していることとは別の法則に基づくものです。天の法則と地上の法則は違います。太陽は物質が常にエネルギーに変わり、質量不変の法則が成立しない世界ですが、地上は質量不変の法則が成立する全く別の世界です。そこからこういう結論が導き出されます。原子力の開発というのは、原爆であっても原発であっても、太陽で起こっていることを地上で人工的に行うとする試みである。それはしてはいけないこと、天の法則を知り、その支配を地上に及ぼすことであるとなるのです。 ヨブの苦しみについて考えていることが、いつのまにか原子力になってしまいました。高木仁三郎さんの考えは、一つの材料として提供したもので、皆さんはこれについて自由に考えて下されば良いと思います。それがどういう結論になるとしても、ここで大切なことは、神のみがなしうることがあるということです。これは人間には許されておらず、そこに踏みこもうとすれば罪となります。こういうことは科学者だけの問題ではありません。
私たちも常に、人間に許されていないことをしようとする誘惑にかられるものです。神のみこころに従って生きようとする者は、造り主である神を覚え、神がどのようにして宇宙と世界を治めておられるかに思いをいたすべきであるのです。
(祈り) 私たちを創造し、人生を導き、救いを与えて下さった神様。私たちにこの礼拝のときが備えられ、尊いみこころの中で生きる思いを与えて下さったことを心から感謝いたします。 ヨブが神様との対話の中で思い知ったように、神様のなさることはあまりにも深遠で、その意図を人間の限りある頭できわめつくすことは出来ません。それなのに人間は、勝手に自分の思い通りになる神様を思い描き、それがうまく行かないと今度は神様を恨んだり、神様から離れようとするのです。私たちにもこのようなことが起こります。 神様、私たちが神様はどうして自分をひどい目にあわせるのかとつぶやく前に、まず自分の足りないところを見て、これを正す勇気を与えて下さい。また、これまで気がつかなかった神様からの恵みに目を開かせて下さい。こうして苦しみ、悩みが主にある喜びと賛美に変わることを信じます。 いま世界と日本で起こっているさまざまな問題はつきつめれば、人間が自分に許されていない神様の領域に挑んでいることで起きているのではないかと思います。造り主であられる神様はまた救い主でもあられます。広島長束教会はいま小さな群れではありますが、神様によって立てられた群れです。どうかこの教会を守り、一人ひとりを支えて、この世で神様の力を現して下さい。 とうとき主のみ名によって、この祈りをお捧げします。アーメン。
神の創造のみわざ
ヨブ38:4~11、エフェソ1:3~6 2016.2.21
ヨブの前に、沈黙を破ってついに現れた神が語る言葉を学びます。 主なる神は嵐の中から声を発せられました。「これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて、神の経綸を暗くするとは。」神様は、「お前はいったい何様のつもりだ。何も知らないくせに、あーだこーだ神の正義を論じるとは!」このようにヨブを叱り飛ばした上で、立て、私の問いを受けてみろ、ということになりました。神はそうして、ヨブの前に次から次に問いを出して「答えてみよ」と迫ってくる、という構造になっております。 こうして神の口から出てきた最初の問いがこれです。「わたしが大地を据えたとき、お前はどこにいたのか。知っていたというなら、理解していることを言ってみよ」。これは、神が世界を造られた時、お前はどこにいたのか、知っていることを言ってみよ、ということです。「大地」と言っていますが、もちろん当時の世界観、宇宙観に即した言葉でありまして、円い地球を意味しているのではありません。当時の人々は、大地は平らであると考えていたわけです。…神が大地を据えた時、ヨブは影も形もなかったわけで、知っていることも理解していることも何もなかったはずです。 6節:「誰がその広がりを定めたかを知っているのか。誰がその上に測り縄を張ったのか。」…大地の広がりを誰が測量して、定めたのか。答えは神様以外にはありません。今日ではもちろん地球の大きさも、月や太陽の大きさも、地球からの距離もみなわかっていますが、だからと言って神様の問いが意味がないことはありません。仮に今、神様が口を開かれたら、現代科学でも答えられない難問を出されることでしょう。 7節:「基の柱はどこに沈められたのか。誰が隅の親石を置いたのか。」大地を支える柱がどこに沈められたか知っているか、ということです。当時の人々は大地を支える柱は海に沈められ、隅の親石はその土台になる石ですから海の底にあると考えていたわけです。ただ、その位置まではわかりません。人間の目には隠されていたわけです。 神は、ご自分がなさった大地の創造という驚くべきみわざについて、ヨブに向かって、その時お前はどこにいたのか、お前はそれに関与したのか、知っていることがあるのか、と尋ねておられるのです。これは、ヨブでなくても、誰もが押し黙ってしまうような問いでありました。 7節に行きます。「そのとき、夜明けの星はこぞって喜び歌い、神の子らは皆、喜びの声をあげた。」…私が大地が創造された時、星が喜び歌い、というのがよくわかりませんでした。夜明けの星とは金星や木星などです。この時代、星を神として崇める人がたくさんいましたが、もちろん星は神ではな
く神の作品、被造物ですから、これは先に造られた被造物があとになって造られた被造物のことを喜び祝ったということなのかもしれません。次の、神の子らというのは天使のことです。 創世記の天地創造の物語には、神がご自分の作られた世界とそこに生きるものたちをご覧になったところきわめて良かった、と書いています。神はここで、神に従うものたちの喜びの中で大地が造られ、またそれが素晴らしい出来栄えだったと言われたのでしょう。いわば神様がご自分のみわざについて自画自賛なさっているのです。同じようなことがそのあとも続きます。 「海は二つの扉を押し開いてほとばしり、母の胎から溢れ出た。わたしは密雲をその着物とし、濃霧をその産着としてまとわせた。しかし、わたしはそれに限界を定め、二つの扉にかんぬきを付け、『ここまでは来てもよいが越えてはならない。高ぶる波をここでとどめよ』と命じた。」…今日ここにおいでの方の中には海が好きで、ヨットが趣味だなんていう人がおられるかもしれませんが、そういう感覚では当時の人々の思いを推し量ることは出来ません。古代のパレスチナで生きた人々にとって、海は恐ろしい所だったのです。そこは神に反抗する怪物の跳梁する所だと考えられていました。 海は地下の世界にある湖とつながっており、そこに二つの扉があって、かんぬきがかけられている、と考えられていました。 繰り返しますが、海は恐ろしい所で、神に反抗する怪物の跳梁する所だと考えられていました。このことは時代が進んでもあまり変わらなかったように思われます。コロンブスが黄金の島を目指して大西洋を西へ、西へと向かって行った時、船員たちは恐怖におびえたということです。船乗りが迷信深いというのはよく言われることです。現代の船乗りがどうなのかはわかりませんが。 しかし、ここには海を圧倒する神の力が歌われています。8節に書いてあるように、大地が創造された時、海は地下の世界にある二つの扉を押し開いてほとばしり出ましたが、そこに「母の胎から」と書いてありますね。神に反抗する恐ろしい海であっても、神にとっては母の胎から出た赤ん坊にしかすぎないのです。神は海に対して密雲をその着物とし、濃霧をその産着としてまとわせますが、これは、海はとうてい神と戦いうる相手ではないものと言うことで書かれているわけです。神は二つの扉にかんぬきをかけて、海に対し限界を設定されました。もしも神が、そのかんぬきをはずしたとしたら、おびただしい水が噴出してあふれ出し、地上は大洪水になってしまうでしょう。しかし神が海に対し、ここまでは来て良いがこれ以上は来てはならないと言われて、海と陸との境界を定められたので、海は押さえこまれ、その結果、人も動物も地上で安全に暮らすことが出来るのです。 こういうことは単に、
古代の宇宙観に即して、陸と海のありさまを説明したと言うにとどまりません。この時代、海は神に敵対する力を象徴するものだったと思われます。といたしますと、神の言葉には、サタンがこの世でいくら猛威をふるったとしてもいつまでも続くわけはない、神がすべてをコントロールしているからだ、という意味を言外に含めているのです。 さて、ここまで一通り見てきた上で、考えて行きましょう。それは、神様のこういう言葉にヨブは納得したのか、ということです。 私たちが想像も出来ないほどの最大最悪の災いをその身に引き受けたヨブは、これまで、なぜ自分はこれほどの苦しみを受けなければならないのかと神に問い続けてきました。ヨブはいわば、すべての言われなき苦しみにあえぐ人々の代表として議論し、たたかってきたのです。そうして、ついに神が沈黙を破って言葉を発せられたわけですが、そのお言葉は、ヨブの命がけの問いに答えるものとなっているでしょうか。 私たちがすぐにわかることは、神はヨブの問いに直接答えてはおられないということです。なぜこの世には苦しみがあるのか、なぜ悪人が栄え善人が苦しむのか、なぜ神はそのことを黙ったままみておられるのか、こうした問題に対する答えはありません。それは、神の言葉を最後まで見ても同じです。そして、そのかわりに、「お前はわたしがこういうことをした時にどこにいた」とか「お前はこれを知っているか、あれが出来るか」ということばかりが延々と繰り返されて行くのです。…そのためヨブ記の読者は狐につままれたような思いをすることになります。私もそうでした。これまで一生懸命ヨブ記を読んできたのにこれはいったいこれは何だろう、と思うわけです。 こんな例を考えてみましょう。ある所にたいへんな災難に遭って、苦しみ、あえいでいる人がいるとします。この人に「大地を見なさい、海を見なさい、星を見なさい、神様が造られた自然を見なさい」、こう言うことが心の慰めになるでしょうか。ふつう、そうは考えませんね。この人が必要としているのは、なぜ、どうしてという嘆きを聞いて受けとめ、苦しみの理由をそれなりに説明し、励ましてあげることだからです。 そこで、ヨブ記の読者の中には、神様の言葉はヨブの思いに応えていない、不可解で見当違い、問題から逃げているんじゃないか、このように言う人もいるのです。 ヨブはこの時、どうして「神様、あなたの言われていることはわかりません。私の問いに答えて下さい」と言わなかったのでしょうか。…ヨブは神がお話しされている間、一言も申し開きをしないばかりか、42章では神の前に悔い改めを表明します。全面的に降伏したのですが、これはたいへん不思議なことなんですね。ヨブは神様の、答えにならない答えに納得してしまったのです。
それはなぜかということはこれから少しずつ学んで行くこととして、今日のところからは次のことを学ぶことが出来ると思います。 神は「わたしが大地を据えたとき、お前はどこにいたのか」と言われましたが、ヨブはその時、存在していませんでした。大地がどのように造られていったのかも知りませんでした。それは当然のことなのですが、この当然のことを尋ねられることで、ヨブは神の圧倒的な力とそれに比べてあまりに小さな自分ということを悟ったと思います。 しかし、それは神が、ご自分に比べたらアリのように、いやそれ以上に小さいヨブを押しつぶそうとされているのではありません。ヨブに、彼の小ささを自覚させることで、屈服させようというのではありませんし、ヨブをあざけっているのでもありません。もしも神のみこころがその方向にあるのでしたら、神は問答無用とばかりにヨブを打って、殺してしまわれたかもしれませんが、そうはなりませんでした。 私たちは知っておきたいと思います。神がヨブと語られる、そのこと自体が素晴らしいのです。…神は、ヨブと対峙されます。そして、みこころを語られます。 神はここで、神が造られた世界がどんなに素晴らしいかということを語っておられます。神がお造りになったすべてのものを見た時、それはきわめて良かったのです。荒れ狂う海も、神に反抗する力も神のお許しがなければ、何事もなすことが出来ません。
神ご自身、ご自分の造られた世界を見て満足なさっただけでなく、夜明けの星や神の子たちも共に喜び祝いました。 神の造られた世界には、命のないものだけでなく、命あるもの、生物も人間もみんな含まれています。それらはみな素晴らしいものなのです。神が創造されたものだからです。被造物はみな祝福されています。ということは被造物の一人であるヨブも祝福されているということになりはしませんか。 ヨブはここで、圧倒的な力をもって現れる神の前に自分の小ささを嘆くのではなく、この神に造られた自分を喜びをもって受け入れることへと導かれて行ったものと考えられます。たとえ苦しみの中でのたうちまわり、まわりの人からつばを吐きかけられるような人間だったとしてもそれはこの世にいてはならない人間だということではありません。神が御自ら作られた人間を神がしりぞけられることはないのです。 ヨブが神と向き合って、神からいただいた言葉は、いうまでもなく人間一人ひとりをも生かす言葉となるのです。皆さんは、自分が神によって創造されたということを忘れてしまうことがありませんか。例えばです。自分は何の能力もないとか、人に迷惑ばかりかけているとか、病気だとか、もう若くはないとか、否定的なことばかり考えて、だからもうこの世にはいない方がいいのだと思ったとします。そんな時はヨブに与えられた言葉を思い出して下さい。神はご自分が造られたものを喜んでおられます。それは皆さん一人ひとりのことを喜んでおられるということなのです。
(祈り) 全宇宙の造り主なる父なる神様。私たちにこの礼拝のときを備えられ、神様と共に歩む日々を与えて下さったことを心から感謝申し上げます。 私たちはきょうのみことばを通して、神様が圧倒的な力をもったお方であるにもかかわらず、小さな一人ひとりの人間を大切にし、その存在を喜んで下さるお方であることを知りました。ヨブはまだ、自分に与えられた苦しみの意味がわかりません。私たちの中にも多かれ少なかれ、なぜ自分はこんな目にあわなければならないのかという思いがあるはずです。しかし、なぜ自分だけが、ということで他の人に嫉妬したり、神様に不平不満を並べる前に、まず自分をこの世界に送り出して下さった神様のみこころに目を開く者として下さい。 神様は、ご自分から見てアリのような、いやアリ以下の人間のためにイエス様を遣わされ、私たちをも神の子として下さいました。この喜びを一人でも多くの人と分かち合いたいと願います。神様を知らないために絶望している人にどうか喜びのメッセージを伝える役目を私たちにお与え下さい。私たちの教会を祝福し、広島に神の愛を伝える、星のように輝く教会として下さい。 とうとき主イエス・キリストのみ名によって、この祈りをお捧げします。アーメン。
イエス、天にあげられる youtube
詩編110:1~7、使徒言行録1:6~11 2016.2.14
きょうはイエス・キリストの昇天の出来事についてお話ししますが、この、偉大な出来事のほんの一部でしかないことをあらかじめご承知下さい。 昇天の昇は昇るという字で、日という字の下に升という字を書きます。召すという字を使って召天ということがありますが、キリストの場合には用いられません。…キリストは十字架にかけられて殺されたあと、復活して40日の間、女性たちや使徒たち、その他の弟子たちなどの前にたびたび現れて、彼らを訓練されましたが、そうして、地上での務めをすべて終えたのちに天に昇られたのです。 イエス・キリストの昇天とは、死んだあとに魂が天に帰るということではありません。キリストは生きたまま天に昇られたのです。使徒言行録1章9節は告げます。「イエスは彼らの見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった」。…これは昇天のありさまを描写したものですが、この出来事が意味することについて、私たちはいつも使徒信条の中で、イエス・キリストが「天に昇って、全能の父なる神の右に座しておられます」と唱えているわけです。使徒信条のこの言葉の根拠の一つになったのは詩編110編です。「わが主に賜った主の御言葉。『わたしの右の座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう。』」。イエス様の昇天によって、言葉では言い表せない大変なことが起こったし、それは今も続いているのです。 イエス・キリストの昇天の出来事は、古代から信仰の旗印として、使徒信条だけでなく、多くの信条や信仰告白でも取り上げられ、告白されています。それだけ重要なことなのですが、現代人には今ひとつ素直に受け取れないかもしれません。イエス様は本当に空中に浮き上がって、雲に隠れてしまったのだろうかと思う人もいるだろうからです。この問題に関しては、まず天ということをはっきりさせておくことが必要です。昔の人たちは、ユダヤ人に限りませんが、空の上、雲の中に天があると思っていました。しかし私たちはそんなところに天があるとは思っていません。それでは、聖書に書いてあることをどのように考えれば良いでしょう。…私たちは、キリストが天、すなわち父なる神のおられる所に帰っていったということを、つかんでいれば良いのです。しかしながら、聖書にははっきりと「雲に覆われて」と書いてあるではないか、という人もいるでしょう。私たちは、聖書で雲という言葉が、ある象徴的な意味をもって使われてきたことに注意しましょう。たとえばエジプトを脱出したイスラエルの民を導いたのは雲の柱とされており、また山の中でキリストのお姿が
変わられたことがありましたが、そこでも光り輝く雲がキリストを覆ったと書いてあります。聖書では、雲は神の栄光を表すものとされているものと考えられます。ですから、ここに出て来る雲も、神の栄光がまぶしすぎて使徒たちの目に見えなくなった、ということかもしれないのです。キリストが昇天された時、お体が空中に浮きあがっていったのか、それとも違う形であったのかということは今さら確かめることは困難で、また大きな問題でもありません。それが実際はどうであれ、私たちはこの出来事の本質をつかめば良いのです。 イエス・キリストの昇天を、キリストと使徒たちとの対話から見て行きましょう。使徒たちは6節で「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と質問しています。すでに3節のところで、イエス様が神の国について話されたことが出ておりまして、いよいよその時が来たと思ったのでしょう。ただ、使徒たちの思いとイエス様の思いは違っていたことを私たちは見逃さないようにしましょう。…使徒たちは、復活したイエス様が虐げられたユダヤ人のために再び国を建てて下さる、つまりローマ帝国からの民族の独立を願ったのですが、その時、自分たちにも大切な役割が与えられるものと思っていたようです。最後の晩餐のところですが、ルカ福音書22章24節から30節までの言葉に注目しましょう。イエス様は、自分たちの間でだれが一番偉いかという議論を始めた使徒たちに、「あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい」と教えながら、30節で「あなたがたは、わたしの国でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。」と宣言されました。イエス様が建てて下さる神の国は力のある者が力のない者を押さえつける国ではなく、皆が互いに仕えることによって成立するのです。その中で使徒たちは中心的役割を担うことになりますが、主の復活後の発言からはみんなそのことをよくわかっていなかったようです。第一に、神の国はユダヤ人という一民族のためではなく、全世界の人々のためのものでありました。第二に、使徒たちはイエス様と共に神の国を治める役割を与えられるのですが、それは決して力ある者が権力をふるうことではなかったのです。使徒たちは、復活したイエス様がイスラエルのために国を建て直す時、自分たちも用いられてその結果、国民から崇められるような存在になることを期待したようですが、それは的外れでした。使徒たちはユダヤ人が政治的な独立を果たすのがその時かと思ったのですが、イエス様はそれはあなたがたの知るところではないと言われます。
そうして、彼らに別の任務を与えられました。…それが、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」ということでありまして、その結果が、「エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」ということであったのです。主イエスは世界のこれからのことを思いながら、使徒たちを中心に各地に福音が伝えられ、教会が建てられてゆくことを構想しておられました。しかしこの時の使徒たちは、自分たちユダヤ人が独立を果たすことを夢み、その中で自分たちが偉くなることを望んでいたようです。結局、イエス様の言われることをよくわかっていなかったからなのですが、それが正されるのは聖霊を与えられてからあとということになります。 こうしてイエス・キリストは話し終えられたあと昇天なさいます。それはまさしく使徒たちやこの世界の目の前から去って行かれることに違いありません。イエス様はこれまで長く困難な道を、地上で使徒たちやその他多くの人々と共に歩んで来られました。しかし、これからは誰もイエス様を見ることが出来ませんし、すぐ近くで教えを仰ぐことも出来ません。…そうして、ついに別離の時が来ました。それは悲しむべきことのように思えます。しかし、そうではありません。昇天とは本当は喜ぶべきことなのです。主イエスが地上での務めをすべてまっとうされたということですから。イエス様にとって、地上で残している仕事は何もありません。すべてはなしとげられたのです。イエス様が昇天なさることは、何か大きなプロジェクトが終わったとか、芝居が終わって幕が降りてしまったというようなことではありません。そのような意味での終わりではないのです。…イエス・キリストの登場するドラマがここで幕が降りてしまったということではありません。というより、ここから新しいドラマが始まるのです。使徒言行録はよみがえったキリストが昇天したところから始まって、そこから新しい時代が始まって行くのです。しかし、イエス・キリストの昇天が、地上に残された使徒たちにとって、また私たちにとって、どうして幕開けと言うことが出来るのでしょうか。主の姿を拝することはもう出来ないというのに。キリストの昇天について、よく引用されるマルティン・ルターの言葉があります。「主が近くおられた時、主は私たちから、遠くあられた。主が私たちから遠い時、主は私たちに近くおられる」。これは何を言っているのでしょう。ルターは言います。「もしも主イエスが目に見えるお姿を持ったままの、いわば目に見えるお方として、人々の前に留まり続けていたとしたら、今なさっておられるほどの大きなことは、お出来にならなかったに違いない」。
イエス・キリストは昇天なさることによって、神の右の座に就かれました。神のみもとに帰られた主は、今この時も父なる神と等しい絶対的な地位におられ、同じ力をもって働いて下さいます。主イエスが神の右の座に就かれたことが、エフェソの信徒の手紙1章20節以下でも言われています。「神は、…キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。」続けて読みます。「神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられるところです。」このキリストが教会の頭として、この世界のために働いて下さいます。その具体的なあらわれが聖霊降臨とそこから始まる出来事です。主イエスが昇天されてからおよそ一週間後、天から聖霊が降り、歴史上最初の教会が誕生いたします。もしもイエス様が昇天なさらず、地上にとどまっておいでだったら、そのお働きは地理的に限られてしまい、聖霊が降ることもありませんでした。十字架刑を引き受けることで人間たちの罪をすべて引き受けて下さった主イエスは、昇天され、天において父なる神と同じ地位に就かれると共に、父なる神とお願いして人間たちの助け主であり弁護者である聖霊を降らせて、世界に信仰を起こさせて下さったのです。このあと聖霊を受けた使徒たちの働きにより、エルサレムばかりでなくユダヤと、ユダヤ人と反目していたサマリアの全土で、また地の果てに至るまで福音が宣べ伝えられることになります。
その中に、極東日本に立っている広島長束教会もあることは皆さんよくご存じです。…ただそこで聖霊を受ける前の使徒たちと同じ過ちを犯すことがないように、最後に一つのことを話しておきましょう。世界中にキリスト教が伝えられたことは、聖霊の導きとそれによる宣教師たちの懸命な努力のたまものです。しかし、全世界への布教が必ずしもすべて素晴らしいものでなかったことが、まことに残念ながら指摘されています。…例えば、ヨーロッパの大国がある国を侵略しようとする場合、初めに宣教師を送って伝道し、あとで軍隊を差し向ける、ヨーロッパの本国では、その国を制圧した上で、野蛮で遅れた人たちがイエス様を信じてこんな立派な人たちになったと言って喜ぶ、ということがしばしば起こったわけです。その国の人々を愛し、命をかけて福音を伝えた人がいても、こういうことが明らかになるとキリスト教伝道とはいったい何かということになりかねません。しかし主イエスはそんなことのために、昇天して神の右の座に就き、聖霊を降されたのではありません。聖霊は一つの民族のためだけに与えられるのではありません。神のために働く人をこの世で高い社会的地位に押しやるのではありません。そうではなく、聖霊はイエス様を信じる者たちが、すべての人に仕えることによって地上で神のみこころを現すことを促すのです。主イエスは昇天なさることで、聖霊を送って下さいます。使徒たちがその過ちを正されて、本当に使徒の名にふさわしい者となって行くことをこれから見て行くことになりますが、私たちも同じ恵みにあずかって、現代という複雑な時代の中で、みこころから右にも左にもそれないで歩むことが出来ますようにと心から願います。
(祈り) 私たちの救い主なる神様。 今も聖霊によって私たちと共にいます主イエスを思いつつ、礼拝の恵みにあずかることが出来たことを喜び、感謝いたします。 主が天に昇られたことによって、天と地は近くなりました。私たちの地上の人生もまっすぐ天に続いていることを覚えます。神様、どうか私たちがその恵みから漏れることがありますように。神様は私たちを怒りといらいらする思いで見ておられるかもしれませんが、それでも天に属する者の端くれとして、これからも憐れみと忍耐をもってお導き下さい。私たちは信仰が足りないために、神様を信じないこの世の中で、いつも困難にぶつかっています。みこころに従うことより、自分に利益があるかどうかを追い求めるのです。そのため一時的には良くても、最後に足をすくわれてしまうことがあるのです。人生の最後の瞬間になって、自分は間違っていたと後悔することがありませんように。どうか世に勝たれたイエス様によって私たちの人生を祝福のみ手の中に置いて下さいますようお願いいたします。広島長束教会ではいま病気とたたかっている人、入院している人がいます。神様、どうか病とたたかう力を与えて下さい。そうして、この礼拝の場に集って共に喜びあう日が一日も早く来ますよう、心からお願いいたします。主のみ名によって、この祈りをお捧げいたします。アーメン。
今も生きて働いておられるキリストyoutube
詩編33:8~15、使徒1:1~5 2016.2.7
ルカによる福音書による礼拝説教が一応終了したので、きょうから使徒言行録を読み始めます。ただ、この書物だけを読んで行くのではなく、時々パウロの手紙なども取り上げて行きたいと考えております。 使徒言行録はイエス・キリストの弟子である使徒たちの働きを書いたものです。冒頭に「テオフィロさま」とありますが、この人が誰であるかはわかっていません。テオフィロとは、神に愛された者という意味があります。もしかするとこれは本当の名前ではないかもしれません。架空の人物であって、著者が社会的地位の高い人に送った書物という体裁をとって、この記録を保護しようとする意図があったのかもしれません。使徒言行録が書かれたのは紀元70年から100年の間だと考えられておりますが、その時期、キリスト教への迫害はたいへん激しかったからです。使徒言行録は「テオフィロさま」という呼びかけのあと、「わたしは先に第一巻を著して」とありますから、これを書いた人はすでに別の書物を書いていることになります。その書物とは何でしょうか。ルカによる福音書の最初の部分を見てみましょう。1章3節「そこで、敬愛するテオフィロさま」、同じ名前が出て来ました。従って、ルカによる福音書の著者ルカが、第一巻である福音書を書いたのち、第二巻として使徒言行録を書いたことは間違いありません。ルカという人はパウロの書いた手紙にも出て来ます。その内の一つ、コロサイの信徒への手紙4章14節に「愛する医者ルカも、あなたがたによろしくと言っています」という言葉があるので、ルカが医者であったことがわかります。そう言えば、福音書にも使徒言行録にも、医者でなければ書けないような文章があるようです。ルカはパウロの伝道旅行に同行した人だと考えられています。この時代、パピルスという紙が使われていました。1枚がだいたい大学ノート1枚分で、これを20枚縫い合わせた巻物が売られていました。ルカは一つの巻物に福音書を書くと、別の巻物に使徒言行録を書きました。いま福音書と使徒言行録と2つに分けてありますが、それは便宜的なことに過ぎず、ルカは両方を合わせて一つの本だと考えていたようです。私たちはもしかするとイエス様が主人公である福音書を尊ぶあまり、使徒言行録は福音書ほどの価値はないものと考えていたかもしれません。しかし、そうではありません。福音書と使徒言行録はひと続きであり、ひとつのものであるからです。 使徒言行録の1章1節から5節には、短いところですが大切なことがいくつも含まれています。まず2行目です。「イエスが行い、また教え始めてから、
お選びになった使徒たち…」。…ルカ福音書は6章13節で、主イエスが夜通し祈られたあとで弟子たちを集め、その中から12人を選んで使徒と名付けられたことを書いています。使徒という言葉には「遣わされた者」という意味がありますが、彼らは初めから使徒の名にふさわしい人たちとは言えませんでした。12人の内、イスカリオテのユダが脱落しましたが、残りの11人についてもイエス様が逮捕された時に逃げ出してしまったのですから、ほめられたものではありません。十字架にかけられて死なれたイエス様が復活なさったと聞いた時、11人の使徒たちはその話がたわごとのように思えて、信じることが出来ませんでした。復活は全く驚くべき出来事ですから、すぐに信じられなくても人間としてやむを得ない面があるのですが、しかし、マタイ福音書は自分の目で復活されたイエス様を見てもなお疑う者がいたことを書き留めています(マタイ28:17)。私たちは、11人がイエス様の復活を確信した瞬間に生まれ変わり、喜びにあふれて、全く新しい人生を歩み始めたように考えがちですが、実際にはそのような劇的な変化は起きなかったようです。使徒言行録は、主イエスは復活なさったあと40日にわたって使徒たちに現れたと書いていますが、この間の11人の行動については不可解なところがあります。というのは、4節で、エルサレムを離れないことが命じられていますね。ルカ福音書でも、復活されたイエス様が「都にとどまっていなさい」と命じています(ルカ24:49)。ルカ福音書と使徒言行録を見る限り、使徒たちは主の十字架と復活以来、ずっとエルサレムに留まっていたように読めます。…ところがマタイ福音書では、11人の弟子は主イエスと共にガリラヤの山に登っています。マルコ福音書では主イエスからガリラヤに行けと命じられ、ヨハネ福音書では6人の弟子がガリラヤ湖で漁をしていた時に主と出会うのです。11人の使徒たちはエルサレムとガリラヤと、いったいどこにいたのでしょうか。…私はこのことが気になって、ある牧師に尋ねたところ、教えてくれました。「弟子たちは初めガリラヤに行って、それからエルサレムに戻って、あとはずっとそこにいたんだよ」。なんだ、そんなことかと言うようなものですが、そうしますと、エルサレムを離れないよう命じられたのはガリラヤから帰ってからの可能性が高いことになります。…もっとも、これより大事なことがあります。ヨハネ福音書には6人の弟子がガリラヤ湖でイエス様に出会った事件が書いてありますが、これはイエス様が死んだことで意気消沈して、もとの漁師に戻ろうとした弟子たちが、復活したイエス様に出会って再び勇気を取り戻した話だと考えられています。…ただ、みんなガリラヤ湖に来る前に復活したイエス様に会っているわけですね。
つまり、弟子であり使徒である人たちが、復活したイエス様をその目で見ても、すぐには意気消沈した状態から抜け出せなかったことがわかるのです。彼らが喜びにあふれて福音を宣べ伝えて行くまでには、かなりの紆余曲折があったものと考えられます。復活した主イエスは40日間、いつも11人やその他の弟子と一緒にいたのではありません。復活のその日に女性たち現れ、エマオに向かう二人の弟子に現れ、弟子たちの前に現れ、その日トマスはいなかったのでその一週間後に現れ、というふうにとびとびで現れられたのです。この40日は、一つの時期から次の時期に移行する合間の時間です。主イエスが直接、人間たちと共に歩んで下さった時代はすでに終わりました。この時期も復活したイエス様からお言葉を聞くことが出来ますが、このあと主は天に上げられてしまわれます。ですから今、次の段階のための準備をしなければなりません。このあとの時期、もはや誰もこの世で主と直接出会うことは出来なくなるのです。もしも難しい問題が起こったら、どうしたら良いでしょう。イエス様の助けなしに、これをどのように解決することが出来ますか。使徒たちは、主イエスが天に上げられたのちも、主イエスのことを宣べ伝えて行かなくてはなりませんし、人は古今東西、誰であっても主イエスを信じなくてはなりません。それまでの時期は、イエス様を直接見て信じることが出来たのですが、これからはイエス様を「見ないで信じる者」にならなければいけないのです。主イエスが人間と共に生活した時代が終わり、復活のイエス様がたびたび現われた時期もまもなく終わるとしたら、では人は何をもってイエス様を信ずれば良いのでしょう。…それまでは主イエスが直接、神とはどんなお方であるか、人は神の前にどのように生きていくべきかを示して下さいましたが、これからは違います。それまで主イエスが示して下さった確かさは、今度は聖霊が示して下さることになります。使徒言行録は、使徒たちが聖霊に促されて、福音を伝え、各地に教会を建てて行くことを書きますが、そこから始まる大きな流れの中に私たちの信仰生活もあります。主イエスは天に昇られたのですから、いま地上には生身のイエス様はおられません。しかし、聖霊においておられることを私たちも確信できる者となりますように。 復活の主イエスは40日にわたり使徒たちを訓練なさいました。こうして、信仰の面で不完全であった弟子たちが、名実共に使徒の名に恥じない人たちになって行くことを私たちは見るでしょう。 復活の主イエスは使徒たちと食事している時に、こう命じられました。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。
ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によるバプテスマを授けられるからである。」これは先に申したように、使徒たちがガリラヤからエルサレムに戻ったあとのことだと思われます。ここでの食事ですが、復活した主イエスが食事をした目的としては、ご自分が幽霊ではないことを示されたことと共にもう一つのことがありました。…渡辺信夫先生は、イエス様は復活者であられるのだから、空腹を感じることもなく、食事の必要もなかったと言われました。そうなのでしょう。だとすれば、なぜ食事なさったのか、それは使徒たちとの食事による交わりを重んじたからでありましょう。そうすると、そうした食事としてまさにふさわしいのは、主がパンを取って裂いて与え、またぶどう酒の杯も同じように分けるという、聖餐であったのではないでしょうか、これが有力な可能性として考えられます。この時、主はエルサレムを離れないように、と命じられました。これは使徒たちを永久にエルサレムに縛りつけておこうということではありません。神の国を地上に実現するため、使徒たちはやがて世界各地へと派遣されるのです。ただし、ここでは待てと言われます。使徒たちの中には、すぐにでも伝道のたたかいに出て行きたいと血気にはやった人がいたかもしれませんが、主は押しとどめられます。エルサレムを離れるなと言われるのは、福音の宣教がまずエルサレムから始められなければならないからです。キリストの名によって罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まって、世界の諸国民に伝えられます。そのために、「前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい」とも命じられます。これがすなわち聖霊であって、聖霊が降ることによって歴史上最初の教会がエルサレムに誕生することは皆さんはご存知です。…ここでは、聖霊が主イエスと結びついて与えられること心に刻んでおきましょう。
プロテスタント教会は、聖霊は父と子から、すなわち父なる神と子なる神キリストから来ることを告白しています。もしもそうでなかったとしたら、つまり聖霊が父からだけ来ると考えると、キリスト抜きで聖霊が重んじられるということになります。それが行き着くところ、聖霊体験を過度に重んじ、キリストはどこかに行ってしまうという、いわば神がかり的な礼拝が出現するので注意が必要です。さて、5節ではヨハネのバプテスマと聖霊によるバプテスマが比較されています。皆さんご存知のようにバプテスマのヨハネは主イエスに先立って現れ、悔い改めを力説し、バプテスマを施した人です。ヨハネが殺されたあともヨハネの信奉者は残っており、それはユダヤの外まで広がって行きました。使徒言行録19章では、パウロがエフェソで会った人たちはヨハネのバプテスマを受けていたのですが、パウロが「信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか」かと聞くと、「聖霊があるかどうか、聞いたこともありません」と答えています。そこでパウロがこの人たちに改めて主イエスの名による洗礼を授けると聖霊が降ったということが書いてあります。この話については、その場所に来た時に学びます。今日はヨハネのバプテスマと主イエスの名によるバプテスマは違う、その中心にあるのは聖霊を受けたかどうかにあるということだけを覚えておきましょう。11人は「間もなく聖霊によるバプテスマを授けられる」と言われました。今回、私はこのことについて調べたところ、わからないことがたくさん飛び出してきて、わかっていることだけお話ししますが、主イエスのこの言葉が実現するのが、言うまでもなくペンテコステの日です。ペンテコステの日に聖霊が一人ひとりの上にとどまり、皆が聖霊が語らせるままに神の偉大な業(わざ)を語り始めました。ペトロが「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、メシアとなさったのだ」と言うと、その言葉を受け入れた人々がバプテスマを受け、その日三千人ほどが信者となったのです。
考えてみれば、主イエスが十字架にかかる前に、主の十字架のあがないを信じてバプテスマを受けるということはありえないわけです。ということはペンテコステの日に、使徒たちとそれに加え三千人ほどの人たちが、みな聖霊によるバプテスマを受けたと言って良いのではないでしょうか。これについては、さらに考えて行きたいと思います。きょう学んだ1章1節から5節までの部分は、使徒言行録のいわば前置きであり序論でありまして、本論に当たるものはペンテコステの出来事から始まります。この時から聖霊の働きによって、使徒たちの伝道が始まり、各地に教会が建てられていく、その中に私たちの広島長束教会があることを思って、感謝の内に使徒言行録を学んで行くことにいたしましょう。 (祈り) 天の父なる神様。復活の主に出会った使徒たちが、やがて自らの罪と弱さを克服して、使徒の名に恥じない者となる、その過程を今日から学び始めます。使徒たちに起こったことは私たちにとっても、たいへん重要なことでありまして、職業的な伝道者ばかりでなく、キリストを信じるすべての者に使徒言行録が与えられていることを感謝いたします。どうか広島長束教会の上に聖霊の導きが豊かにあり、教会を通して私たちの不信仰が克服され、大きな喜びへと変わって行きますことを心から願います。私たちの教会と私たち一人ひとりは多くの問題をかかえていますが、どうぞ聖霊によって強め、困難に打ち勝たせて下さい。そのためにも使徒言行録の礼拝説教をお役立て下さい。イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。
神、人に答え給うyoutube
ヨブ38:1~3、ルカ23:34abc 2016.1.31
神は本当にこの世界を支配しておられるのか、神がおられるのになぜ地上には不幸な人が次々に生み出され、悲惨な出来事が絶えないのか、…という昔から多くの人々を悩ませてきた問題が、ヨブ記の主題です。ヨブはすべての言われなき苦しみにあえぐ人々の代表として、耐え難い苦しみに耐えながら、この問題をめぐって友人たちと議論し続けました。 ヨブは神の自分に対するなさりようは不当だと主張し、直接神と向かいあって自分の思いを訴えようといたします。ヨブの3人の友人たちはこんなヨブを説得することが出来ません。最後に登場したエリフは、3人の友人とは違う新しい見方を示しましたが、問題の解決には至りません。誰もが語るべきことを語りつくしてしまったのです。人は苦しみにある時、なぜ自分がこんな目にあわなければならないのか、と思うものです。それは、ことによると苦しみから逃れることよりもっと切実な思いなのかもしれません。ヨブは苦悩の中で、神に幾度となく呼びかけています。13章22節では「呼んでください、お答えします。わたしに語らせてください、返事をしてください」、30章20節でも「神よ、わたしはあなたに向かって叫んでいるのに、あなたはお答えにならない。御前に立っているのに、あなたは御覧にならない」と叫んでいます。しかし、お答えはありません。神は沈黙を守っておいででした。皆さんもヨブ記を読みながら、いつお答えが与えられるのかと、じりじりしながら待っておられたかもしれません。…このままでは問題は永久に解決しません。もはや、この世には問題解決の鍵となるものがないのです。最後の解決はやはり神によって与えられます。生ける神の声が人を救うのです。 「主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった」。主なる神はついに口をお開きになりました。長い間沈黙しておられた神が最後の最後になって、お答えなさったのです。嵐の中からと書いてあります。これは砂漠の嵐でありまして、聞くところによりますと猛烈なものだということです。ヨブは激しい嵐が吹き荒れる中で、神のみ声を聞きました。神の第一声はこうでした。「これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて、神の経綸を暗くするとは」。これはまことに厳しい言葉です。私などは、あれだけの苦しみとたたかったヨブに対して、神様がねぎらいの言葉ぐらいかけてあげても良さそうにと思ったのですが、最後までそんな言葉は出て来ません。神様は、「お前はいったい何様のつもりだ。お前は私のことをどれほどわかっているのか。何も知らないくせに、あーだこーだ神の正義を論じるとは、自分をわきまえない、出過ぎたことだとは思わないのか」、こう言って叱るのです。
この厳しさはいったいどうしてなのでしょうか。神はヨブに「知識もないのに」と言われますが、ここで言われている知識とはいったい何でしょう。神様がヨブより知識があるのは当然のことです。それでも「知識がない」と言われなければならないのでしょうか。ここで少し飛躍するように思われるかもしれませんが、主イエスの十字架上の祈りがヒントになるでしょう。イエス様は、はりつけになったまま、激痛の中で、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と祈られました。主イエスは人々が何も知らないことを知っておられました。その上で、知らなかったのだから、赦してあげて下さい、と祈られたのです。無知な者に対する憐れみあふれる言葉です。…しかし、ここから私たちが、自分は知らなかったのだから罪はないのだ、と開き直ることは出来ません。…自分はイエス様がはりつけにされた時、何も知らなかった。自分がある人の心をいたく傷つけたとしても知らなかった。自分の所属している団体、会社とか国かが悪いことをしても知らなかった。…だから責任はないんだと言ってすませてしまうことがよくあるのですが、それはイエス様をもう一度十字架にかける結果になってしまうでしょう。…本当はすべて知っているべきだったのです。少なくとも知ろうとする態度を取るべきだったのです。しかし自分には関係ないと思っていた、知ろうともしなかった、…そのことが罪であるということに人はなかなか気がつきません。人殺しも、他人の財産を盗み取る者も、姦淫する者も、心ない言葉でほかの人を追いつめて心の病気にまで追いやってしまう人も、みんな自分が何をしているのか知らないから、恐ろしい罪を犯してしまうのです。…全人類を覆っている無知が、神の御子でさえ十字架につけて殺してしまう、そのことに対して、その時代の人々はもとより、現代人も罪がないとは言えません。「自分は知らなかった」ではすまされないことをしてしまったのです。イエス様はそのことをすべてご存じの上で、無知のために滅びに至る者のために赦しを祈って下さいました。この祈りは、イエス様の血を代価として捧げられた祈りです。私たちは今も、自分のしていることを知らないために罪を犯していますが、その罪が赦されるためには、イエス様が殺されなければならなかったのです。ヨハネ福音書3章16節の有名な言葉を読んでみます。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」…神はヨブに向かって「知識もないのに、言葉を重ねて、神の経綸を暗くするとは」と言われましたが、そこに出て来る神の経綸という言葉を表しているのが、まさにこの言葉なのです。
経綸というのは、もちろん自転車競争ではなく、神の永遠の計画を意味する言葉です。神がいかなる方法でこの世界を治め、保ち、導き給うかということです。それは御子イエス様の十字架と復活によって、この世界を救おうとなさることです。そのことはもちろんイエス・キリストよりはるか昔の時代に生きたヨブの知らないことでしたが、だからといって彼は容赦されないのです。それはおかしいじゃないかと文句を言ってもしかたありません。イエス様によって最終的に完全な形で現された神様の正義と愛はヨブの時代にも貫き通されておりまして、そのことを知らなかったヨブさえ「知識もない者」にされてしまったのです。 話を前に進めます。ヨブは3人の友人との話の中で、神がおられるのになぜ悪人が栄え、正しい者が災いを受けるのかということを問題提起しました。現実の世界にしばしばこういうことが起こることは、正義は必ず勝つと信じる人を悩ませ、神様は間違っているのではないかという疑いを起こさせます。…しかし、ヨブに現れた神は、それは神の経綸の深さを知らない人間の理屈なのだと言われるのです。神の経綸の深さを説明するのは困難です。悪人が栄え、善人が苦しみ、一方で戦乱のために命を失う無辜の人々がいるかと思えば、一方でほとんど悩みもなく幸せな一生を送る人がいるという現実を、数式を解くように明快に説明することは出来ません。しかし神はこの現実に立ち向かいつつ、この世界をたしかに治めておられます。人間から見ると、神様は悪人を罰し、善人に恵みを賜うようになさったら良いのにと思うわけですが、神様の方ではそうはされない、あるいはそうは出来ない何らかの理由があるのです。ヨブの受難もその一つです。私たちは、善人の鑑のようなヨブがこれほどの災いを受けるのはおかしいと感じます。しかし、だからと言って、神様が間違っていると言うことは出来ません。私たちは、ヨブが知らなかったことを知っています。ヨブ記の第1章に書いてある通り、神様はヨブを正しい人間だと認めていました。しかしそこにサタンが来て、「人は利益もないのに神を敬うでしょうか」と言って挑発したのです。サタンによれば信仰とは結局、神との取引です。利益がなくして信仰は成り立ちません。ヨブだって同じこと、利益がなくなってしまえばヨブも簡単に信仰を捨ててしまう、と言ったのです。…神はそのようには考えません。たとえ自分に何の利益がなくても、それどころか災いを受けるのだとしても、神を拝み、神に従っていくのが信仰のはずです。そこで神はサタンにヨブの処置をまかせ、ヨブが本当の意味での信仰者であるかどうかが試されることとなったのです。ここにヨブをめぐって神とサタンの対決が始まりましたが、これは神がサタンとの間で賭け事をしているのではありません。私は、神がここで、
サタンが立脚する拠り所をうちこわしてしまおうとなさったのだと考えています。そのことはヨブにとってあまりにも酷いことであり、また神とサタンとのやり取りも一切教えられないままでありましたが、そこに全世界を包む神のみこころが現れています。…ヨブがそんなこと自分にはわからなかったと言っても神に対しては通用しません。知識もないのに何を言っているんだということになるだけなのです。神のなさりようは人間の思いとはあまりにも遠くへだたっています。私たちだって、神様がおられるならなぜこんなことがと言って、神を非難するば、同じように「これは何者か。知識もないのに…」と言われてしまうでしょう。 さてヨブの大きな間違いは、自分を責め立てていたのは神様であると思っていたことです。しかし、サタンとのやりとりからもわかるように、神はヨブの敵ではありません。サタンに対する弁護者と言っても良いと思います。神は。たとえヨブが完全に正しい者ではないとしても、彼には罪がないと認めようとなさるお方だったのです。だとすれば、私が偉そうに言うのは気が引けますが、ヨブにとって最善の道は、神を責めるのではなく神を信頼し、神の経綸に自分を委ねることだったはずです。神の経綸がわかってもわからなくても、です。…そのことは、何でもかんでも神のみこころだとして認めてしまうことではありません。心が引き裂かれるような現実を前にしても、神を信頼しぬいてゆくことです。口で言うほど簡単でないのはもちろんですが、それを貫いて行くことだったのです。…しかし、ヨブにはそれが出来ませんでした。そこで神様は彼に「男らしく、腰に帯をせよ」と命じます。腰に帯をするというのは、兵士が戦いをする時の用意です。立て、私の問いを受けてみろ! こうしてヨブが前々から望んでいた、神との言葉による対決が始まるのですが、その時神の口から出たのが「わたしはお前に尋ねる。
わたしに答えてみよ」ということでありました。このことは何を意味しているのでしょうか。苦しみの中で神の正義と愛を求めていたヨブは、「なぜ、この世にこんなことが」とか「なぜ、私が…」と問いをぶつけてきたわけですが、ここに来て逆に神に問われる身になったのです。神の問いがこのあとずっと続きますが、神はヨブが知りたいことに答えるのではなく、かえってヨブに問い、ヨブが答えることを要求なさいます。その結果はどうなったのか、次回以降学ぶことになりますが、神からの問いはヨブに神への信仰を改めて呼び起こします。そうして、そのことがヨブが訴え続けた問題の解決へとなって行くのです。これと同じようなことが、ヨブのほかにもたくさんあるのではないでしょうか。苦しみの中で神様にどうして、どうして、と言っいた人がある時、神から逆に問われることがありえます。なぜ自分がこんなに苦しむのかという理由は神様は教えて下さらないかもしれません。教えられたとしても、それで悩みが解決できるのかどうか。しかし神から逆に問われることを通して、たとえ何が起こっていても、この世界が神のご支配のもとにあることが示され、その中で自分の進むべき道が見えるようになるのだとしたら、そこに別の道が開けてくるように思われます。もちろん私たちが、直接神様の声を聞くことはありません、あったとしてもきわめてまれなことでありましょう。しかし、その神様の声が収められているのが聖書でありまして、これを私たちは礼拝の時に開いているのです。聖霊は、死んだような文字を生きて働かせ、一人ひとりの胸に届けて下さるのです。 皆さんにとって神様は、沈黙されたままの神様でしょうか。それとも、自分に語りかけて下さる神様でしょうか。神様の声が疲れて倒れそうな心をも、立ち上がらせて下さるように。祈りましょう。
(祈り) 全宇宙の造り主なる父なる神様。私たちに今日、この礼拝のときを備えられ、神様と共に歩む一週の日々を与えて下さったことを心から感謝申し上げます。 神様、神の沈黙という言葉があります。聖書の中には、神様の言葉が与えられない時代があったことが書いてあり、ヨブに対しても、長い間お言葉がありませんでした。人類の歴史の中でも、悲惨な出来事が起こるたびに、神は沈黙されているのかという人が出て来ます。 しかし今日、神様は沈黙されることがあったとしても、それはいつまでもということではなく、救いを求める人に対して答えられることを知りました。それは人間の望む答えではないかもしれません。しかしヨブはその声によって、本当の心を取り戻すのです。 神様、いま、この礼拝の時を通して、神様の声がここにいる一人ひとりの上に届けられていることを信じます。もしもここに神様の声を前に耳をふさいでいる人がいたら、どうかその耳を開いて下さい。神様のみ声をもって、私たちを奮い立たせて下さい。特に、苦しみの淵にいる人がいたら、神様がそれでも正義と愛とをもってすべてを支配なさっていることでもって、その心に希望の灯をともして下さい。 今日の午後、私たちの教会は定期総会を開きます。時代の波に翻弄されながらも、ただ神様からいただくみ言葉によってこの地に立ち続けてきた教会をどうか祝福し、感謝と再出発の時として下さいますようお願いいたします。とうとき主イエス・キリストのみ名によって、この祈りをお捧げします。アーメン。
聞け、神の御声のとどろきをyoutube
ヨブ36:19~37:24、ロマ1:20a 2016.1.24
ヨブ記の学びもだんだん終わりが近づいてまいりました。今日が36回目ですが、私たちが想像も出来ないほどの災難にあったヨブのことをずっと聞き続けていて、皆さんはどう思われていたでしょうか。ヨブの苦しみを自分の苦しみと重ね合わせて受け取られた方がおられると思いますが、一方、こんな悲惨な話は聞きたくないと思われた方もおられるかもしれません。 1980年頃ですが、横浜海岸教会でマザー・テレサのドキュメンタリー映画の上映会をしたことがありました。マザー・テレサはご存じのように、1997年に亡くなるまで、インドで、死を前にした貧しい人々に愛を差し出す仕事をしていた人で、映画を見ていた多くの人に感銘を与えました。しかし、そこにいた日曜学校の子供たちが「こんなの二度と見たくない」と言うのです。そこには貧困と病苦にあえぐ人たちがいたからです。子供には刺激が強すぎたようです。このように、世の中には、いや教会の中にも、ヨブの悲惨な姿など見たくもない、聞きたくもないという人がたくさんいるはずなんですね。ヨブなんかに関わるな、あんな人と関わったら、苦労するだけだよ…そんな声も聞こえてきます。……現実には、この世では、ヨブとは全く違う、力の強い人のそばにいなければ、自分ひとり生き抜いて行くことだって難しいということもあるでしょう。しかし、その時、人は肝心なことを見失ってしまうのです。主イエスはそのような人のことを、マタイ福音書の25章で呪われた者どもと言われました。「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、牢にいたときに訪ねてくれなかったからである。」これに対し、主よ、いつわたしたちはそんなことをしましたかという人たちに向かって、主は「この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである」と答えられました。ヨブを見殺しにする人は、結局イエス・キリストをも見殺しにしてしまうのです。さてヨブが論争した相手はみな、ヨブを心配してやって来た人たちですから、その点では、ヨブを見殺しにしたその他大勢の人たちと一緒にすることは出来ません。しかし、初め、ヨブに同情していた友人たちは、やがてヨブが何か大きな罪を犯したために神の怒りが下されたのだと言うようになったわけですね。それがヨブをたいへん傷つけたのは言うまでもありません。では途中から登場したエリフはどうだったでしょうか。エリフは、3人の友人たちのようにヨブをこきおろして、ヨブの犯した大罪が神の怒りを招いたなどと言うことはないようです。
よく読んで行くと、それに近い所も見つかるのですが、3人の友人に比べてたいへん少ないのです。エリフは苦しみにあえぐヨブを思いやりながら、それでも神様は絶対に正しいのだから神様を疑うな、神様から離れたらあなたは本当に滅びてしまうと忠告しているものと考えられます。エリフは、ヨブには神への疑いの気持ちが芽生えていると見なしていました。33章9節から13節までを読みます。「『わたしは潔白で、罪を犯していない。わたしは清く、とがめられる理由はない。それでも神はわたしに対する不満を見いだし、わたしを敵視される。わたしに足枷をはめ、行く道を見張っておられる。』ここにあなたの過ちがある、と言おう。神は人間よりも強くいます。なぜ、あなたは神と争おうとするのか。」エリフはヨブに向かって、どんな時でも神が正しいと認めるべきであり、どんな災いに遭っても神の正しさを疑わず、神を信じぬく人こそ神の力にあずかり、恵みを頂くことが出来ると言うのです。19節をご覧下さい。「苦難を経なければ、どんなに叫んでも、力を尽くしても、それは役に立たない」。そして21節、「警戒せよ、悪い行いに顔を向けないように。苦悩によって試されているのは、まさにこのためなのだ」。エリフは、ヨブが自分を神より正しいと思うのは高ぶりの罪に当たり、傲慢だとみなします。そのような心は正されて謙遜にされなければなりません。では傲慢な人間はどうしたら謙遜になるのでしょうか。それが苦難であり苦悩である、と言うのです。高ぶりや傲慢は苦しみによって打ち砕かれ、謙虚にされる、そこに救いがある!…つまりエリフの見るところ、ヨブの苦しみは3人の友人が言うようなヨブの罪に対する罰ではない!そうではなく、神がヨブを救いに導くために鍛錬し、訓練しているのだ、と言うことになるのです。エリフの考え方を今の時代にあてはめるとこういうことになるでしょう。…こんなことは考えたくないことですが、皆さんが何かの災難にあって苦しんでいるとします。友人から、これは神様の罰ではありませんと言われたら、少しほっとするでしょう。しかし今度は、神様は災難を通してあなたを鍛錬しているのです、と言われたとしたら、…それで納得出来ますか、ということなのです。 話題は急に変わります。36章22節から、エリフは神の力の賛美に移り、それは37章の終りまで続きます。そこには大切なことが述べられていますが、同時に私たちがよくよく考えなければならないことも含まれています。神はなぜヨブに耐えがたい苦しみを与えたのか、それは神の罰なのか、それとも鍛錬なのか、あるいはそれ以外の理由があるのか、この難問を解こうとしてゆく時、私たちは人間が知ることの出来る神の業には限りがあるということを知っていなくてはなりません。22節は言います。「まことに神は力に秀でている。
神のような教師があるだろうか」。26節も同じです。「まことに神は偉大、神を知ることはできず、その齢を数えることもできない」。人間は偉大なる神のほんの一部分しか知ることが出来ません。神は人間の思いをはるかに超越したお方ですから、「誰が神の道を見張り、『あなたのすることは悪い』と言えようか」となるのです。人間は神のことを知らない以上、神のなされることに対して指図したり、注文をつけたり、まして非難することなど出来ません。神はすべてのいのちの源であり、神にとって人間は、アリのような小さな存在に過ぎません。こんな人間がなすべきことは、神をたたえることだけです。「世の人は神の御業に賛美の歌をうたう。あなたも心して、ほめたたえよ」。エリフはヨブもここに加わるようにと勧めます。これは私たちにも勧められていることです。もしかしたら、自分に苦しみばかりあわせる神様を何で賛美しなければならんのかと思っている人がいるかもしれません。ふだん熱心に神を賛美していた人でも、その時は苦しいことばかりで、神を賛美する気持ちが起きてこないということはあるでしょう。しかし、そのような時でも神を賛美するべきです。なぜなら、神は賛美を受けられるべきお方だからです、私たちがどのような状態であっても、神の御座は天にあって変わらず、神の御名もその栄光も変わらず、人間が神とはとうてい比べものにならないことも変わらないのです。神の言葉に尽くせない偉大さを、エリフは自然界に起こる現象を例に出して諄々と解き明かします。27節:「神は水滴を御もとに集め、霧のような雨を降らす。雲は雨となって滴り、多くの人の上に降り注ぐ。どのように雨雲が広がり、神の仮庵が雷鳴をとどろかせるかを悟りうる者があろうか」。37章2節:「聞け、神の御声のとどろきを。その口から出る響きを。閃光は天の四方に放たれ、稲妻は地の果てに及ぶ。」雨は人間が生きるか死ぬかに関わります。水の少ない中近東では特にそうです。水なしでは人間も生物もみな死にたえてしまいますが、雨が降って水があるとき、緑の大地は豊かないのちをはぐくみ、人間も生物も生きることが出来るのです。もちろん現代人は自然のしくみをヨブの時代の人々よりはるかによく知っていて、稲妻がなぜ光るかも勉強すれば説明出来ますから、雷鳴を神の声のように思うことはないでしょう。…しかし、それでも人間が天候をコントロールすることは出来ません。最近では、異常気象が世界を脅かしています。エリフは言うのです。雨を降らせる、この一つをとってみても神のみわざが人間の思いをはるかに超えたものだということがわからないか、と。それでは6節から13節にかけて、冬ということをキーワードに見てみましょう。神は雪に対して「地に降り積もれ」と命じ、また嵐によって寒さがまき散らされます。
8節の「獣は隠れがに入り…」は冬眠のことを言っているのでしょう。冬は人間にとってもまことに厳しい季節です。…しかしエリフは、冬の訪れもまた神のみこころによるものであることを強調します。13節に書いてあるように、「懲らしめのためにも、大地のためにも、そして恵みを与えるためにも、神はこれを行わせられる」と言うのです。…これこそエリフがヨブに聞かせたかった言葉でありましょう。…ヨブはいわば厳しい冬の中でこごえているのです。しかし、冬がなければ春は来ません。今、目に見えてなくても太陽はあるのです。21節:「今、光は見えないが、それは雲のかなたに輝いている。やがて嵐が吹き、雲を払うと、北から黄金の光が差し、恐れべき輝きが神を包むだろう。」…これは素晴らしい言葉です。希望は失われてはいないのです。 エリフの言葉は私たちにとってこういうことでありましょう。災難であれ何であれ、苦しみを訴えたら、まず「人間、辛抱だ、これはあなたを強くするために神様が下さった鍛錬なのだから我慢しなさい」と言われるのです。それに続けて、神様が自然を支配しておられる、神様から酷寒の冬を与えられたとしても恨むでない、それは懲らしめのためだったとしても、必ず恵みとなるのだ、と。…そうした言葉でヨブは慰められたのでしょうか。…私たちも慰められるでしょうか。そのことが問題となります。ここで次回につながる課題を述べたいと思います。皆さんも、苦しみは鍛錬であるという勧めに従って、その通り、苦しみを耐え抜くことによって問題が解決するという体験をしているでしょう。エリフの言うことはある程度は有効です。しかし、苦しみにどこまで耐えるべきか、鍛錬はどこまで受けるべきかというのは、一人ひとりの状況に応じて決められなければなりません。
金属の板を曲げてもある程度までは復元出来ますが、それ以上になると元に戻らなくなります。苦しみがその人の限界を超えた場合、その人がつぶれてしまうこともあるわけですから、エリフにならって、苦しみにある人に向かって一律に「これはあなたにとって良いことなのだ」と言うことは、時に残酷な結果を産むことになります。ヨブの苦しみはすでに彼の限界を超えていました。もう一つ、神が自然を支配なさっていることと、人間一人ひとりの心のあり方や苦しみとの関係、これはたいへん大きな問題です。週報では、今週の言葉としてガリレオの言葉をあげておきましたが(注1)、その時代の科学者は宇宙を探求することが神の偉大さを明らかにすることだと考えていました。そこには、雨や雷や雪を通して神の偉大さを語ったエリフと共通するところがあるようです。こうした問題は38章以降で引き続き考えて行きたいと思います。 今日のところでエリフは、神との一対一の交わりを求めるヨブに対し、神が絶対であることを力説しました。エリフは、もともとアリのように小さい人間など神はかまって下さらないのだという考えでした。しかし、厳しい冬にも神の恵みを感じ取り、今、光は見えなくとも雲のかなたに輝いていると言うエリフは、ヨブの考えに一歩近づいているようにも見えます。ヨブ記は37章をもって、議論がすべて出尽くしたことになります。ここに最後まで残された問題を解決するためには、神御自らの登場を待たなければなりません。次の38章で、ついに神が登場されるので、それを待ちましょう。最後に詩編8編の4節と5節を読んでみます。ここにエリフの考えとヨブの考えが交わる点が見えてきているように思われます。「あなたの天を、あなたの指の業をわたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。そのあなたが御心に留めてくださるとは、人間は何ものなのでしょう。」
(祈り)神様。私たちは神様がすべて苦しみと悩みのなかにある人にとっての道しるべであり、灯台であることを信じています。どんな人の中にもある苦しみと悩みを見過ごすことの出来ない神様が、いま全世界の教会の礼拝を通して恵みのメッセージを送って下さり、その中に私たちの教会もあることを覚えて感謝いたします。 ヨブ記の中でエリフは言いました。たとえどんなことが起きようとも神様は正しい。今、光は見えなくても、雲が払われると黄金の光が指してくるのだ、と。…ヨブはその言葉に納得したでしょうか。私たちも半信半疑のところがあります。しかし、その言葉を信じたい思いを多くの人が感じていることと思います。 神様、私たちは神様が宇宙とこの世界を造られたことを知っています。自然は時に猛威をふるうとはいえ、神様のご支配に完全に服しています。それに対し、神様の支配下にあるはずの人間が神様にそむき罪を犯すのはどうしてなのでしょうか。罪からあらゆる苦しみが出てきますが、罪を滅ぼすためにとうとい命を捧げて勝利されたイエス・キリストの栄光をさらに輝かせて下さい。この広島長束教会を祝福し、この教会に関わるすべての人を聖霊によって強めて下さい。主の御名によって、この祈りをお捧げします。アーメン。
(注1)「哲学は、宇宙という壮大な書物(The book=聖書)の中に書かれてある。この書物は、いつもわれわれの眼の前に開かれている。けれども、まずその言葉を学び、それが書かれている文字が読めるようになるのでなければ、この書物を理解することはできない。それは数学の言葉で書かれている。…これらなしには、人は暗い迷宮の中をさまようばかりである」 (ガリレオ・ガリレイ「偽金鑑識官」より)
1月17日は牧師が出張のため、長老が説教して下さいました。素晴らしい説教でしたが音が上手く入っていない為、
今週はお休み致します。申し訳ありません。
祝福のあるところyoutube
詩編84:2~13、ルカ24:50~53 2016.1.10
私が広島長束教会に赴任してから6年と半年、ずっとルカによる福音書を読み続けてまいりました。この書物は、ルカが書きました。福音とは、喜びの知らせのことです。ルカによって伝えられた、喜びの知らせがつまっているのがこの書物ですが、今日で読み終えることになります。ルカによる福音書には、第1章から喜びの知らせが書いてありますが、その中でも有名なのが、「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」という言葉です。クリスマス物語でおなじみの、天使が羊飼いたちに告げた言葉でありまして、大きな喜びとは、言うまでもなくイエス・キリストのご降誕であったわけです。喜びの知らせを語るこの福音書は、最後までイエス・キリストについて語り続けます。そうしてたどりついた今日のところで、イエス様は昇天なさいます。その直後の52節を読みます。彼らは―これは11人の弟子と仲間たちということになりますが―イエス様を伏し拝んだのち、大喜びでエルサレムに帰り、神殿の境内で神をほめたたえていた。ちょっと考えてみると、今日のお話はイエス様との最後の別れの場面です。ふつう、別れというのは悲しい時ですから、涙ながらになってもおかしくはないのに、ここではみんな大喜びだったのです。もうイエス様とは会えないというのに、喜びにあふれていたのです。そこにはいったい何があったのかということを、お話しいたしましょう。 ルカによる福音書は24章で、死んで復活されたイエス様のことを書いています。お墓がからだったこと、二人の弟子がエマオに行って戻ってきたこと、弟子や仲間が集まっていたところにイエス様が現れたこと、そしてイエス様が昇天されるところまで、まるで一連の出来事のように書いていますが、これらすべてが一日の内に起こったのではありません。ルカが書いたもう一つの書物、使徒言行録ではイエス様は復活ののち40日、地上におられたとはっきり書いているので、ルカによる福音書24章は、40日間に起こったことをまとめて書いたものと言えます。50節:イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福されながら彼らを離れ、天に上げられた。そこというのはエルサレムです。ベタニアは、聖書にたびたび出て来るところでマルタ、マリア、ラザロがいた村です。都エルサレムから2.8キロほど、ごく近くにあった村です。エルサレムの東にはオリブ山が広がり、といってもエルサレムから数十メートル高いだけですが、その南東のふもとにベタニアの村がありました。ルカはここで祝福という言葉を何回も使っています。主イエスは11人の弟子と仲間たちを連れてきました。その中には女性たちもいたはずです。イエス様は手を上げて彼らを祝福されました。手は原文では複数形になっているので両手です。みんなイエス様から祝福を受けました。
「手を上げて祝福された」、いつも礼拝の最後の祝祷で、牧師が手を上げて祝福を告げるのは、ここでイエス様がなさったことに由来します。…私が皆さんを祝福する力があるのではありません。祝福して下さるのはイエス様で、私はその事実を告げるだけです。さて、手を上げて祝福されたイエス様が、そのあと「祝福しながら彼らを離れ…」というところを、よく考えてみると深い意味がありそうです。イエス様は祝福している両手をおろすことなく、そのままの姿で天に上げられたのです。私も、どこの牧師も、上げた両手をおろしますが、イエス様はその手をおろされはしなかったのです。「祝福する」と訳された言葉を、原語にさかのぼって直訳すると「良い言葉を語る」となります。主イエスが、すなわち神であるお方が良い言葉を語って下さる。主イエスが弟子や仲間たちに良い言葉を語って下されば、それが祝福となったのです。それは、ほかの何にも変えがたい恵みでありました。そのことは、ここでは「神がこの人たちを肯定して下さった」と言い換えても良いと思います。…皆さん、考えてもみて下さい。こここにいる人たちはそもそもイエス様の祝福に値する人たちだったでしょうか。イエス様がつかまり、十字架にかけられた時に見捨てて逃げてしまった情けない者たちがいます。復活されたイエス様のことをまだ十分には信じきれていない者たちもいます。だから、イエス様から「お前たちのことは知らん。もう二度と私の前に顔を見せるな」と言われてもおかしくはなかったわけです。しかしイエス様はそうはなさらなかった、ご自分を裏切った者たちも信頼して、弟子として認めて下さった。「あなたたちはそれで良いのです。あとは任せましたよ」と信頼する思いを表して下さった。そのことが、みんなの顔を輝かせたのです。主イエスは、両手を上げて祝福し、そのお姿のまま天に上げられました。これは、まさにこのお方は私たちに対しても祝福を与える方であり、その祝福は私共の上にも注がれていることを示しているのです。祝福、これこそ私たちがイエス様を信じ、イエス様と共に生き始める時、私たちを包み、私たちの全ての歩みを根本から支える力そのものなのです。 ここで少し、祝福ということについて考えてみましょう。私たちのまわりに祝福があふれているなら素晴らしいのですが、実際はどうでしょうか。直接、祝福という言葉を使わなくても、家族や友人や隣人などに何か良いことがあった時に、良かったですねえと言って一緒に喜ぶのは祝福に違いません。ただ、なかなかそうは行かない場合があると思うのです。ほかの人のことで素直に喜ぶよりむしろくやしがったり、「あいつ、うまいことやりやがって」とねたんだり、またその人が失敗することを望んだりすることもあるかもしれません。祝福とは全く正反対の人生を送っている人もいたりします。祝福の反対語は呪いです。「呪いのワラ人形」とか言うように、日本ではこの言葉は時々耳にすることがありますね。仮に、ある家で、次から次に不幸な出来事が起こると、「あの家は呪われているんじゃないか」と
ささやく人が出て来たりします。こういう、祝福とは全く関係のない世界では、たとえば自分たちのために、ある別の人たちが大変な困難に追いやられ、死んだりすることがあると、祟りということを恐れてお祓いをするようなことも起こります。犯した罪に対する悔い改めも謝罪も、罪の赦しもないところでは、一方の側はどこまでも恨みをはらそうとし、それに対し、どこまでも逃げて行こうとする人が出て来るものだからです。いまヨーロッパには難民が押し寄せてきていますが、ヨーロッパに着く前に不幸にも地中海で水死してしまった人がすでに千人を超えているようです。難民問題が起こったことに対して欧米に責任がないとは言えないわけですから、こうなってくると、キリスト教世界と言われるヨーロッパでも死者の恨みを鎮めるためにお祓いもどきのことが行われるのではないかと私は想像しています。本来、互いに祝福すべき人と人との間が崩れてしまい、それが行き着くところまで行ってしまったら、人の命が奪われるということも起こるでしょう。そういう事態にあたって、人は呪いやら祟りやらを鎮めようとすることしか出来ないものです。実際、呪いとか祟りとかいうことに比べて、祝福というのはリアリティが少ないかもしれません。「あの人は私の幸せを祝福してくれたけど、心の中ではどう思っているかわからない」としか思えなければ、喜びも半減してしまいます。しかし、そういう人間たちに対して、主イエスはまことの祝福を与えられました。聖書を通して、私たちにみこころを語って下さる神は決して、人間を呪ったり、祟りを起こすような神ではありません。人間は数え切れない罪と失敗を犯していますが、それにもかかわらず、祝福して下さる神がおられるのです。 先に、祝福するという言葉が原文では「良い言葉を語る」という意味があることを申しました。今日のところで、祝福するという言葉が、イエス様が手を上げて祝福されたというところと、祝福しながら…、というところと2回出てきますが、実はあと1回あるのです。…まあ、わからなくても無理もありません。53節の最後は「神をほめたたえていた」となっています。弟子や仲間たちがたえず神殿の境内にいて、神様の救いのみわざをほめたたえていたのですが、この「ほめたたえる」という言葉が、原文ではなんと「祝福する」と同じ言葉を使っているのです。 日本語とギリシャ語では言語の構造が全く違うので、こういうこともあるのでしょう。良い言葉を語る、という意味では、イエス様の口から出る言葉も、弟子や仲間たちの口から出る言葉も変わりありません。神が人間たちに良い言葉を語って下されば、それは祝福して下さるということになるのです。逆に、人間が神に対して良い言葉を語れば、それは神を「ほめたたえる」ことになるのです。…ただ、イエス様が下の者を祝福するのはわかりますが、下の者が上の者を、こともあろうにイエス様を祝福するというのは日本語としては変ですから、翻訳する時は「ほめたたえていた」となったわけです。
そこにいたのはみな、主イエスの十字架の死に、人生のすべてが音を立てて崩れてしまったような、たいへんな衝撃を受けた人たちでした。また、その肝心な時に何も出来ないで、逃げたり、裏切りを働いたために、後悔の念にさいなまれている人たちでした。神の前に、自分は無用の人間だと思っていた可能性もあります。しかし、イエス様の祝福を受けることによって、彼らは神の前にそれぞれ一人の人間としてのみならず、祝福を受くべき人間として認められたわけですね。これは大変なことだったのです。この恵みにあずかった人々は、口々に喜びの声をあげたことでしょう。これがそのまま神をほめたたえる言葉になりました。「神様がたたえらえますように。私を神様の前に一人の人間として認めて頂き、有難うございます。私も、私自身の存在を喜んで受け入れます。もう自分を卑しめたりしません。どうか永遠に主と共におらせて下さい。あなたの御用のために私を用いて下さい」と。 イエス・キリストは天に上げられました。主イエスがどのようして天に上げられたかはわかりません。空高く昇っていったように想像されることが多いのですが、別の形だったかもしれません。私もわからないので、これ以上触れません。…この時、そこにいた人たちはイエス様を伏し拝みました。伏し拝むとは言うまでもなく礼拝することです。これは福音書のあちこちに出てきそうな言葉ですが、ルカ福音書ではここが初めての登場となります。つまり、彼らはこれまでイエス様と一緒に行動してはいたものの、イエス様を礼拝することはなかったようです。復活されたイエス様が天に昇られ、神と人間の間が祝福によって結ばれることによって初めて、本当の信仰が始まり、イエス様が礼拝を受ける対象となったものと思われます。 初めに申した通り、これは人々とイエス様との別れの場面ですが、みんな涙を流すどころか大喜びでありました。
たとえ、生きている間にもう二度とイエス様に会えなかったとしても、イエス様と自分たちが祝福し、ほめたたえる関係になったということにまさる喜びはなかったのです。 イエス様を礼拝した人たちはエルサレムに帰り、たえず神殿の境内にいて、神をほめたたえていました。こうして十字架上で死んで、3日目に復活なさったイエス様を神として礼拝する集まりが誕生しました。厳密には、ペンテコステの日に聖霊が降りることによって初めて教会が誕生することになるのですが、ここにあるのは教会の原型、いわば教会が今にも産まれて来ようとしている卵のようなものでありましょう。 最後に問われるのは、私たちが語るべき言葉です。私たちは人を傷つけたり、恐れさせたり、いやな気持ちにさせる言葉を語るべきではありません。私たちは、人に喜びを与える言葉を告げる者とならなければなりません。もっとも、そんなことは、教会でなくても言われていることでしょう。そういうところと私たちが違っていることは、私たちが主イエスの祝福の中で語るということです。 普通の人間の集まりならば、主導権争いやら足の引っ張りあいはよくあることです。この人はこんなに偉くなっているのに自分は、ということで、恥ずかしくて人前に出れないこともあるかもしれません。教会にも人間と人間の間のさまざまな問題があります。しかし教会は復元力を持っています。教会がおかしくなってきたら、神がこれを矯正なさるのです。皆さん、どうか両手を上げて祝福して下さる主イエスのもとに集まりましょう。主のご支配のもとにいる時、私たちそれぞれがどれほど生きる世界が違っていたとしても、一方が大会社の社長で一方が何十年も病床で寝たきりの人であっても、ともに兄弟姉妹なのです。たとえどんなに苦しいところにいたとしても、神をほめたたえる言葉が口から出て来ます。そして、信仰によって、苦しみは最も良い形で解決へと導かれるのです。
主イエスの祝福のあるところ、教会の礼拝こそ、ここにいる私たちみんなの人生の中心でありますようにと願います。(祈り) 主イエス・キリストの父なる神様。今日は、主の弟子や仲間たちが、御祝福を受けて、この世にはない喜びに満たされて人生の再出発をしたことを、自分の人生と重ね合わせて聞くことが出来ました。イエス様は私たちの度重なる罪と背信にも関わらず、私たちを見捨てず、あまつさえ祝福して下さいます。もったいないことです。このことを思う時、私たちが目の前の悩みや苦しみに目を曇らされて、これほどの恵みをゴミ箱に投げ捨てるようなことなど絶対にありませんように、と強く願います。私たちがもしもイエス様に出会うことがなかったら、人生はどんなものになってしまったでしょうか。神様、どうかイエス様の祝福のみ手の中で、少しずつでも私たちが造り変えられ、聖(きよ)められてゆきますように。私たちの口が神様をたたえる言葉を語り、その言葉によって支えられ、厳しい人生を喜びをもって生きて行くことが出来ますように、お導き下さい。主の御名によって祈り願います。アーメン。
新しい年を迎えて 、youtube
ゼカリヤ13:7~9、ヨハネ16:29~33 2016.1.3
主の年、2016年が始まりました。おめでとうございます。この新しい年を、神様の確かなお導きとお支えのもと、礼拝を中心に、皆さんとご一緒に重荷を担いつつ、希望と喜びをもって歩み始めたいと願っております。 広島長束教会の小会では毎年、その年の主題聖句というものを定めていますが、2016年の聖句として選ばれたのが、ヨハネによる福音書16章33節の中の言葉です。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」…昨年の主題聖句は、「主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい」で、これとよく似ているのですが、たいへん力強い言葉です。私たちの教会の小会がこの聖句を選んだ理由は、皆さんだいたいお察しのことと思います。自分自身や家族のことから、広島長束教会、日本の国、国際情勢や地球の将来に至るまで、解決困難な難しい問題が次から次へと起こってくる中で、イエス・キリストの勝利にあずかり、それでもって難局を打開したいという願いが込められているのです。 主イエスが弟子たちに、「勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と言って励まされたのは、最後の晩餐の時です。これはイスカリオテのユダがその場を出て行ったあとになります。主イエスは告別説教と言われる長い説教をなさいますが、その中でのことでありました。 皆さんは、イエス様が「わたしは既に世に勝っている」と言われて、世に対する勝利を宣言されたことをその通り、信じて受け入れることが出来ますか。これは、人々にののしられ、恥ずかしめられ、十字架につけられて死に給うた方が、実は勝利者であられるということです。人間の罪がどれほどすさまじいものであっても、死がすべての希望を奪い取ってしまうように見えても、それらすべてのものの上にイエス様が立っておられるということです。 私たちはすでに、十字架上で殺されたイエス様が、死を打ち破って復活されたことを教えられています。ですから、イエス様が復活なされた以上、最後の晩餐の席で勝利宣言されたのも当然だということにはなるでしょう。でも、復活というのはなかなか信じがたいことでありまして、イエス様の弟子たちでさえなかなか信じられなかったくらいですから、まして私たちが復活の光のもとでイエス様の勝利宣言を信じて、受け入れるのは簡単なことではないでしょう。 考えてみると、イエス様の勝利というのは、何という不思議な勝利なのでしょうか。これは人間のあらゆる常識を超えています。どんな分野においても、勝利を目指す人間というのは、ライバルを蹴落として行くことが多いわけです。そして勝利すれば得意になって、自分を高く持ち上げ、そこまで達することの出来なかったほかの人を見下すというのは、よくあることです。
もっともその気持ちを露骨に出すと角が立つので、表向きは謙遜にふるまっていることが多いようです。 こういう人間一般の姿と比べた時、主イエスのなさったことは全く違っているわけです。普通の人間の目には、イエス様が切り開いていった道は、むしろ敗北に向かう道のようにも見えます。イエス様が進んで行かれた道の上には、私たちを脅かしているすべてのもの、罪と死を中心にありとあらゆるものが恐ろしい姿をさらしており、イエス様はその中で死なれたわけですから、それがどうして「わたしは既に世に勝っている」と言うことが出来るのでしょうか。 主イエスは、「あなたがたには世で苦難がある。しかし、…わたしは…」という言葉で、ご自分の勝利をもって弟子たちを励まされています。弟子たちは世で苦難を受けています。多かれ少なかれ、私たちキリストにつながれている者たちも、世で、すなわちこの世の中で苦難を体験していることでしょう。私たちもそれぞれ苦しみをかかえています。今はそんなことを少しも感じていない幸せな人であっても、この先どうなるかはわかりません。しかしイエス様の受けた苦難は、私たちはもちろん弟子たちの苦しみも凌駕しています。イエス様が体験されていない苦難はないほどで、イエス様が十字架にかけられたということは、この方が弟子たちが体験し、私たちも体験する、体の痛みから心の痛みを、激痛からうつ状態まで、徹底的に、比較を絶する重大な形で体験されたと言うことが出来るのです。イエス様の進まれた道はあらゆる苦難に覆われています。イエス様は苦しみなど体験する必要のない神のみ子でありながら、人間の体験するあらゆる苦しみを体験し、これとたたかわれました。ということは、イエス様のたたかいが人間の現実からかけ離れたものではないということですね。どんな人も、イエス様のたたかいは自分とは全く違う世界で起こったことだと言うことは出来ません。イエス様のたたかいは、人間の現実の中を、最も集中的に貫いて行われました。そして、そうであるならば、イエス様のたたかいの最終局面で告げられる勝利は、弟子たちの、そして私たちが直面する現実に対する勝利だということになりはしませんか。古来、競争相手を打ち倒して、頂点に立った英雄やら権力やら国家は無数にあったわけで、現在もあるのですが、そのことがもたらす結果が世界にどれほど影響を与えたとしても、神の御目にはコップの中の嵐にしか過ぎません。そのまま放置したら自滅してしまうだろう世界を言葉の真の意味で神のものとするためには、人間を作り変えなければなりません。そのためには人間の罪と死に対する勝利がなくてはなりません。その意味でイエス・キリストは十字架によって世界の現実、まわりまわって私たちも体験する現実、そこにある苦難にに対し、勝利されたと言うことが出来るのです。
そのことを弟子たちを通して見て行きましょう。この、16章33節のみことばは、14章からの告別説教のみならず、13章からの洗足、弟子たちのきれいとは言えない足を洗ったこと、最後の晩餐で起こったことなど一連の出来事の結びに当たる言葉です。たいへん長い、告別説教を聞いた弟子たちは感激して、29節で言いました。「今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません。あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。」これに対して主は、「今ようやく、信じるようになったのか」とお答えになります。これは単なる質問ではないですね。イエス様は弟子たちの信仰の弱さをわかっておられたのです。だから、そのすぐあとで、「だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。」と言われています。皆さんご存じのように、このあとわずかな時間ののちに、主イエスは逮捕され、弟子たちはちりぢりばらばらになります。「あなたがたが散らされて…」ということが本当に事実となってしまう。主はそのことを見通しておられました。弟子たちは、一度は「あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます」と言いました。その気持ちにうそはないでしょう。彼らは、自分では心からイエス様を信じて信仰を告白したと思っていたはずです。しかし、イエス様に言わせれば、今信じていても、時が来ればみんなちりぢりばらばらになってしまう、そんな不十分な信仰でしかなかったのです。この少し前、イエス様がペトロに向かって、朝、鶏が鳴くまで、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろうと警告された時、ペトロはそんなこと決してありませんと答えたということがありました。結局、この通りになってしまうのです。これも同じようなことですね。弟子たちがイエス様を信じる信仰を告白する、それはそれで真剣な思いでなされたことは確かです。しかし彼らの信仰はわずか数時間の間に崩れてしまいます。その理由は何だったのでしょう。…こういうことが考えられます。…イエス様を見つめる時、自分自身の罪が明るみに出ないことはありません。もしも自分の罪の問題をなおざりにしてしまったら、信仰の深さは出て来ないのです。平たく申しますと、弟子たちはイエス様を神のもとから来た救い主だと信じてはいても、自分たちの罪を滅ぼすお方とまでは意識していなかったのではないか、そう思われるのです。イエス様の権威ある言葉や不思議なわざに驚嘆して、「先生、すごいですねえ。素晴らしいですねえ」ということはあったでしょうが、そこにとどまってはいけないのです。
本当にイエス様を知り、信じるという時、そこに自分の罪をざんげすることがなくてはなりません。イエス様はそのために来られたのですから。自分の罪を意識する、自分がどれほど神様から離れているかを知り、悔い改め、真剣に救いを求める。神と神が遣わして下さったイエス様以外に救いがないことを心に刻む、そのようになることで、人は少しずつ信仰において成長し、神から頂く本当の勇気と力を身につけます。…そういうことなしに、ただ自分のもちまえの力に頼って、「あなたが神のもとから来られたと、わたしは信じます」と言ったり、「死んでもイエス様のもとは離れません」と言っても、その結果は残念なことにしかならない、その例が弟子たちの失敗です。ですから、イエス様から同じように「勇気を出しなさい」と言われている私たちも、そこで、ただ気が強くなるよう求められているのではありません。聖書は、ヨハネ黙示録の21章8節に臆病な者は救われないことを書いています。臆病であるのは由々しきことでありまして、そんな人がいたらぜひとも強くなって頂きたいのですが、それは人間関係においてやたらに自分を強く押し出すようなことが求められているということではありません。神は、罪を滅ぼして下さるイエス様にならうことによって、人間が立ちあがることを求めておられるのです。 主イエスはまもなく、私たちの想像を絶する試練に直面されます。その時、主は、ご自分にいちばん近いはずの弟子たちにさえ捨てられて、ひとりきりになってしまわれます。しかし、それにもかかわらず、主はひとりではないのです。父なる神が共におられ、共にたたかって下さるからです。
「わたしは既に世に勝っている」とは、父なる神と一体になって、世に、すなわち罪で覆われた世界に勝っているということです。経済力や軍事力ではありません。神の愛と正義によってです。弟子たちは。イエス様に対する信仰を告白したものの、自分たちに巣くう罪を見逃し、そこから救われる道を求めることもなかったために、肝心かなめの時にイエス様の前から逃げ出すという大失敗をします。彼らはそのあと、自分たちはイエス様を裏切ってしまったという、後悔と恥ずかしさのあまり穴があったら入りたいような思いの中で、イエス様の言葉を思い出したのではないでしょうか。「あなたがたには世で苦難がある。」イエス様を信じる者が、イエス様に敵対するこの世から苦しめられるのは当然のことだ。「しかし、勇気を出しなさい。」これは、単なる気の強さではなく、罪を滅ぼされるイエス様にならって強くなることだ。「わたしは既に世に勝っている。」たった一人になっても、神様と共にたたかって勝つのだ、と。…このようにわかった結果、弟子たちはイエス様の死と復活ののち、本当の意味での勇者となって行くのです。私たちが、この弟子たちと同じように出来ないということはありません。広島長束教会は懸案だった会堂と牧師館の修復が終わったとはいえ、今年どんなことが起こるかわかりません。私たち自身にも何が起こるかわかりません。しかし、先のことを心配する必要はありません。新しい年を開いて下さったのが、主なる神であられるからです。世界の上にみこころを実現される神は、私たちにも本当の意味での勇気を出して、この厳しい時代を生き抜いて行くことを求めておられると思います。神のみこころに信頼して歩む、この一年でありまように。
(祈り)天の父なる神様。新しい年2016年が、あなたの導きの中で始められたことを心より感謝いたします。神様、この年が、世界と日本にとって平和な年でありますようにと、多くの人々の祈りに合わせて私たちもお願いいたします。どうか憎しみのあるところに愛を、絶望している人の心に希望を、飢えている人のところに食べ物を与えて下さい。神様、会堂と牧師館の修復を終え、新しく歩み始めた私たちの教会に希望と夢を与えて下さい。私たちの主イエスを信じる心をますます確かなものとして下さい。そのために、罪の恐ろしさとそれにもかかわらず罪に勝ち給うイエス様の偉大さを心に刻みつけ、私たちの道しるべとして下さい。教会に集う者たちが、たとえ何があってたとしても、互いに尊重しあい、助け合う、本当の聖徒の交わりが打ち立てられ、その中にいま教会から離れている人も帰ってきますように。こうしてキリストの愛がこの教会からさらに外に向かって、生きて働くのを見せて下さい。神様の前に貧しく、弱く、何のとりえもない私たちですが、神様には出来ないことはなく、この神様につながれていることを心の支えとし、また誇りとして、この年を歩んでゆきたいと思います。私たちとこの教会につながるすべての人を、この年、恵みをもってお導き下さい。この祈りを主イエス・キリストのみ名によってお捧げします。アーメン。
待ち望んだ瞬間youtube
詩編42:2~7a、ルカ2:21~38 2015.12.27
今年最後の礼拝となりました。広島長束教会では、19日の子どもクリスマスや20日のクリスマス礼拝などが恵みのうちに終わりました。世間では、クリスマスは終わった、さあお正月だとすっかり頭を切り替えてしまう人も多いのですが、しかし私たちにとってクリスマスはまだ終わってはいません。だから急いでクリスマスツリーなどを片付けることはしませんでした。クリスマスのお祝いは終わってしまったのではなく、実に始まったばかりです。イエス・キリストはお生まれになりました。一年を振り返るとき、年末にクリスマスがあって、クリスマスの光を通してその年を顧みることができるのはキリスト者の特権です。皆さんそれぞれ、悲喜こもごものこの一年を送られたわけですが、しかし、どんな一年をおくった人にも、もれなくクリスマスの恵みが与えられているのです。イエス・キリストがお生まれになったという、希望の光の中で、私たちはこの年を終えることが出来るのです。 生まれたばかりのイエス様を両親がつれてエルサレムの神殿に行ったとき、シメオンとアンナという二人の年取った信仰者に迎えられた、それがきょうのお話です。私はシメオンとアンナの話もクリスマス物語に含めるべきだと思っています。…クリスマスページェントなどで、お生まれになったイエス様のもとに羊飼いや占星術の学者たちが次々に訪ねてくるわけですが、羊飼いはおそらくみな若い人たちでしょうし、学者たちも、たとえ若くはなかったとしても、遠い国からはるばる旅をしてくるだけの体力はあったわけですから、これだとクリスマスが比較的若くて、元気で働ける人たちだけのお祝いの日になりかねません。そこに老人は見えないのです。しかし、これでは公平を欠くと思われたのか、神はここに老人を登場させて下さったのです。シメオンにしてもアンナにしても、イエス様がベツレヘムでお生まれになったと知ったとしたら、そこまで行ってお祝いしたい気持ちはあったのではないでしょうか。けれども自分から訪ねてゆくのは体力的にまず不可能です。だから、神様が引き合わせて神殿で対面するようにさせたのでしょう。…クリスマスページェントなどで、羊飼いと学者に加えてシメオンとアンナも登場させることは、現実には難しいでしょうが、私たちとしては、この二人がイエス様を迎えたことを忘れてはなりません。
イエス様がお生まれになったあとのことを順に述べてみましょう。まず、その日の内に羊飼いたちが訪ねてきました。そのあと東の国の学者たちが来たのですが、その時期がどのあたりになるのはわかりません「八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた」。イエスという名前には「神は救いである」という意味があり、ヘブライ語に直すとヨシュアとなります。救い主にもっともふさわしい名前ですが、特別な名前ではなく、当時同じ名前の人もたくさんいたようです。イエス様の誕生から40日が過ぎました。律法の規定によれば、母親は男の子を生んで40日間は、これを清めの期間として守らなければなりません(レビ12章)。今の言葉で言うと出産休暇で、その期間が終わったときエルサレムの神殿に行きました。「両親はその子を主に献げるために」と書いてありますが、これはこの子がすでに神のものであることを認めるということです。この時の献げ物は本来なら小羊一匹が必要なのですが、貧しくてこれを用意することが出来ない場合、山鳩一つがいか、家鳩の雛2羽を献げることが認められていました(レビ12:8)。この家族が質素な生活をしていたことがうかがえます。両親に抱かれて宮もうでをした乳飲み子のイエス様がどんなに大切なお方かと言うことを、神殿で働いている祭司たちは誰も気がつきませんでした。しかしこの時、境内に入ってきた人がいました。25節:「エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた」。
皆さんは、シメオンという人は何か近づきがたい、偉い人で、やはり祭司か何かではないかと思ってはいませんか。でも、聖書をよくご覧下さい。この人は祭司でも何でもありません。職業的な宗教家ではなく、皆さんと同じ一人の信仰者なのです。この人が、幼な子イエス様を腕に抱き、神様をたたえて素晴らしい祈りをささげました。「主よ、今こそあなたは、お言葉通り、この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです」。シメオンは老人でありました。「今こそあなたは、この僕を安らかに去らせてくださいます」と書いてあるからです。彼は「神様、私はもうここで死んでも満足です。この目であなたの救い、イエス様を見たからです」と言っているのです。作家の三浦綾子さんは、「人間は最後に死ぬという仕事が残っている」と言いました。どんな人にとっても、死を迎えるのは簡単なことではありません。死に直面した人を苦しめるさまざまな悩み、苦しみがありますが、中でも「果たして自分の人生に意味があったか」というのはたいへんな問題でありましょう。
もしも死を前にして、自分がこの世に生まれた意味もわからないまま、時間切れになったからとしぶしぶ世を去っていくことしか出来ないのだとしたら、そこには希望がありません。しかし今、老人シメオンは、これとは正反対の人として登場します。シメオンはすでに「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない」というお告げを受けていました。これはすなわち、死ぬ前にメシアに会うことが出来るということでありまして、彼はこのことを信じ、希望をいだいて老いの日々を過ごしてきたのです。神の約束に絶対的な信頼を寄せながら生きてきて、今その実現を見ることが出来た、このことがシメオンにこの世にはない平安をもたらしています。私たちは、すでに救い主がどなたであるかを示されました。イエス・キリストが私たちすべてに、意味のある人生を与えて下さっています。だから、イエス様に出会い、この方を救い主と信じてなお、私たちが望みを持たないほかの人のようにしか生きられないようであってはなりません。 ところでシメオンは、幼な子イエス様に会って喜びの言葉を語ったすぐあと、34節でそれと正反対のような言葉を語っています。「シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。『御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。――あなた自身も剣で刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです』」。ここではイエス・キリストが多くの人から反対されて十字架にかけられること、そして母マリアが息子の死を見なければならないことが予告されています。主イエスが与えて下さる救いは、このようにたいへんな影響を呼び起こすものであるのです。それはイエス様を前にして、人の心にある思いがはっきりとあらわれるからです。誰もイエス様に対して、あいまいな態度を取ることは出来ません。この方が本当に救い主キリストであるのか、それとも歴史上最大のペテン師なのか、二つに一つでその中間はありません。この方を信じる人はどこまでも従ってゆきますが、反対する人はどこまでも反対します。そのために争いが起こるでしょう。反対する人はついにイエス様を手にかけ、母マリアは胸の張り裂ける思いをしなければなりません。私たちは、シメオンのその言葉が祝福の言葉であることに注意したいと思うのです。仮にシメオンが、この子は将来出世しますよと言ったら両親は喜んだかもしれませんが、それが本当の祝福でしょうか。イエス様の場合、この方が真理そのものであり、この方を邪魔に思う多くの人から反対を受け、命まで奪われるのだということが両親への祝福の言葉でなければなりません。
シメオンがイエス様の生涯をこのように見通すことが出来たのは、聖霊が彼にとどまっていたからです。神が示して下さらなければ、その言葉が出るはずはありません。イエス様のご生涯は、シメオンが予言したように悲劇的なものとなりました。しかしそれにもかかわらず、いやそれゆえにこそ、この方の誕生は世界にとっての祝福であり、ヨセフとマリアにとっても祝福となったのです。 さてもう一人の主役、アンナについてもくわしく語りたいのですが時間が少なくなってしまいました。この人だけ取り上げても一回説教が出来るほど豊かな内容がつまっています。アンナは「非常に年を取っていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、夫に死に別れ、八十四歳になっていた」と書いてあります。私は、元気なお年寄りを見ていると、84歳で非常に年を取っているとは思えないのですが。…実は「八十四歳」というところは「八十四年」と訳すことも出来ます。84年やもめ暮らしをしているとなると何歳でしょうか。結婚した年齢をかりに当時の慣習に従い15歳として、七年結婚生活をし、そのあと84年を加えますと15足す7足す84で106歳になります。これですと、非常に年を取っているということで納得出来ますね。いずれにしても、「彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていた」のです。お年寄りですから、いったん神殿の境内に入ったらどこにも動かないでお祈りしていたということなのかもしれません。アンナが非常に年を取っていたということは、なんでも若いことを良しとするこの世の基準からははずれています。確かにどれだけの仕事をこなし、何を生み出したかと、生産性を基準として考えますと、アンナは明らかに失格です。
しかし、神様はそれとは違うところから人間を見ておられるのです。アンナは乳飲み子のイエス様に会って、そのあと人々にイエス様のことを話したということですが、どのように語ったのか、その話を人々がどのように受けとめたのか、わかりません。少なくとも84歳、もしかしたら百歳を越えていたかもしれないアンナおばあさんが話し始めた時、みんなが耳を傾けて聞いていたら良いのですが、もしかしたら「また始まった」、「口を開けば同じことばかり」という反応しか返ってこなかったかもしれないのです。私はここで1954年に天に召された、出雲今市教会の会員、石田ハルさんという方のことを思い出しました。笹森修牧師の回想によれば、この方は信仰を持ってから25年、人と会うたびに信仰に入るようにと、道ばたであろうとどこであろうと、相手が判ろうが判るまいがただ一筋に説き明かしていたという…この方にしても、アンナにしても、一生懸命したことが目に見える結果を生んだかどうか、わかりません。…しかし、神はご覧になっておられるのです。
今日のところから私たちは、信仰生活には終わりがないことが教えられます。年を重ねてゆくことは災いではないのです。体のあちこちが故障し、昔は出来たことがだんだん出来なくなっていっても、だからといって人としての価値がなくなって行くわけでありません。クリスマスの光は、年老いた人たちの上にも注がれているのです。
シメオンとアンナはイエス・キリストの到来を何年も何年も待ち続けました。けれども、私たちにはもうその必要はありません。イエス様はお生まれになりました。すでにこの目で神様から与えられる救いを見た私たちが、生涯の最後まで神に仕え、信仰をまっとうすることが出来ますようにと願います。
(祈り)
天の父なる神様。神様はこの一年、広島長束教会に恵みをたまい、私たちを守って下さいました。難しい問題や悲しい出来事もありましたが、神様のお支えがなくなることはありませんでした。特に、懸案だった会堂と牧師館の修復がほぼ終わり、信仰生活の拠り所が確保されたことを思う時、感謝の言葉が自然に口から出てくるのを覚えます。
こうしてきょう私たちは、年末の感謝礼拝を行うことが出来ました。クリスマスの光のもとで、一年の喜びも悲しみもみな、神様の前での私たちの成長のために役立てられたことの幸せを感謝いたします。
神様。私たちはいまシメオンとアンナの人生にふれることが出来ました。この時の二人は、年を取っていましても輝きに満ちていたことでしょう。私たちもそれぞれ、年ごとに老いゆく者でありますが、どうかこの二人のように神様が共にいまして、祈りと賛美の内に人生をまっとうすることが出来ますようにと、お願いいたします。
神様、いま私たちが生きる小さな社会から日本、そして世界まで、争いや困難な問題が山積しています。今年も良い年ではなかったとしか思えない人もいれば、なんの蓄えもなく年を越さなければならない人々もおりますが、誰もが希望をもって一年を見送り、新しい年を迎えることが出来るように、この厳しい現実の中で輝く神様の光を輝かせて下さい。そのために私たちのすべきことも示して下さい。
私たち皆が、本当の平安のうちにこの年を終えることが出来ますように。今日の礼拝を感謝し、この祈りを主イエス・キリストのみ名によってお捧げいたします。アーメン。
羊飼いたちのクリスマス 「クリスマス家族礼拝」
イザヤ9:1~5、ルカ2:8~20 2015.12.20
今年も、こうして皆さんと一緒に教会でクリスマスの礼拝が出来ることを感謝いたします。いま広島の街に出てみると、クリスマスシーズンで盛り上がっていますね。華やかなイルミネーションが輝き、クリスマスソングが流れ、サンタクロースが愛嬌をふりまいています。神様を信じている人にとっても、そうでない人にとっても、クリスマスは楽しい時でしょう。でも、本当のクリスマスは、教会でなければ体験することは出来ません。今日は世界でいちばん最初のクリスマスについて、お話ししましょう。 今から2000年ほど前、日本から遠く離れたユダヤの国でのことです。都のエルサレムから南に7キロほどのところに、ベツレヘムという小さな町があって、そこにヨセフとマリアという若い夫婦が来ていました。マリアさんは子供が生まれそうになっていました。困ったことに病院もなく、どこの宿屋も満室でいっぱい、やっと入れたのが家畜小屋で、その中で赤ちゃんが生まれたのです。この家族のことを気にかけていた人はほとんど誰もいませんでした。ちょうど同じころ、ベツレヘムの郊外で、羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていました。狼が来て羊をさらってしまっては困るので、眠るわけにはいきません。その時間、たいていの人は眠っていました。やはり羊飼いたちのことを気にかけていた人など誰もいませんでした。羊飼いは、昼も夜も羊のために働きます。動物が相手の仕事では、この日は休みたいと思ってもそうは出来ません。羊飼いの仕事は誰かがやらなくてはならない大切な仕事ですが、そのような人がみんなから重んじられているとは言えません。街灯もネオンサインもない真っ暗な中、夜通し火をたいて羊の番をしていた羊飼いたちは、さびしかったでしょう。しかし、この人たちにイエス様誕生のニュースがもたらされたのです。皆さんは何かとても嬉しい出来事が起こったとしたら、そのことをまず誰に知らせますか。自分の一番大切に思っている人でしょう。…神様はイエス様がお生まれになったとき、その知らせを王様でも大臣でもなく、まっ先に羊飼いたちにお告げになりました。こういう普通の人たちこそ、神様が愛してやまない人たちだったからです。でも、それは羊飼いたちにとって腰を抜かすような出来事でした。聖書には、天使が現れて、主の栄光が周りを照らしたので、羊飼いたちは非常に恐れたと書いてあります。栄光というのは、神様のまばゆいばかりの輝きです。
羊飼いたちは神様を目の当たりにしたので、怖くてふるえてしまったのです。皆さん、ここでちょっと想像してみて下さい。皆さんが夜、一人で墓場の中を歩いていたとします。誰かがトントンと肩を叩きました。振り返ってみましたが誰もいない、こんなことがあったら怖いですね、そこにいたのは妖怪かもしれません。でも、どんな化け物だって怖がって逃げ出してしまうのが神様です。神様より強いお方はないからです。……この羊飼いたちは、闇夜の中でいきなり神様と向き合ったので、恐れたのです。神様の前にまともに立っておられる人など誰もおりません。神様は、人間のすべてをお見通しだからです。 しかし天使は告げました。「恐れるな」と。神様は羊飼いたちを滅ぼすために現れたのではありません。その反対です。天使は「今日あなたがたのために救い主がお生まれになった」と告げました。救い主とは神のみ子イエス様、イエス様がお生まれになった日がクリスマスなのです。天使の言葉が終わるやいなや、空の上では神様を賛美する大合唱が始まりました。このとき地の上は不気味なほど静かだったのですが、これとは反対に天は喜びにわきかえっていたのです。 天使たちが去っていって再び静かになったとき、羊飼いたちはすぐに行動を開始しました。「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」。そうして、ベツレヘムの町に行って、幼な子イエス様を探しあてたのです。そこは立派なお屋敷でもなんでもなく、家畜小屋でした。…皆さんの中には、もしかしたら貧乏で、ボロボロの家に住んでいる人がおられるかもしれません。でも家畜小屋で、牛や馬の間で生まれたという人はいないでしょう。そんな汚いところでイエス様はお生まれになりました。…すべての人のための救い主となるために、イエス様は天から降りてきて、人間の世界の中でもいちばん低い所でお生まれになったのです。羊飼いたちは、天使が告げてくれたことがそこにそのまま起こっているのを見て、イエス様を救い主と信じました。…すると嬉しくて嬉しくて、喜びを押さえることが出来なくなりました。あふれあがる喜びをどうしても人に伝えたくなったのです。みんな、通りに飛び出すと、こんなふうに、まわりの人たちに話したのだと思います。「救い主がお生まれになったんだ。本当だよ。おれたちはこの目で見たんだ」と。これを聞いた人たちは皆、不思議に思いました。「いったい何が起こったんだ」とか、「この騒ぎは何だ」と思ったのでしょうが、羊飼いたちはかまわず語り続けました。…羊飼いたちを見ていると、まるで、空のかなたの大合唱がその場に移ってきたようではありませんか。それまで、この人たちは人前で神様のことを話すことなどまるでなかったのです。
でも今、恥ずかしがることもなく、神様のなさった素晴らしい出来事を大胆に語っているのです。クリスマスの出来事は神様から人に、そして人から人へと伝わってゆくのです。静まりかえっていたベツレヘムの町に、イエス様が誕生されたというにぎやかな声が響き渡りました。その声は、時と場所を超えて、いま私たちの前にも聞こえているのです。 世界で一番最初のクリスマスの日に、羊飼いたちはただ赤ちゃんのイエス様を見ただけではありません。この赤ちゃんを通して、目に見えない神様のみこころを知ったのです。……神様はお金持ちや偉い人たちだけの神様ではない、まさに自分たち羊飼いにとっても神様なのだということがその一つでしょう。でも、それだけではありません。神様がこの世界についに救い主を送って下さったのです。それは神様が、世界とそこに生きる人間を何よりも大切に思い、愛して下さっているからです。今日ここに来られた皆さんも、どうかこの羊飼いたちと一緒に神様を賛美することが出来ますように。もちろん誰も赤ちゃんのイエス様に会ったわけではありません。でも「イエス様がお生まれになった。この方こそ世界の救い主です」と言うことは出来ると思うのです。……二千年前にお生まれになったイエス様が、今度は皆さんの心の中にも生まれて来ますように、と願っています。 (祈り)天の父なる神様。いま世界中の教会がクリスマスをお祝いしています。私たち広島長束教会も、世界の人々と一緒に、きょうのこの良き日を喜び、心からの感謝と賛美の思いをお捧げいたします。2000年前、すべての民に与えられる大きな喜びが与えられました。暗い世界の中に、神様のおられる天からの光が照り輝いたのです。ここでお生まれになったイエス様を通らないで、世界が救われることはありません。2015年はまもなく終わろうとしています。今年は戦争やテロ、そして難民の問題で世界が大きく揺れた年でした。日本の国も大きな不安をかかえています。暗闇はまだ世界から取り払われてはいません。神様、だからこそイエス様の栄光をさらに強く輝かせて下さい。特に疲れている人、寂しい人、生きていても何の良いこともないと思っている人に、あの羊飼いたちが受けたような幸せを与えて下さい。平和な世界への歩みを始めさせて下さい。こうして誰もが、喜んで「クリスマスおめでとう」と言うことが出来ますように。イエス様のみ名によって、この祈りをお捧げいたします。アーメン。
マリアの讃歌youtube
詩編147:1~11、ルカ1:39~56 2015.12.13
2015年の待降節にあたって、ルカによる福音書をご一緒に読み、みことばの意味を尋ねながら礼拝しております。先週の日曜日は、おとめマリアへの受胎告知について学びました。「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」と告げられたマリアは、あまりのことに初めは全く信じられなかったのですが、やがて「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」とみごとな信仰の告白をするに至りました。 受胎告知を受けてマリアがしたことがきょうのお話です。「そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した」。…マリアが訪ねていった山里のユダの町というのは、エルサレムの西6キロの地点にあるエンカレムという場所だとされています。今でも静かな里です。マリアはナザレの町から急いで来ましたが、そこまで直線距離だけでおよそ100キロはあります。マリアはいったいなぜユダの町まで行こうとしたのでしょうか。聖書には何も書いてないので確かなことは言えませんが、もしかしたら、ヨセフと一緒になる前に妊娠するということが不安で、近隣の人の目を避けて身を隠したいということがあったのかもしれません。ただ直接的には、1章36節の天使の言葉があったのでしょう。天使は告げました。「あなたの親類のエリサベトも、年を取っているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない」。エリサベトはマリアの親類でした。エリサベトと夫ザカリアの間には子供がなく、二人とも年を取っていたのですが、神は二人に子供を授けて下さったというのです。…マリアが天使の言葉を疑っていたわけではありません。堅く信じたのですが、それを確かめたかったのです。神から祝福された人に会いたかったのです。…マリアは結果的にエリサベトのところに三か月ほど滞在しました。高齢出産となるエリサベトを気遣い、身のまわりの世話をしたのでしょう。ここで、一つ確かなことがあります。ナザレの町を出てゆく時、不安でいっぱいだったかもしれないマリアが、ユダの町に着いてエリサベトに会った時は喜びを分かち合うまでになっていたのです。 女性にとって自分の体に子供を宿し、そこに新しいいのちの芽生えを体験するということは、大きな喜びにちがいありません。…出産が近づいてきたエリサベツのところに、六か月遅れで妊娠したマリアが訪ねて挨拶したとき、この二人だけでなく、エリサベトの胎内の子供も喜んでおどりました。二人の女性、それに胎児を含めて4人の姿には、神の祝福を受けた者の幸いがあふれています。
エリサベトは聖霊に満たされ、声高らかにマリアを迎えました。その中で「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」という言葉はとても印象的です。これは「幸いなるかな、信じた者よ」というように訳すことも出来ます。……マリア、あなたは幸せです。なぜか、あなたは信じることが出来たから。信仰を持っているから。…なぜ信仰を持っていたら幸いなのでしょう。それは、神様があなたに約束されたことを必ず実現して下さるから……と言うのです。 二人の女性が会うというのは平凡な出来事かもしれません。しかしそこには神の約束を受け取った人間がおり、それと共に新しいことが始まっているのです。…山里も人々の暮らしも前と変わらないように見えます。しかし、古い世界は新しい世界に変わりつつあります。皆さんはここに現れた情景から、何か思い描くことはありませんか。そうです。これは教会の姿なのです。昔から多くの人たちがマリアとエリサベトの中に理想の教会の姿を見てきました。…私たちは毎日曜日、教会に来て互いに挨拶をかわします。同じ挨拶でも、教会の内と外ではちがいます。あなたは神様から恵みを受けています、私も恵みを受けてここに来ました。神様の言葉を信じることが出来るあなたは幸せですね、私も幸せです。私たちに語られた神様の言葉は必ず実現します。おめでとう。……広島長束教会がそのような教会でありますように。 エリサベトの言葉を受け取ったとき、マリアの口から思わず賛美の声が出ました。エリサベトに会うまではそんなことはなかったのに、エリサベトに会い、祝福の言葉を聞いたとたん、その口からほとばしり出たのでした。これが「マリアの賛歌」と呼ばれるものです。マリアはこう歌い始めました。 「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです」。マリアの賛歌は、ヨーロッパではマグニフィカートと呼ばれます。これは「わたしの魂は主をあがめ」の中の「あがめる」という言葉が、ラテン語訳の聖書でマグニフィカートと言い、それが冒頭に出ているためにそう言われるようになったのです。マグニフィカートとは、本来「大きくする」という意味を持っています。そこから、この歌の主題が神を大きくすることであることがわかります。自分を大きくではありません。神を大きくするのです。…ですから、ここではマリアがたたえられている歌ではありません。マリアによって神がほめたたえられているのです。マリアは主なる神、救い主である神を賛美します。なぜなら、神はこの自分に目を留めて下さったからです。偉大な神は、偉い人にしか顔を向けて下さら
ないと思っていたのにナザレの村娘である自分に目を留めて下さった、そう言って驚いているのです。 「今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう」。 これはマリアが得意満面になって、自分の幸せを歌っているのではありません。もしも、そんなことなら、このあと「その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます」とは言わなかったでしょう。マリアは自分の幸せを自慢しているのではありません。自分が選ばれたことは、身分の低い人にとっての勝利であると言っているのです。 マリアの賛歌の中には「憐れみ」という言葉が2回出てきます。一つが50節の「その憐れみは代々に限りなく」です。これは48節の「身分の低い、この主のはしためにも、目を留めてくださった」ということからつながっていて、自分に与えられた幸せが、神を恐れる人々に、時代を超えて与えられていくことを信じて賛美する言葉です。…もう一つが54節の「その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません」です。神は憐れみをお忘れにならず、神のしもべであるイスラエルの民を救い上げて下さるのです。このようにマリアの賛歌は神の憐れみを歌っています。神から見放されても文句の言えない、数も少なく力も弱い民を神はお忘れにならなかった。そのためにこの自分を選んで下さった、自分のお腹の中でいま神のみ子が大きくなってゆく、…なんと驚くべきことでしょう。神の憐れみほど素晴らしいものはない、……と言うのです。もしも神がこの世で大きな力を持っている国を愛し、絶大な権力を持っている人を尊ぶならば、小さくて力の弱いユダヤ人など選ばなかっただろうし、ましてただの村娘のマリアを神の子の母親とはしなかったでしょう。…人間の思いもしなかったことが起きています。それこそ神の偉大さの現われです。マリアに現われた恵みはエリサベトにも現われました。そしてマリアと同じように身分が低く、貧しく、しかし主を畏れるすべての人に注がれるのです。 神のそのなさりようを、私たちは狭い範囲で考えてはなりません。51節から53節まで、マリアはこれから始まる神様の、救いの歴史を見ています。「主はその腕で力を振るい」、神こそが世界の歴史を支配する方なのです。この方の支配するところ、そこでは「思い上がる者を打ち散らし、権力あるものをその座から引き降ろす」……、それが神様の統治のありようです。人間が財産の多いことにより頼み、神に逆らっておごり高ぶったり、権力に酔ってしまうなら、神は彼らを引きずり落とされます。世界の支配者としてのこの働きは揺るぐことなく進み、すべてのものをその前にひざまづかせます。おごり高ぶる者はとかく自分の支配が永遠に続くように思うものですが。神の前にその支配はつかの間のことにしかすぎません。
そればかりか「身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たす」のです。神は貧しく、身分の低いマリアに目を留めて下さることによって、この世の中の貧しく、低い層の人々を愛していることを示されたのです。この神の愛は、世界の歴史をも作り変えずにはおきません。ただそんなことを言いますと、もしかしたらびっくりされる方がおられるかもしれません。ある教会の婦人会で、私がマリアの賛歌について話した時です。神は貧しい者を引き上げ、富んだ人をひきずりおとすと言ったら、出席者の中でたいそうびっくりした人がいまして、「私たちは、マリアの賛歌は革命歌ではないと教わってきました」と言うのです。…どうも、「この牧師は過激な思想を持っているんじゃないか」と警戒されたようで、言葉には気をつけなければならないと思わされた次第です。マリアの賛歌が思い上がる者、権力ある者、富んでいる者に対するさばきの歌であり、この人たちの権威をひっくり返す歌であるのは確かです。そこには社会の矛盾とか経済的な格差に対する怒りがあり、これと闘う人の勝利が歌われています。しかしこの歌が、私たちがふつうに考える革命歌とは違うことを見逃してはなりません。…1789年にフランス革命が起こって以来、世界はいくつもの革命を経験してきましたが、そこでは、社会がひっくりかえって、それまで虐げられてきた人たちが権力を掌握した結果、今度はかつて自分たちを虐げた人々に対して同じように虐げるということがよくありました。しかしマリアはそんなことを賛美しているのではありません。 神は、これはイエス・キリストはと言っても同じことですが、思い上がる者、権力ある者、富んでいる者に厳しい目を向け、彼らが頼みにしていたものを打ち砕いてしまわれますが、そのことによって自分自身の中に自分を救
いうるものは何一つないことを彼らに知らしめるのです。それは、この人たちを突き放すことではありません。…たとえば、かの有名なナポレオンは、すべての地位と権力を失ってセントヘレナ島に流されたあと、自分は全ヨーロッパを征服したがキリストにはかなわない、と言ったそうです。ナポレオンの軍隊がもしも敗北することがなかったなら、彼はこのような境地には達しなかったでしょう。……思い上がる者、権力ある者、富んでいる者への厳しいまなざしも神の憐れみの表れです。彼らが失墜した時、本当の人生が始まるのです。…神はまた、身分の低い者や飢えた人が何をしても良いと言っているのではありません。 こうしてマリアは、神の驚くべきみわざをたたえつつ、神の救いの歴史のはじめに帰ってきます。「その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません、わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」かつて神はイスラエル民族の祖先アブラハムに対して、「地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る」(創22:18)と約束されました。あなたの子孫とは、ほかでもないイエス様のことです。ですから地上の諸国民、すなわち世界中の人間がイエス様によって神の祝福を得るのです。もちろん私たちもです。神はご自分が約束されたことを果たすために、み子を地上に送り出された、そのために自分が選ばれたと知った、マリアの喜びはいかばかりであったでしょうか。マリアを通していま偉大なことが始まろうとしています。マリアの勝利は主を畏れる者の勝利です。どうか私たちもその喜びの中に加えられますように。私たちも神がおっしゃったことは必ず実現すると信じ、神を喜びたたえながらイエス様をお迎えしたいと思います。それがクリスマスなのです。
(祈り)教会のかしらなる神様。2000年前の暗い世界の中で、神様はマリアとエリサベトという二人の女性の出会いの中に、世界を救うビジョンを見せて下さいました。この時の二人のように、私たち主を信じる者たちがお互いに出会う時に、神の恵みを喜びあうことが出来ますように。たとえふだん苦しみや悩みをかかえていたとしても、神様こそ賛美を受けるにふさわしいただ一人のお方であられ、私たちを悩ませる苦しみや悩みを喜びに変えて下さる方だからです。マリアに現れた神様が私たちと共におられ、とうといみこころを実現させて下さいます。このことを覚え、神様にまっすぐに従いつつ、クリスマスに向かってのひとすじの道を歩いてゆきたいと思います。どうか私たちを幼な子イエス様のところまで導いて下さい。この祈りを主イエスのみ名によってお聞きあげ下さい。アーメン。
おめでとう、恵まれた方youtube
イザヤ30:19~20、ルカ1:26~38
2015.12.6
先週に引き続き、イエス・キリストご降誕にまつわるお話をいたしましょう。 聖書の世界では、ガリラヤというのは都エルサレムから遠く離れたへんぴな土地で、ガリラヤの人間には田舎者というイメージがあったようです。そしてナザレの町も、聖書の中でナタナエルという人が「ナザレから何か良いものが出るだろうか」(ヨハネ1:46)と言っていたほど、どうってことのない町でした。近年ナザレで発掘調査が行われたところ、狭いところだったので、その面積から見て学者は、当時この町には多く見積もって480人が住んでいたと言っています。 きょうのお話は、この町に住む娘マリアのもとに天使ガブリエルが現れた話で、一般に受胎告知として知られています。天使はマリアの前に来ると、いきなりこう言うのです。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」 マリアはたいそう驚いたことでしょう。天使が現れたのですから当然といえば当然ですが、しかしそれよりも、天使の言葉自体に驚かされたものと思われます。「マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ」と、書いてあるからです。天使はすかさず、たたみかけるようにマリアに語りかけます。「恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名づけなさい。」 これは、なんともひどい話です。どこをどう繕ったら「おめでとう」と言うことが出来るのでしょうか。…天使は「恐れることはない」と言います。でもマリアにとってこれほど恐ろしい話はないのです。マリアはこの時、ヨセフと婚約していましたが、まだ一緒にはなってはいません。天使のお告げは、結婚の祝いの日を心躍らせながら待っていた乙女の夢を粉々に打ち砕いてしまうような内容だったのです。 その理由は第一に、女性が男性と一体になることなしに身ごもるというのが、考えられないことだからです。……マリアが「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」と言ったのは当然です。……しかし、天使は言います。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む」と。私たちは礼拝のたびに、使徒信条の「主は聖霊によってやどり、おとめマリアから生まれ」と唱えていますが、まさにそのことですね。当事者のマリアにとっては信じられないことでありました。
第二の理由は生まれてくる子がふつうの子どもではないということです。マリアは高い身分の女性でも、またお金持ちでもないでしょう。たとえ常識では考えられない状況で子供を授かるとしても、その子が特別な子供であることを望んだとは思えません。天使は、その子が将来偉くなるなどと言ったのではありません。その程度の話ではありません。聖なる者、神の子と呼ばれるというのです。自分の子が聖なる者で神の子だとは、どんな母親だって信じられることではありません。 さらに、差し迫った問題があります。婚約中の女性が妊娠して、しかも子供の父親が婚約者でないというのは、今でも穏やかなことではありませんが、当時の社会では今以上に大変なことでした。人口480人の村では隠し事はたちまち広まってしまうでしょう。その結果がどうなるかというと、申命記22章23節の規定によれば、密通した男も女も、一緒に石打ちの刑に処せられなければならないほどの重大事だったのです。マリアにとって身に覚えがないこととはいえ、天使が告げたことは世間から見れば掟破りであり、大変な罪と見なされることが確実な出来事でした。 マリアは自分の身に大変なことがふりかかったことを知りましたが、その時、まだマリアには知らされていないもう一つのことがありました。生まれてくる子供の人生のことです。その人生は誕生の時から波乱万丈のものでしたが、それから約30年ののち、十字架にかけられて死ぬことでマリアは剣で心を刺し貫かれる思いをさせられることになるのです。これがどうしておめでたいことなのでしょうか。 しかも、天使はマリアの意向を打診しにきたわけではないのです。「神様が御子を誕生させるにあたりまして、あなたの胎を用いたいとおっしゃるのですが、よろしいでしょうか?」そんなことを天使は尋ねていません。もうすでに天において決定されたことを告げるために、天使は来たのです。 マリアは、先ほど申したように、高い身分の女性でもお金持ちでもありません。カトリック教会が想像しているような美しい女性だったかどうかはご想像にお任せします。聖書からは、マリアはイエス様を産んだのち、少なくとも6人の子供を産んだことが明らかなので(マルコ6:3)、たくましい女性ではあったでしょう。この日マリアは天使の説得を受け入れた結果、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と答えることになりました。彼女のこの態度は、古来、神が与えられた定めに従順に従う人の姿であり、信仰者の模範だとして、たたえられてきたものです。 それでは、初め「どうして、そのようなことがありえましょうか」と言っていたマリアが、最後にどうして「お言葉どおり、この身になりますように」と言うことが出来たのでしょうか。彼女は何の葛藤もなく、スーッと流れるように気持ちを変えたのでしょうか。
…もしもマリアの心が、まるで水が上から下に流れ落ちるように、ほとんど抵抗という抵抗もなく変わっていったのだとしたら、たしかに従順な信仰者の模範的な姿だ、となるのかもしれません。しかし、もしもそうであるならば、私たちがマリアから学ぶべきものはほとんどなくなってしまうでしょう。なぜなら私たち一人ひとりは、すべてのことを簡単に「お言葉どおり」とか「みこころのままに」などとは言えないままで生きているからです。……もしもマリアが、天使の言葉をなんにも迷うことなく受け入れたのだとすれば、それは確かに模範的であるかもしれませんが、私たちにとって彼女はあまりにも遠い存在になってしまうのです。 そこで、私たちはマリアの心中をさらに深く見つめることにいたしましょう。マリアの前には、誰もが逃げ出したくなる状況が待ちかまえています。とてもじゃないけど無理なのです。「どうしてそんなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」という言葉にあらわれているのは、「不思議に思っています」という程度の軽いものではありません。明らかに戸惑っており、そんなことがあるものですかという天使の言葉への拒否反応が見えています。 結論から申しますと、マリアが何のためらいも迷いもなく神様のなさることをすべて受け入れたとはとても申せません。マリアがそんな完全無欠な優等生だったわけではありません。…その証拠に、その後のマリアについて福音書にこんな話が載っています。イエス様が伝道を始められた時、マリアはイエス様の弟たちと一緒に来て、イエス様を取り押さえようとしました(マルコ3:21、32)。それまで家族として一緒に生活していたイエス様のことで「あの男は気が変になっている」という噂を聞いて、家に連れ戻そうとしたのです。そこからもわかる通り、マリアは私たちにとって近づきがたい完璧な女性ではなくて、むしろ私たちと同じ普通の人間だったのです。「おめでとう、恵まれた方」という言葉に続いて告げられた、やがて救い主となられる子供の懐妊という出来事は、マリアにとって、心から喜べるものではなかったはずですが、彼女はそれを最終的に受け入れました。それは心の葛藤が全くない模範的信仰者の「お言葉どおり……」ではなく、心の中に不安や恐れをかかえながらの「お言葉どおり……」であったでしょう。不安や恐れ、逃げ出したくなるような気持ちをかかえつつ、それでも「お言葉どおり、この身に成りますように」とつぶやくことが出来た、そこにマリアの信仰があるのです。では、心に迷いを残したままのマリアに後世まで語り継がれる言葉を発せしめたのはいったい何だったのでしょう。そこには、親類のエリサベトが年を取っていたにもかかわらず身ごもったことから、神にできないことは何一つないことを知ったことがあったでしょう。ただ、神がいくら全能の神であられたとしても、自分を見ていて下さらなければなんにもなりません。
マリアを立ち上がらせたのは、天使の口から出た、「主があなたと共におられる」という言葉でありました。…神の言葉の前にしり込みして、「ほかの人ではなくなぜ私に……」と叫ぶしかない魂に、勇気をもって一歩を踏みだす力を与えてくれるのは、「主があなたと共におられる」ということです。マリアはこれを悟ったことによって不安と恐れの中でも平安を見出し、新しい恵みにあずかり、神のみこころを受けとめてそれに応えようとする思いに導かれたのです。 私たち一人ひとりの人生はもちろんマリアの人生とは違います。しかし、自分の思った通りにはならないということでは共通しているのではないでしょうか。みんなそれぞれ、何歳の時はこういうことをして、という人生の計画を立てていたとしても、その通りになることはなかなかありません。思いもよらないことが起こって、望んでもいない重荷を負わされるということもあるでしょう。…そんな時、誰かが前もってやって来て、「あなたの身にこれからこういう大変なことが起こりますが、お引き受けになりますか」などと尋ねてくることはありません。…人生の荒波は、本人の意向を問うこともなく、一方的に与えられるものです。皆さんの中にも、自分にはまことにつらい人生が定められていると思っている人がいるかもしれません。実際に天使が現れることはなくても、「あなたは生きている間、苦労ばかりするようになっている」と言われているようなものです。そのように考えてゆきますと、聞き捨てならないのは天使ガブリエルの言葉です。天使はよりによって、「おめでとう、恵まれた方」と言ったのです。皆さんはどう思われますか、天使が「あなたはヨセフと結婚して幸せな家庭を築くことになりますよ」というお告げを携えてきて、「おめでとう、恵まれた方」と言うならわかります、しかし天使は、マリアが思い描いていただろうささやかな夢を全部ぶちこわしにするような事を携えてきて、「おめでとう、恵まれた方」と言ったのです。…もっとも天使は、冗談を言っているのでも、皮肉を言っているのでもありません。
そして実際はどうだったでしょうか。マリアは不幸で、みじめな人生を送ったのでしょうか。たしかにマリアはヨセフと一緒になる前に妊娠し、結婚は危機にさらされることになります。赤ん坊が生まれた時、出産する場所がないばかりか、ヘロデ王がその子をなきものとしようとしたために、家族がみんなエジプトにまで逃亡しなければなりませんでした。苦難はそれからも続き、マリアは息子のイエス様がかけられた十字架のもとにたたずむことになるのです。マリアの人生は苦しみに満ちています。しかしそれにもかかわらず、マリアが不幸でみじめな人生を送ったのではありません。私たちはそのことを知っているのです。天使が大真面目に言った「おめでとう、恵まれた方」という言葉は、私たちに教えてくれています。苦しみがあることは、必ずしも不幸を意味しないということを。自分が望んだように人生が展開しないことは、必ずしも自分の人生が失敗だったことを意味しません。苦難に満ちた人生であったとしても、この世にはない喜びがあり、あとから振り返って「いい人生だった」と言うことが出来るのです。…そうなるかどうか、鍵となる大切なことは「主があなたと共におられる」ということです。これは、必要な時にすぐ願い事をかなえてくれる神様がいるということではありません。マリアの前に示されたのは、そんな神様ではありません。そうではありません。大切なことは、主なる神が私の、あなたの、人生を用いて下さるということです。人間の能力には大小の違いがありますが、何か大きなことをしたわけでもなく、ほとんど誰にも問題にされないようなつつましい人生を送る人であっても、主なる神が用いて下さるなら、その人生は祝福されているのです。たとえ苦しみが多かったとしてもです。「おめでとう、恵まれた方」、マリアに向けて言われた言葉は、私たちみんなにも言われているのです。この時、「お言葉どおり、この身になりますように」と答えることが出来るでしょうか。
(祈り) 恵みをもって私たちを導き、支えて下さいます神様。待降節第二主日の礼拝を心から感謝申し上げます。 クリスマスが近づいてきますと、町のよそおいも華やかになり、なにか浮き浮きした気持ちになってきます。しかしその前に、人から後ろ指をさされ、石打ちの刑を受けることになったかもしれなかったマリアの思いを自分の思いとすることが出来ますように。神様は、ご自分がマリアと共におられ、マリアの人生を用いて下さることを示して下さいました。だからマリアは不安と恐れの中にあっても、「おめでとう、恵まれた方」という言葉を受け入れ、「お言葉どおり、この身に成りますように」と言うことが出来たのです。 神様、こうしてマリアの胎に宿ったイエス様がお生まれになる喜びがすべての人の上にありますように願います。日本の外では戦争や貧困のために悲惨な暮らしを強いられている人々がいます。この国の中でも、自分は神様に見放されていると思っている人がいます。しかし神様が助けることの出来ないどんな悩みも苦しみもないはずです。どうか苦しみ悩む世界の上に、神様の御子がおいでになったことをもう一度知らしめて下さい。この祈りを主イエスのみ名によって、み前にお捧げします。アーメン。
神は我々と共におられるyoutube
イザヤ7:1~17、マタイ1:18~23 2015.11.29
今日から待降節、アドヴェントが始まります。待降節は11月30日に近い日曜日から始まり、4回の日曜日をへて12月25日のクリスマスに至る期間です。……まもなく神のみ子がお生まれになります。待降節の今、私たちがイエス様をお迎えするために心を清めて、ととのえることが出来ますように。 約2000年前にベツレヘムでお生まれになった神のみ子は、ヨセフとマリアの子として育てられましたが、その誕生が尋常なものでなかったことは皆さんご存じの通りです。マタイ福音書に書いてあるように、マリアとヨセフは婚約していましたが、二人が一緒になる前にマリアが妊娠してしまって、悩むヨセフの前に天使が現れて命じました。「ダビデの子ヨセフよ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産むが。その子をイエスと名づけなさい」。 マタイ福音書はこのあと、「このすべてのことが起こったのは、主の預言者を通して言われていたことが実現するためであった」として、旧約聖書の言葉を引用しています。「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」 インマヌエルというのは、私たちはこれが大事な言葉であることは知っていても、そのいわれについてはあまり知らないように思います。これは旧約聖書でどういう状況の中で語られ、そしてそれがどうしてイエス様に結びつくことになったのかということをご一緒に考えてみましょう。 旧約聖書でインマヌエルという言葉が出てくるのはイザヤ書7章14節です。「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」これは預言者イザヤがユダの王アハズに語った言葉の中にあります。 そこに出てくる出来事が起こったのは、紀元前734年頃と考えられています。当時、イスラエル民族には統一国家がなく、北のイスラエルと南のユダの二つに分裂していました。北のイスラエル王国はここではエフライムとも呼ばれており、首都はサマリアです。一方、南のユダ王国の首都はエルサレム、預言者イザヤはエルサレムを中心に活動していました。北の方に行くとアラムという国がありました。アラムの東には今のイラクを本拠地とする、その時代における超大国アッシリアが君臨していました。この国はその強大な力を、西へ西へと伸ばしてパレスチナにまで及ぼそうとしていました。 中国から来た言葉で合従連衡というのがあります。大国の脅威の前に小国は団結して立ち向かおうとするのに対し、大国の方ではその団結を切り崩そうとするという意味で
使われています。古代の中近東でもそういうことがありまた。大国アッシリアの圧倒的脅威の前に小国は座して死を待つわけには行きません。そこでまず北王国イスラエルとアラムが手を結びました。この2国はさらに、南のユダに対してもこれに参加することを求め、三国同盟を築きあげようとしたのです。小国が生き延びるためには、当然のことのように思われます。 ところが、ユダ王国はその誘いに乗りませんでした。その理由というのが聖書にはっきり書いてないので、よくわからないのですが、ユダとイスラル・アラムは互いに信頼出来ない関係だったようです。ユダにとって、同盟に加わらないという政治判断が正しかったのかどうかということは歴史家にお任せることとして、アッシリアの脅威が刻一刻と迫ってきているアラムとイスラエルにとってみればユダは裏切り者であり、決して許せないわけですね。そこで、アラムの王レツィンとイスラエルの王、レマルヤの子であるペカがエルサレムを攻めるために上ってきたのです。…6節では、アラムが、イスラエルと共に、ユダのアハズ王に対して陰謀をめぐらしたことが書いてあります。ユダに攻め上って自分たちに従わせ、アハズのかわりにタベアルの子という人物を王にしょうと言っていますが、これがアラムとイスラエルの目的だったのです。…では戦いの実際はどうであったのか。アラム・イスラエル連合軍はエルサレムに攻撃をしかけることは出来なかったというのですが、アラムとイスラエルが同盟を結び、いま両軍がエルサレムのすぐそばにいるわけですから、絶体絶命の状況だったわけです。ユダの間では、ダビデの家、すなわちユダ王国の王家から、一般の民衆まで、みな恐怖にふるえていました。この時、主なる神は預言者イザヤに、息子を伴ってアハズ王に会うことを命じられたのです。 今日の聖書の箇所はなかなか複雑なので、皆さんは謎解きをするような思いで聞いて頂きたいと思います。ここでまず頭に入れておきたいことはアハズについてです。この王については、歴代誌下28章の初めに、彼は「主の目にかなう正しいことを行わなかった」と書いてあり、またバアルの神の像を作ったとか、自分の子に火の中を通らせたと書いてあって、信仰をないがしろにし、本当の神に背いた王であったわけです。亡国の危機が迫りよる中で、アハズは王として決断しなければなりませんでしたが、そこで出した結論というのは、列王記下16章7節を見ると、こともあろうに超大国アッシリアと手を結ぶ、ということでした。彼はアッシリアの王のもとに使者を遣わして言わせました。「わたしはあなたの僕、あなたの子です。どうか上って来て、わたしに立ち向かうアラムの王とイスラエルの王の手から、わたしを救い出してください。」隣国に攻められているといっても、だからと言って超大国の前にひれ伏すことが本当に彼のなすべきことだったのでしょうか。
このあたり、昨今の、日本の防衛をめぐる論議を連想させます。神はユダがアッシリアに膝を屈することに反対であられました。そういうこともあって、不信仰な、どうしようもない王ではありましたが、イザヤによっていさめたものと考えられます。神はイザヤを通して、王に「落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない」と告げます。これは、ただの気休めではありません。その根拠の一つは、アラムの王もイスラエルの王も燃え残ってくすぶる切り株にすぎず、彼らの企ては実現しないという冷静な分析です。…さらに「恐れることはない」と言われるお方は、これまで神の民、イスラエル民族を守り、導いて下さった神にほかならないということでありまして、不信仰なアハズ王に、神に立ち返ることを求めているのです。9節:「信じなければ、あなたがたは確かにされない。」神のみことばは、人間がもはやどうにも出来ない時に力を発揮するのです。しかしこの時、アハズは神に呼びかけに答えなかったものと思われます。なぜなら彼の中には、神に信頼するよりも、超大国アッシリアに助けを求め、その力によって今の状態を打破しようという思いがあったからです。そこで、神は再びアハズに告げて言われました。「しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に。」ここで神は、ご自身がユダの民とともにおり、彼らを守っておられることのしるし、証拠となるものを求めてみなさい、と言われるのです。それが深く陰府の方に、あるいは高く天の方に、と言うのは、今アハズがいる世界とは異なる次元に真の解決を探れ、ということです。神はそのしるしを与えて、王と民を励まそうとされていたのです。 しるしを求めることは、あまり好ましいことではありません。たとえば「もしも神がおられるなら、飢えた人々のために、この石をパンに変えて下さい」と祈ったら、それは不信仰とされるでしょう。しかし、この場合、なかなか神を信じることが出来ないアハズのために、神はしるしを求めることをお許しになったのです。それは神の憐みなのです。 では、これに対してアハズはなんと答えましたか。「わたしは求めない。主を試すようなことはしない。」これはいっけん、いかにも信仰的な答えのように見えます。しかし実態はこれと全く逆なのです。神様が「求めなさい」と言われたら求めることが信仰です。それに従わないのは、いくら美辞麗句を弄しても不信仰な態度と言わざるをえません。アハズの中には、神を求めてもむだだという思いがありました、このような危機的な状況を打破するためには、神ではなく、軍事力や経済力という具体的な対策が必要で、それはアッシリアに頼ることでしか得られないと思っていたのです。このような思いは私たちにもよくあることではないでしょうか。口では神様に信頼していると言いながら、実際には神様を信頼せず、この世の力に頼るほかないと思うのです。
アハズの煮え切らない態度は、人間だけでなく神に対してももどかしい思いをさせるものでした。そこで、ついに神が御自ら、一つのしるしを与えられました。それが、おとめが身ごもって男の子を産む、その名を「インマヌエル」と呼ばれるということです。これが有名なインマヌエル預言でありまして、マタイはこの箇所を引用して、インマヌエルとは神が我々と共におられるということで、これこそイエス様のご降誕によって実現したと書いたのです。 しかし皆さんは、ここまで聞いてきてすっかり納得されたでしょうか。さらにわからなくなった人もおられるかもしれません。それもそのはず、まず、おとめが身ごもることが常識では考えられません。また16節に「その子が災いを退け、幸いを選ぶことを知る前に、あなたの恐れる二人の王の領土は必ず捨てられる」と書いてますが、イザヤ書では、その子供はどう見ても近い将来に生まれます。それが、700年後に来られるイエス様とどうして結びつくのかと言われたら、答えようがないのです。ここは昔から、非常に難解な箇所だと言われてきました。 そこで、苦し紛れの説明と受け取られることを覚悟して、お話しいたします。神がアハズ王とその国に与えられるしるしとは、救いに関することです。いまユダの国は、アラムとイスラエルの前におびえて、超大国アッシリアに頼ろうかということになっているのですが、神はアラムとイスラエルを恐れるな、これらはやがて倒れるのだかたということで、アッシリアに頼らず、ただ神を仰いで生きろと言っているわけですね。そのしるしが子供の誕生なのです。 イザヤ書の8章には、おとめからの誕生ではありませんが、子供の誕生が記されています。8章3節:わたし、これはイザヤですね、わたしが女預言者に近づいた。彼女が身ごもって男の子を産むと、主はわたしに言われた。「この子にマヘル・シャラル・ハシュ・バズという名をつけなさい。この子がお父さん、お母さんと言えるようになる前に、ダマスコからはその富が、サマリアからはその戦利品が、アッシリアの王の前に運び去られる。」 何か、7章でインマヌエルについて言われたことと似ていませんか。イザヤと女預言者の間に生まれた息子がものごころがつく前に、ダマスコつまりアラム、サマリアつまりイスラエルがアッシリアの前に敗北するというのです。
アラムとイスラエルの敗北は、ユダにとって救いであったのですが、アラムは紀元前732年に、イスラエルは722年にそれぞれアッシリアに滅ぼされることで、それが実現するのです。アハズ王が願っていたことが実現します。…女預言者は若い女性であるということでおとめに分類されたのかもしれません。処女降誕は起こっていませんが、子供の誕生がしるしにはなっているのです。 しかし、アラムとイスラエルの敗北は本当の意味での救いではありませんでした。アハズ王は、ユダを脅かす両国の滅亡を救いだと思っていたのでしょうが、本当の危機はそのあとに来たからです。今度は、アッシリアがユダを攻めよせてきたのです。アッシリアなど信じてはいけなかったことが明らかになります。超大国に頼れば安全だと考えた、そのもくろみはすっかりはずれ、ユダの国はさらなる苦しみにあえぐことになるのです。ですから、預言者イザヤの新しい息子の誕生は、しるしとしては不十分なものであったのです。箴言29章25節に「人は恐怖の罠にかかる。主を信頼する者は高い所に置かれる」とあります。人を恐れると罠にかかるものです。問題が解決したと思っても、次の瞬間にはそれが原因で、もっとたいへんな問題が起きてくるのです。本当の解決は人にはありません。人となってお生まれになった神、イエス・キリストにあるのです。 マタイ福音書を見ると、インマヌエルであるイエス様、「神は我々と共におられる」ことをその人生すべてをもって現して下さった方が、人間たちと最後まで共にいて下さることがわかります。マタイ福音書の一番最後、28章20節でイエス様はこう約束しておられます。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」 アハズ王はユダが亡国の危機にあった時、いつ自分の国に刃を向けてくるかわからない超大国ではなく、共にいて下さる神にこそ心を捧げなければならなかったのです。神のこのみこころは、当時生まれたイザヤの息子によっても部分的に現されたのかもしれませんが、約700年という長い年月のあとに誕生されたイエス・キリストによって、この世界に完全な形で示され、現れたのです。
だからもしも私たちがアハズ王のように、神を第一とせずこの世の大きな力に頼るならば、それは人間と神にもどかしい思いをさせるだけでなく、きわめて大きな危険を誘い込んでしまうことでしょう。神が共におられるということは、神が共に戦って下さることなのです。私たちそれぞれの人生の戦いは、神の戦いであることを覚えて下さい。
(祈り)主イエス・キリストの父なる御神様。待降節第一礼拝の恵みを感謝いたします。インマヌエル、神は我々と共におられる、このことほど私たちにとって心強いことはありません。人間は人間の力だけで救われることはないのです。神様が人間となられ、人間の罪の身代わりとして十字架にかかって、罪を滅ぼすことなしには、人間にとっての救いはありません。このことを何よりご存じの神様が、愛する御子の地上への派遣という大変な痛みを伴う決断をなして下さったことを思い、神様に賛美と感謝を捧げるものです。どうかきょうから始まる待降節の間、私たちの心を清め、イエス様を迎えるにふさわしいものとして下さい。 激しく移り変わる世の中にあって、広島長束教会が神様と悩める人間とをつなぐ役割を果たし、多くの人たちに信仰に生きる喜びを伝える教会であり続けますように。神様のさらなる恵みをお願いいたします。この祈りをとうとき主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。
遠くにいます神、近くにいます神youtube
ヨブ35:1~15、使徒17:26~28 2015.11.22
ヨブ記のきょうの箇所を読んで、皆さんはどう感じられたでしょうか。なんかわかりにくいなあと思われた方も多かったと思います。それもそのはず、エリフの議論はこみいっている上に、矛盾しているところがあって、彼がそれまでに主張していたことからもそれて行っているように思われるからです。そのことをちょっと頭に入れた上で、ここでのテーマとなっている、神とは人間にとってどういうお方なのかという大問題を見てゆくことにしましょう。 エリフは前の34章のところで、こう言ってヨブを説得しました。「神には過ちなど、決してない。全能者には不正など、決してない」と。神様には間違いなどあるはずがない。ヨブ、あなたは畏れ多くも神様のなさることにもの申すのか、ということですね。 しかし苦しみの中であえぐヨブに、エリフの言葉が届くとは到底思えません。「どうして神様はわたしの正しさを認め下さらないのですか」、「こんなに一生懸命祈っているのに、神様はどうして私の問いかけに応えて下さらないのですか」、…これがヨブの言っていることだったのですが、エリフにとってみると、それは神様を冒涜しているようにしか見えなかったのです。 ここから35章に入ります。「『神はわたしを正しいとしてくださるはずだ』とあなたは言っているが、あなたのこの考えは正当だろうか。またあなたは言う。『わたしが過ちを犯したとしても、あなたに何の利益があり、わたしにどれほどの得があるのか。』」この中で、2節の言葉については特に説明の必要はないでしょう。3節ですが新共同訳では要領を得ません。日本語になっていませんね。…いろいろな翻訳を見ましたが、ほとんどこの調子で何を言いたいのかよくわかりません。それだけ原文が難しいのですが、ただ、リビングバイブルは日本語としてわかるものになっていました。…「わしは罪を犯していない。だからといって、神様の前で立場がよくなるわけではない。」と。…新共同訳は「わたしが過ちを犯したとしても」、リビングバイブルは「わしは罪を犯していない」、訳が正反対になってややこしいのですが、ここで確実に言えることがあります。一つは、これはエリフが解釈したヨブの言葉だということです。もう一つは、これが大事なのですが、人間が善であったり悪であったりすることが神様とどういう関係にあるかということが問題になっているのです。私は調べてみましたが、エリフが言った通りの言葉をヨブが言っているのではありません。ただ14章の初めに出ている発言は、ここに結びつくものかもしれません。
そこでヨブは、人間の命がいかにはかないものかを示し、神に向かって叫んでいます。「あなたが御目を開いて見ておられるのは、このような者なのです。このようなわたしをあなたに対して、裁きの座に引き出されるのですか。」 ヨブはここで、人間はカゲロウのように弱い、はかない存在にすぎないのだから、神様はただ放っておけば良いではないですか、なのになぜ私に特別に目をつけて、これほど過酷な苦しみにあわせるのですか、と言っているのです。…ここをヒントにエリフの3節の言葉を解釈してみましょう。そうすると、「ヨブは言っている。私が過ちを犯したとしても、それが神様にとってどうだというんです?」…繰り返しますが、これはあくまでもエリフから見たヨブの姿です。…悪人ヨブは神様になぜ自分を狙い撃ちされるのかと言っている。ほっといてくれたら良いじゃないかと。これはまことに不信仰な姿ではないか。…ここにおいてエリフは、神を遠くに遠くに追いやろうとしているヨブに反対しているのです。 ところが4節以降に読み進むと、エリフは自分が反対した考えを主張しているように見えるので、私たちはわからなくなってしまうのです。ここでエリフが主張した神というのは、人間からはるか遠く離れた神だと考えられます。 4節:「あなたに、また傍らにいる友人たちにわたしはひとこと言いたい。」エリフは、これから話す話は、ヨブだけでなく、ヨブの友人たちにも聞いてほしいのだと言うのですが、それには理由があります。 これまでヨブの友人たちは、因果応報の原理でもってヨブを黙らせようとしてきました。神は善人を恵み、悪人をこらしめられるということでもってヨブの苦しみを説明し、ヨブに悔い改めを迫ったわけですが、ヨブの方では自分は何も悪いことはしていないと言い張るので、ヨブを説得することが出来なかったのです。いま、そのヨブの友人たちにも聞いてほしいというのは、彼らが信じている因果応報の原理をも超えることを、エリフが主張したかったからなのだと考えられます。 エリフはまず「天を仰ぎ、よく見よ。頭上高く行く雲を眺めよ」という言葉で、神様が雲のように、いや雲をはるかに超えて高きにいます方なのだということを確認させています。その上で、「あなたが過ちを犯したとしても、神にとってどれほどのことだろうか。…あなたが正しくあっても、それで神に何かを与えることになり、神があなたの手から何かを受け取ることになるだろうか。」と言うのです。大事なことなので、エリフの言葉を注意して見て行きたいと思います。…エリフは、神様から見れば、アリのように小さな人間が罪を犯したところで、神様には痛くもかゆくもない。それは、善いことについても同じで、人間が正しくあっても、それで神様に影響を与えることはありえないのだと言っているようです。
エリフが言いたいのは、ヨブが過ちを犯していても、逆に正しくあっても、それはヨブ自身や他の人間に関わることであって、神様ご自身にとっては何ということもないのだ、ということです。それまでヨブは神との真剣な交わりを望んでいました。ヨブの友人たちにしても、善いことをすれば神様に喜ばれ、悪事を行えば神様を怒らせると考えていたわけですが、エリフは両者とも否定して、第三の考え方を提示しています。 ずいぶん乱暴な主張にも聞こえますが、エリフの考えはだいたいこんなところではないかと思われます。…「ヨブ、あなたは家族と全財産を失い、自分も重い病気になったことで、これを天下の一大事のように見做し、神様は間違っているだの、自分の祈りに応えてくれないなどと言うけれど、あなたはこの世界においてそんなに大した存在なのか」ということです。 たとえば子供が虫をつかまえて殺してしまうとか、のら猫が役所の人によってつかまえられて処分されてしまうということがあります。当の虫やのら猫の身になってみれば何ともむごいことですが、そんなことは人間の世界を揺るがす大事件とは言えません。神様と人間の関係もそうなのだ!ヨブが良いことをしようが悪事を働こうが、幸せになろうが残酷な定めを引き受けようが、神様にとってはどうでもよいようなことなのだ、ということです。 そこから、こういう結論が出て来ます。人間が正しくあっても悪くあっても、善いことを行っても悪事を行っても、それが神様に影響を与えるわけではないということです。…このことは、ヨブの友人たちが一生懸命に主張し、エリフも信じていたであろう因果応報論の土台を掘り崩すことになるでしょう。因果応報論では、神は善に対して善でもって報いて下さり、罪に対しては罰をもって報いられるわけですが、いまエリフが唱えている神というのは、人間が善を行おうが悪に走ろうがそれによって影響されない、ひとり高いところで鎮座まします神なのです。神と人間は格が違う!だから、そういうことになるのです。 これはこれで、たいへんな論議を呼びおこす考えです。ただ、エリフとしては神が人間に全く関わらないとまでは考えていないようです。 9節の「抑圧が激しくなれば人は叫び声をあげ、権力者の腕にひしがれて、助けを求める。」に始まるエリフの考えをまとめるとこうなるでしょう。…人間というのは、虐げられ、圧迫されると「神様、あんまりひどすぎます」と言って、訴える。…反対に何か善いことをすると、すぐに神様からのご褒美を期待する。実に勝手なもので、神様の身になって考えようとはしない。…誰も、神様がどこにおられるのか尋ねようとしない。神様は、万物が寝静まる夜の間も歌を送って下さるし、獣や鳥を通して神の知恵を授けようとされておられる。イエス様も空の鳥、野の花を見なさいと教えておられるではないか。
それなのに、みんな自分のことを神様に訴えるだけで、神様のみ声を聞こうともしない。そこに人間の不信仰があり、高慢なところがあるのだ、ということです。 12節:「だから、叫んでも答えてくださらないのだ。悪者が高慢にふるまうからだ。」そのような人間の勝手なお祈りに、神様がお答えになるはずがないではないか。…もちろん、これはヨブに対する批判として、言っているのです。 エリフから見て、ヨブのすべきことは一つしかありません。それが「あなたは神を見ることができないと言うが、あなたの訴えはみ前にある。あなたは神を待つべきなのだ。」…これはなかなか味わい深い言葉だと言えます。人間はとかく、神様はどこにおられるのだとか、神様は自分にひどいことばかりしていると思いがちですが、そうではない、神様はぜんぶご覧になっておられるのだ。だが、神様には神様のやり方がある。神様の時がある。人間が大声で叫んだからといって、神様が動いて下さるというものでもない。だから、あなたがすべきなのは神様のやり方を信じ、神様の時を待つことだけだ。…今はその時ではない。じっと待つべき時なのに、ヨブは無駄口をたたいている、…というわけなのです。 エリフの言葉の中にも一片の真理はあります。神様が自分の願いに応えて下さらないと不平不満を並べる前に、まず神の前に立っている小さな自分を弁え、沈黙して待つことの大切さというのは確かにあるのです。 しかしながら、エリフが思い描いた神というのはやはり本当の神とは微妙に違っています。神が高いところにいますことはその通りですが、それは神がひとり孤独の中に鎮座ましますということではありません。かりにエリフのような言葉ですべてが片づけられてしまえば、いま苦しみの中であえいでいる人には立つ瀬がないというものです。
そこで、エリフの言うことをもう一度検証してみましょう。神は、人間が過ちを犯していても、逆に正しくあっても、それがご自身に影響を及ぼすことはないのでしょうか。人間の世界に起こることを、まるで私たちが昆虫の世界で起こることを見ているように、見ておられるのでしょうか。ここで私たちはヨブ記の発端を思いだしましょう。神は地上を巡り歩いてきたサタンに向かって、「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている」と言って、自慢なさいました。これだけ見ても、神はエリフの言うような神ではないことがわかります。神は人間が正しくあって、悪を斥けることを求めておられます。「主を賛美するために民は創造された。」、これは詩編102編19節の言葉です。神は何より、人間が神と結びついて生きてゆくことを、命じ、また望んでおられます。そのために人間に許されていることの中心が礼拝であり、私たちはそこにおいて主なる神を賛美しているのです。神は、人間が宇宙船に乗ってもたどりつくことの出来ない高いところにおられます。しかし探し求めさえすれば見出すことが出来るようにして下さいました。そのことがイエス・キリストによって、私たちの前に現わされているわけです。キリストは、一匹の迷える小羊が見つかった時、あなたがたは喜ぶだろうという譬え話を用いて、ただ一人の人であっても神の元に戻ってくる時、天には大きな喜びがあるのだということを教えて下さいました。エリフはヨブに「あなたは神を待つべきなのだ」と言いましたが、彼が本当に神がヨブの前に現れることを信じていたのか、怪しいものです。しかし、それからほどなく、神はついにヨブの前に現れるなさることになります。遠くにいますと思っていた神が実は近くにおられる、それは私たちも過去に経験しているはずですし、今も、これからも起こることなのです。
(祈り)神様。いま、はるかかなたの天にいます神様が実は私たちのすぐ近くにおられる神様でもあられることを教えられました。これはたいへん心強いことでありますが、一方、たいへん畏れ多いことでもあります。神様は私たちが苦しんでいる時の避けどころになって助けて下さいますが、一方、私たちの罪を決して見逃されないお方でもあられるからです。安易に神様を呼び求める人が、いざその場に立ってみると逃げだしてしまうということもあるかもしれません。ですから神様、どうか私たちに神様を呼び求める思いと共に、へりくだって神様をお迎えすることのできる確かな信仰とをお与え下さい。神様、いま世界は大きく揺れています。フランスで起こったことが、憎しみと報復の連鎖を世界中に拡散しないよう、誰もが自分の中にしのびよろうとするサタンの声を見分け、これを斥けることが出来るように、神様の知恵と勇気を送って下さい。神様、ここにいる私たちのごく近いところにも、いつまで続くかわからない悲しみと苦しみがあります。祈っても祈っても状況が改善しない人とヨブの姿が重なって見えます。ただ、その人も神様に向かって無駄口をたたいているのではなく、祈りが足りないのでもなく、ましてその苦しみをその人の罪に対する罰だと言うことは出来ません。どうか教会全体が悲しむ人と共に悲しみ、喜ぶ人と共に喜び、神様の前に一つの心となって、神様から頂く愛と平和を分かち合うことが出来ますようにと、切にお願いいたします。主イエス・キリストのみ名によって、この祈りをお捧げします。アーメン。
主の復活の証人youtube
イザヤ26:1~6、ルカ24:44~49、 2015.11.15
十字架上で死んだイエス・キリストが復活され、弟子たちが集まっている前に初めてご自身を現わしたのが、前回の36節から43節までの場面でした。主が現れた瞬間、弟子たちはこれを亡霊だと思い、しかもそれが自分たちが裏切ったことで死に追いやってしまったイエス様であったので、恐れおののきました。しかし、この弟子たちに向かってイエス様は「あなたがたに平和があるように」という言葉で、ご自分が恨みをいだいて現れたのではないことを示して下さいました。また、手と足を見せ、魚を食べるというパフォーマンスを演じられることで、ご自分が化けて出て来たのではないということ、まさしく復活して現れたのだということを示して下さったのです。…弟子たちにとって、それは何という喜びの時だったでしょう。…ただ、主イエスの復活の話はこれで終わりになるのではありません。イエス様は、ここで弟子たちに大切なメッセージを持って来られたのです。 「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。」イエス様はすでにエルサレムからエマオに向かっていた二人の弟子に対しても、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、ご自分について書かれていたことを説明されていましたが、これと共通しています。旧約聖書は当時、三つの区分がされていました。第一が「モーセ」とか「律法」とか呼ばれるところ、創世記から申命記までですね。二番目が預言者と呼ばれるところ、イザヤ書からマラキ書に至る部分、三番目が、それ以外の「もろもろの書き物」と呼ばれる書物、その筆頭が詩編です。ですから、ここでイエス様は、ご自分について旧約聖書が語っていることはすべて実現する、と宣言されているのです。これまで起こったことがそうですし、これから先に起こることもそうです。…同時に、それは、「まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである」、すでに生前のイエス様が語っておられたことでもあったのです。続く45節では、「そしてイエスは聖書を悟らせるために」と書いてあります。ここで言う聖書は旧約聖書に限定されるのか、それとも当時成立していなかった新約聖書まで含めて言われているのかと考えると話がかなり複雑になってしまうので、私は単純に、旧新約聖書だと解釈して話を進めます。 主イエスの弟子たちに限らず、誰もが聖書を悟ることによって、聖書の中心であるイエス様に出あい、イエス様が与えて下さる救いを自分のいちばん大切なものとするのです。しかし聖書はただ人間の知恵によって理解し、悟ることが出来るようなものではありません。ちょうど紙とか木があっ
てもそれだけは燃えません、火がつけられなければ燃えないように、人間もイエス様から点火して頂かなければ聖書を悟ることが出来ません。そのことが「イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて」という言葉で、言われているのです。 皆さんにはこういう経験がありませんか。それまで何度も見たり、聞いたりしていたみことば、時には耳にタコが出来そうになって、もうそれはいいんだと思っていたみことばがある時、突然すーっと自分の心に入ってきて、その言葉が見せてくれる新しい世界に圧倒されるということが。そんな時、自分はいったい今まで何を知っていたのか、なぜこのことに気づかなかったのか、と思わされるのです。 聖書は神の言葉です。聖書は神の存在を否定する人であっても、これを読んで分析し、ここにはこう書いてあると言うことが出来ますが、本当のメッセージはわかりません。私たちであっても、心の目が閉ざされているままでは、そのメッセージは届かないのです。ですから私たちは、ただ自分の、限りある知恵で聖書を理解しようとするのではなく、主イエスが自分の心の目を開いて下さるようにと、上からの恵みを求めながら、聖書を読んでゆく必要があります。…ここで主イエスは弟子たちの心の目を開いて下さいました。これを通して、私たちの心の目も開かれてゆきますように。 復活された主イエスがここで言われたことを学びましょう。 まず、「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する』」を考えてみましょう。この言葉の元になったところが旧約聖書にもあるのですが、イエス様が生前語られた言葉から一つあげてみましょう。ルカ福音書の9章22節にこう書いてあります。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」 主イエスから直接これを聞いた弟子たちは、その時、信じることが出来ません。意味がわかりません。こわくて、イエス様に尋ねることも出来ませんでした。しかし今、これが事実となったのは明らかです。主イエスは「私の言った通りになっただろう」と再確認されているのです。 十字架について考えますと、イエス様が苦しみを受けて殺されることは、単なるハプニングだったとか、ことの成り行き上そうなってしまったというようなことではありません。それは旧約聖書の中ですでに預言され、また生前のイエス様の口から予告されたことでもあったのです。すなわち神の、人間にははかりがたい偉大なご計画に基づく出来事でありました。…三日目の復活も同じです。これも神が定め、聖書の中で語られ、予告されてきたことでありました。 私たちは聖書に書かれていることが、すでにその前に、やはり聖書で予告さ
れていたのだということを教えられても、ああそうですかで終わってしまうかもしれません。しかし当事者にとってはそうではなかったのです。いま自分が立ち会っている出来事がすでに神様のご計画の中にあったのだと知ることは、たいへんな驚きだったはずなんですね。…そこで、もしも私たちがこうしたことに目が開かれたなら、人生のおりおりの時に、自分は今こうしているが、これはすでに神様のご計画の中にあったことなのだと気づくはずなのです。聖書に書いてあることをこのように自分の人生に結びつけるのは決して飛躍しすぎではありません。 なお生前のイエス様はご自分のことをメシア、(救い主だ)とは言われていません。いつも「人の子は」と言っておられたのです。ペトロがイエス様を「あなたはメシア」と告白した時、イエス様はそのことを認めつつ、ご自分がメシアであることを誰にも話さないよう口止めされています。まだ、その時が来ていなかったからです。イエス様は復活されて初めて、ご自分がメシアであられることを世界の前で宣言されました。 主イエスの次のメッセージは47節の言葉です。「罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。」 ここに「その名によって」と言われていることに注目しましょう。イエス様の名によって罪の赦しが与えられます。ほかの誰の名前でもないのです。…本来私たちは自分の罪のために、死という定めを受け入れなくてはなりませんが、それだけでなく、死後に裁きを受け、罪びとにふさわしい罰を受けなければならない者たちでした。どんなに善良な人であってもそうなのです。そんな者たちに罪の赦しによる恵みを与えるために、イエス様は十字架にかけられ、身代わりの死をとげて下さいました。そして、そのことを神様が認めておられることを世界に示すために、復活されたのです。…イエス様がなされたことに基づいて、罪の赦しが与えられます。それが「その名によって」という言葉で表明されているのです。 ただし、この恵みを受けるためには条件があります。それが自分の罪を悔い改めることです。悔い改めとは、イエス・キリストを仰ぐことによってそれまで神に背を向けて歩いてきた自分の誤りを認め、神と共に歩む歩みを始めることにほかなりません。もともと人間にはそのための道が与えられていませんでした。しかし神は、十字架の死を遂げて下さったイエス・キリストに免じて、イエス様を信じ、ご自身のもとに立ち返る者を憐れみ、受け入れて下さるようになられたのです。これこそが福音です。これが宣べ伝えられます。エルサレムから始まって、世界のあらゆる国の人々に。 そのこともすでに神のご計画にあったことでした。全世界への福音宣教は、神が歴史の初めから予定されていたことでした。
たとえば神がアブラハムに語った言葉が創世記12章3節に出て来ます。「地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。」アブラハムの子孫、すなわちイエス・キリストによって全世界の人々が祝福されると言われるのです。 イエス様によって十字架と復活のみわざが成し遂げられたことは世界の歴史を決定づけたたいへんな出来事ですが、これで神のなさることが終わったわけではありません。いよいよこれから罪の赦しを得させる悔い改めが、イエス様の名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられます。そのことはルカ福音書の続編とも言うべき使徒言行録に記録されることになります。 この時、復活の主イエスは弟子たちに「あなたがたはこれらのことの証人である。」と言われました。全世界への福音宣教にあたって、神はこの弟子たちを用いられるのです。彼らは決して、素晴らしい能力とたぐいまれな人格を兼ね備えた人ではありません。何度も申し上げている通り、生前イエス様から何度もお叱りを受けたばかりか、いちばん大事な時にイエス様を裏切ってしまった者たちです。しかし、彼らこそがイエス様に最も近いところにいて、その十字架と復活の目撃証人となり、ほかの誰にも代えられない役割を果たすことになったのです。 福音が全世界に宣べ伝えられるという目的のために、弟子たちは都にとどまることが命じられます。「高いところからの力に覆われるまでは」、これはペンテコステの日に起こったこと、すなわち聖霊降臨の予告となっています。主イエスは天に昇り、そこから聖霊を遣わして、ご自分が勝ち取った恵みを世界に分配して下さいます。イエス様は、弟子たちを中心に始まった世界宣教のために、このようにして力を注いで下さるのです。 もっとも、弟子たちがここで主イエスが言われたことをどこまでわかっていたかという疑問も起こります。
特に、福音が「あらゆる国の人々に宣べ伝えられる」ということを、彼らがここで理解できたとはとても言えません。
そんなことは当時のユダヤ人にとって、想像もできないことだったからです。その証拠に、使徒言行録を見ると、福音宣教ははじめ彼らの同胞であるユダヤ人だけを対象に進められ、それがコルネリウスという人を筆頭に異邦人に広がって行くのですが、そこに至るまで、またそのあとも次々に大きな壁を乗り越えて行かなくてはならなかったのです。 弟子たちは、全世界への福音宣教を命じるイエス様の言葉を本当にわかったとは言えないように見えます。しかし、実際に伝道してゆく中で、その言葉通りに実践して行くのです。このようなことは私たちの人生にも起こります。神様が皆さんに命じられていることは何でしょう。それは、もしかしたら、自分には荷が重すぎると思われるかもしれません。神様の言われることをみんな聞くなって無理だと、初めから思っているかもしれません。しかし、いつのまにかそうなっているかもしれません。神は私たち一人ひとりより強いからです。 もちろん私たちは主イエスの直接の弟子ではないので、イエス様の復活の目撃証人ではありません。目撃証人の言葉によって信じ、これを言葉と行いで現わそうとしている者たちです。しかし神は、このような者たちにも、直接の目撃証人に劣らない恵みと使命を与えておられるのです。ペトロはその第一の手紙1章8節と9節でこう語っています。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。」 そしてもう一つ、私たちの中に若者は少なく、この世で高い地位にある者も、多くの財産を持っている者も少ないので、この先人生で出来ることも限られているように思えてしまうかもしれません。しかし、私たちも小さいながら、主の復活の証人、言ってみればその端くれに任じられているという自覚を持ちたいものです。直接の目撃証人でなくてもいいのです。大きなことをする必要はありません。
キリスト者として生きること、それ自体が主の復活の証人として生きることなのです。 私たちは、神が全世界を救わんとする壮大なみこころをもって、イエス様を十字架へと導き、かつ復活させて下さったことを感謝します。神はそのことによって、罪の赦しを得させる福音を宣べ伝えようと全世界に弟子たちを遣わされましたが、広島長束教会はその働きの一翼を担っています。神は先週と今週、あいついで二人の人をこの教会に導き入れることによって、その恵みを示して下さいました。私たちは自分たちが受けとった魂の救いを感謝し、それをさらに神を知らないこの国の人々の間で現わして行きたいと思います。いつの日か、神のみこころが全世界に完全に実現する喜びの日を見据えながら。 (祈り) 神様、私たちは復活したイエス様を直接見ていませんが、そのことを信じて希望に生きることの出来る恵みを感謝いたします。神様がイエス様の弟子たちを通して力強い証言をこの世に送り出して下さり、それが連綿と受け継がれ、その結果として、自分の罪を悔い改め、魂の救いにあずかっているからです。どうか私たちを、「イエス様は復活された」と証言できる者として下さい。 神様は先週、小林幸子さんを洗礼へと導き、神の家族の一員として下さいました。この教会は今日、佐野清美さんを教会員へと迎え入れます。神様の恵みを感謝し、小林さん、佐野さんと共に神様を賛美いたします。 主イエス・キリストのみ名によって、この祈りをお捧げします。アーメン。
特別礼拝
人生は再出発(リセット)できる
ルカ福音書15章11~32節 2015,11,8
岡山伝道所牧師 三瓶長寿
一同恵まれ感謝でいっぱいの礼拝となりました。
大いなる喜びyoutube
詩編22:28~31、ルカ24:36~43 2015.11.1
ルカ福音書の説教では前回、エルサレムからエマオに向かったクレオパたち二人の弟子が、復活されたイエス様に会い、大喜びで戻ってくるまでを学びました。きょうはその続きですが、まず前にさかのぼって33節と34節を読んでみましょう。「そして時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。」 復活されたイエス様があちこちに出現されています。その順番を調べてみますと、最初にマグダラのマリアなど女性たち、その次がシモンとも、ケファとも言われるペトロであったと考えられます。第一コリント書15章5節にはこう書いてあります。「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。」ここに、復活された主がケファ、すなわちペトロに現れたことが書いてあり、ルカ福音書と一致しています。しかし、その様子がどのようなものであったかは、残念ながら聖書のどこにも書いてありません。主イエスを三度裏切って、穴があれば入ってしまいたいだろうペトロがどんな顔をしてイエス様と会ったのか、また二人の間にどんな会話が交わされたのかというのは重要なことだと思うのですが、今そのことを知る人は誰もいません。いずれにしても復活されたイエス様に会ったペトロは、その体験を11人と仲間たちに語ったのです。そこで。それを聞いたみんなが驚いて話しているところに、クレオパたちが飛び込んできて「私たちもイエス様に会ったのです」と言ったものですから、その場はその話で持ちきりになっていたのです。 36節:「こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。」ルカ福音書では、24章にあるいろいろな出来事が、まるで一日の内に起こったかのように書いてあります。その日の朝、イエス様の墓がからになっているところから始まり、クレオパたちが出発してエマオの村に夕方に着いているのに、そこからエルサレムに引き返して弟子たちに会うと、今度はイエス様が現れます。その先にはイエス様の天に上げられたことまで書いてあるのですが、すべてが一日の間に起こったとしたら、ですから、たった一日の内にすべてが起こったのではなく、40日の間に起こったことをここにまとめて書いているのだと思われます。
おそらくはクレオパたちがエマオから帰ってきたのとイエス様の出現は、別な日に起こったことなのでしょう。11人の弟子や仲間が、復活されたイエス様の話で持ちきりになっているところに、当のイエス様ご自身が現れて、「あなたがたに平和があるように」とおっしゃいました。「あなたがたに平和があるように」、これは「シャローム」というもので、当時も今もユダヤ人の日常の挨拶の言葉になっています。しかしながら主イエスは、ここで単なる日常の挨拶の言葉をかけられたのではありません。主イエスは神としての権威をもって、弟子たちと仲間たちに平和を告げておられるのです。このことを良く考えてみますと、主イエスは平和をお告げにならなくても良かったのではないでしょうか。特に弟子たちに対しては、「お前たちは、私がいちばん苦しい時になぜ逃げてしまったのか」と、厳しく叱責なさることもありえたと思うのです。しかし、そうはなさらず何より平和を告げられた、皆さんはそこに驚きの気持ちを覚えないでしょうか。それでは、「平和があるように」と言われた側はどうだったか、…恐れおののき、亡霊を見ているのだと思ったのです。そこにクレオパたちがいたかどうかはわかりませんが、ペトロがいなかったはずはありません。そこには、すでに、復活したイエス様に出会った弟子がおり、みんなその話で持ちきりだったのに、いざ目の前に現れると恐れおののいてしまったのです。復活を信じるのがいかに難しいかということが、ここからもわかります。彼らが恐れおののいた理由の一つは、イエス様からの平和を受け取っていなかったというところにあるでしょう。特に11人の弟子たちは、心にうしろめたい思いを持っていました。…私たちはとかく、イスカリオテのユダの罪がいちばん重く、次がペトロで、ほかの弟子たちの罪はさらに軽いように思いがちです。しかしイエス様を裏切ってしまったということでは、それほど大きな違いはありません。違いがあるとすればユダが、自分が犯した恐ろしい罪を自覚した時に絶望のあまり自殺してしまったのに対し、たの弟子は絶望して打ちひしがれながらも、ぎりぎりのところで踏みとどまって、イエス様の前に立つことが出来ました。…しかし、この時は、神の力も恵みも知らないので思い違いをしていました。…裏切り者の自分たちを主は赦してはくれまいという思いがあったために、恐れおののいたのだと考えられます。そして、もう一つがやはり、亡霊を見ているのだと思ったことです。亡霊という言葉は原文ではプネウマと言い、口語訳聖書では霊という言葉を使っており、
ここで亡霊と訳したことに間違いはありません。亡霊なら怖いのが普通です。その亡霊が自分たちに恨みをいだいているのだと思ったのならなおさら怖いわけです。この弟子たちを前にイエス様は言われました。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか」。弟子たちは、イエス様が復活したとしても、それは幽霊のようなものだと思っていたのでしょう。…私たちもそうです。死んだ人がまた出て来るとしたら幽霊しか考えられないのです。…しかし復活するということと、幽霊になって出て来ることとは全く違うのです。…イエス様が復活されたことを聞いていたのに、いざ目の前に現れた時に幽霊だと思ってしまうのは、復活を信じきることの出来ない、心の疑いがもたらしたものにちがいありません。そこで主イエスは「わたしの手や足を見なさい。触ってよく見なさい」と言われるのです。「亡霊には肉も骨もないが、わたしにはそれがある!」日本的な感覚では、幽霊には足がないが、私にはそれがあるということでしょう。ここに出現されたイエス様は、ご自分が肉体をもって復活されたということを示されたのです。 もしもイエス様が霊として出て来られたなら、…たとえそれが「恨めしや」と言って弟子たちに迫るものではなく、彼らに祝福を告げるものであったとしても、そこに大きな喜びはないでしょう。その場合は、イエス様が死に打ち勝ったことにはなりません。しかし、いまそこにおられるのは、一度死んだにもかかわらず肉体をもって現れたイエス様、それはすなわち死と言う最大の敵に打ち勝ったイエス様であり、しかもご自分を裏切った弟子たちを、きわめることの出来ない大いなる愛の内に迎えて下さる方なのです。このことを知って弟子たちの喜びは頂点に達しました。…ただし、疑いの心はまだ残っています。「喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので」と書いてありますが、復活は容易に信じられることではありません。マタイ福音書には、復活の主が何度も現れたのに、最後の最後まで疑う弟子がいたことを書いています。だから、ルカが「まだ信じられず」と書くのも無理からぬことと言えます。このような疑い深い者たちに対する反論として、復活されたイエス様が食事されたことが書かれているわけです。幽霊であろうが、何であろうが、霊と名のつくものが食事することはありません。だから、このことはイエス様が復活されたことの決定的な証拠となっているのです。…また、そのことは、イエス様の復活が私たちから遠い別世界の話ではなく、まさに日常生活の中で起こったことをも示しています。主イエスの弟子たちは、毎日の生活の心配もないような浮世離れした世界で生活しながら、あるいは幻覚を見ながら、その中で復活されたイエス様にお目に
かかったというのではありません。毎日、三度三度の食事をとるためには時にはつらい思いをして働かなければいけないし、お金の心配もしなければなりませんが、そのような日常生活のただ中に復活されたイエス様が来られたのです。…そのことを知った私たちは、一年に一度の特別な日だけ復活を祝ったり、考えたりすることは出来ません。イースター以外の日曜日はもとより、毎日のふだんの生活も、復活されたイエス様の恵みと導きのもとにあることを覚えたいと思います。 さて私たちは毎週の礼拝で使徒信条を唱える時、その最後のところで、からだの復活を信じますということを言っています。ただ、復活を信じます、と言っているのではないのです。からだの復活です。単なる霊的な復活ではないのです。人間が死んだらどうなるのかということを昔から多くの人たちが考えてきましたが、人が死んだら全く何もなくなるという立場でない限り、すぐに思いつくのは霊魂不滅ということです。肉体は滅びてなくなってしまっても、霊魂はずっと生き続けるという考え方です。弟子たちは復活されたイエス様が現れた時、これは霊だと思いました。しかしそうではありません。イエス様は肉体を備えた方としてよみがえられたのです。もっとも聖書を調べて行くと不思議なところが見つかります。イエス様には確かに手も足もあり、十字架刑の傷跡もありました。魚も食べられました。忙しすぎることになるでしょう。しかしルカは、福音書に続いて書いた使徒言行録の中で、復活された主が40日にわたって現れたことを書いています。
しかしエマオに向かう道に現れた時、二人の弟子はそれがイエス様だとはわからなかったわけです。…ヨハネ福音書には、家の戸に鍵をかけていたのに、イエス様が入って来られたと書いてあり、こうなるとやはり幽霊みたいに見えてくるかもしれません。しかし、それはこのように説明されます。イエス様は肉体を備えた方として復活された、しかしそれは生前のお姿そのままではない、生前とは別の全く新しいお姿だったのだ、と。 主イエスは死という最大の敵に打ち勝って復活されました。ここに、この方を信じる者たちすべてにとっての最大の喜びがあります。パウロは第一コリント書15章20節でこう書いています。「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」主イエスは作物の収穫における初穂に例えられます。主が復活されたということは、あとに続く私たちも死によって滅びることなく、復活するということにほかなりません。その時の私たち一人ひとりはどんな姿でしょうか。それは生前とは必ずしも同じ姿ではありません。死んだ時はおばあちゃんでも、復活した時は若い女性だった、なんてことがあるのかどうか、よくわかりませんけれど、とにかく「からだの復活」なのです。イエス様を主とし、救い主として信じる私たちは死んでも新しい姿でまた生き続けます。死ぬことですべてがなくなってしまうわけでも、また霊だけになって生き続けるのでもないのです。「彼らは恐れ驚いて、霊を見ているのだと思った」と訳しています。
(祈り) イエス・キリストの父なる御神様。私たちは誰もが、遅かれ早かれ、地上の旅路を終えることになります。人生とは何か、何にもわからないまま、ただ順番が来たからということで死んで行くのだとしたら、あまりにもむなしいと思うのです。しかしながら、イエス様が私たちの先頭に立って、いのちの道を切り開いて下さいました。イエス様を信じる者は必ず復活して、心も体もまったく新しい人間となって神様の前に立つことが出来る、この約束を与えられておりますことを心から感謝いたします。…しかしながら、この約束を私たちが安易に受け取ってしまってはならないと思います。イエス様が差し出して下さる救いのみ手、そこにはあまりに痛ましい、十字架の傷跡がついているのです。私たちはこのあとの聖餐式で、主の体と流された血をあらわすパンとぶどうの飲み物を頂きます。いちばん苦しい時に弟子たちに裏切られながらも、その弟子たちに向かって、「あなたがたに平和があるように」とおっしゃることの出来たイエス様に、私たちは何をもって報いることが出来るのでしょうか。どうか私たち一人ひとりに自分を顧みることの出来る静かな時間と、大胆に自分を変えてゆく勇気、そして神様に従って善きわざを行うことの出来る健康とをお与え下さい。主のみ名によって、この祈りをお捧げします。アーメン。
信仰者のあり方とはyoutube
ヨブ34:1~37、Ⅰコリント1:18
2015.10.25
神は常に正しくあらせられるというのは、絶対の真理なのでしょうか。 いまの日本は信仰を持っていない人が多いので、そういう意見があってもそんなものかと、冷静に受け留められるのかもしれません。しかし大多数の人々が信仰者であるような社会、それは一つの教会の中ということもありますし、一つの国の中ということもありますが、そんなことを言ったら厳しく咎められることになるのは必定です。たとえばヨーロッパ中世のキリスト教社会で、「神様のなさることはいつもいつも正しいのか」と発言する人がいたら、破門されたり、ことによるともっとひどいことになったのではないでしょうか。こういう不心得者に対しては、顔を真っ赤にして反論し、神を弁護する人が出て来ます。そして、神のなさることに疑問を持つこと自体、不信仰だと決めつけられてしまうでしょう。 こんな話をしたのは、実は、この「ヨブ記」には、まさにそのようなことが書かれているからです。ここで「神様のなさることはいつもいつも正しいのか」と問うのは、ある日突然、家族も財産も失って、自分自身悲惨な病気にかかってしまったヨブです。それに対して、「神様に対して何ということを言うのだ」と、躍起になって熱弁をふるうのがヨブの3人の友人たち、そしてエリフなのです。 さて聖書は、神に対する信仰を呼びかける書物なのですから、ふつうに考えると、神のなさることに疑問を持つ人がしりぞけられて、神の正しさを擁護する人の勝利に終わらなければならないはずです。ところがヨブ記はそのようにはなっておりません。皆さんおわかりのように、「神様のなさることは常に正しい」という、いわば信仰上の正論はヨブが陥った現実の前にまったく通用しません。友人たちがヨブを説得することは出来ませんから、ヨブが「自分は悪うございました。」と言って頭を下げることはないのです。…そこで友人たちは、ヨブが神に逆らう者で何かとてつもない悪事を行ったのだ、だから神に罰せられて当然だというように考えて行くのですが、それは苦しみの底でかろうじて生きていたヨブの心をさらに閉ざしてしまうことにしかなりませんでした。 ヨブは、彼の生きていた社会の中では、誰も相手にしないような非常識なことを言っていた人物と言えます。ヨブの友人たちのような、当時としては深い学識を備えた人がヨブを不信仰と見なしたのですから、一般の人々にとってヨブは罰当たりな人間にしかすぎませんでした。現代でも、ヨブの友人たちの方がヨブより正しいと考える人がいます。…しかしながら、よくよく考えてみると、本当の信仰に近いのは、むしろヨブの方だったと言えましょう。 ヨブの言葉はたしかに正論とは言えません。ヨブは、自分に対する神様の仕打ちは不当だと言います。なぜ善人が苦しみ、悪人が栄えるのかと言います。これらは、深い信仰を持っているということで自他ともに認められているような人なら口にしない言葉です。しかし、それは決して不信仰から出て来た言葉ではありません。ヨブは極限の苦しみの中でも、なお神様と共にありたいと願っていました。
ただ、それを建前ばかりの、きれいごとの言葉で語ることは出来ませんでした。そのために、まじめな信仰者の神経を逆なでするような言葉が飛び出してきたのです。ヨブはその言葉をもって神に迫り、神に訴え、神の言葉が与えられることを求めたのでありましたが、そのことをヨブの友人たちは理解できません。新しく登場したエリフは、時には素晴らしいことも口に出しているのですが、やはりヨブの3人の友人と共通する部分が多いのです。……そのあたりのことを頭に入れた上で、34章の言葉を学んで行きましょう。 エリフの言葉は、その冒頭からして意味不明瞭です。エリフは「知恵ある者はわたしの言葉を聞き、知識ある者はわたしに耳を傾けよ」と言うのですが、いったい誰に対して言っているのでしょうか。…まずヨブですが。エリフにとってヨブは知恵ある者、知識ある者ではなかったでしょう。ではヨブの3人の友人なのでしょうか。エリフは彼らがヨブを説得できなかったことに我慢できなくなって登場して来たのですから、彼らを指しているとしたら変です。それでは、のちの時代の聖書の読者に向かって言っているのでしょうか。…いずれにしても、これは自分を買い被った言い方に違いありません。かりに私であっても、誰であっても、「知恵ある者はわたしの言葉を聞き、知識ある者はわたしに耳を傾けよ」と言ったら、お前はいったいなに様かと言われてしまうでしょう。…確かなことは、エリフは自分を権威ある者、預言者だと考えていたということです。自分を語らせているのは神だ、だからみんなおれの言うことを聞け、という姿勢がここに現れているように思われます。 5節以降で、エリフはヨブの発言をあげつらい、彼を非難しています。ヨブが「私は正しい」とか「わたしは正しいのに、うそつきとされ、罪もないのに、矢を射かけられて傷ついた」と言ったのはおおむね事実です。(ヨブのこうした言葉が出ているのは6章4節、9章20節、13章18節です。)ただ9節で「神に喜ばれようとしても何の益もない」という言葉を引用しているのは、おかしいのです。ヨブの言葉でこれに最も近いのは21章15節ですが、それは悪人の言葉として引用したものであって、ヨブ自身の思いではありません。21章15節で、悪人が神に向かって、「神に祈って何になるのか」と言っているのですが、すぐあとの16節で「神に逆らう者の考えはわたしから遠い。」という言葉があります。このような引用の仕方は明らかに間違いです。 そういうところからわかることは、エリフがヨブの言葉を一面的に、悪意を持って見ており、ヨブの言葉を歪曲さえしているということです。
こういう間違いは私たちにも無縁ではありません。人それぞれ、たくさんの面をもっていますが、ある先入観をもって見るとその人の一面しか見えないことがあります。ある人を悪人と決めつけてしまえば、その人の口から出たまっとうな言葉であってもすべて悪意をもって受け取ってしまうということです。ヨブの3人の友人もこのような間違いをしているのですが、エリフの場合さらに自分を権威ある者とみなしているので、余計やっかいなことになっています。 エリフは信仰において熱心な人です。彼はヨブを「神に逆らう者と共に歩む」と言って断罪し、その上で、「神には過ちなど、決してない。全能者には不正など、決してない」と言いきります。彼は、神に楯突く人間は許せないという気持ちになっています。 もしもエリフが人間として、ヨブに心を寄せていれば、少しはヨブに対して理解し、同情する気持ちも出て来たと思います。けれどもエリフは、自分をきわめて高いところに置いています。神の代理人のような立場に立って、ヨブを見下ろし、ヨブを裁くのです。ここにエリフの間違いがあります。これはエリフに限ったことではなく、信仰者が陥りやすい間違いです。私たちも本当に気をつけなければなりません。自分がなまじ信仰があるからということで、信仰のない人や、信仰が足りないように見える人を自分より下に見て、裁いてしまう、ということがよく起こるのです。エリフがそうなったのは信仰に熱心なあまりでしたが、こういう熱心はたいへん危険です。キリスト教の歴史の中で、自分とは違う信仰を異端や邪教と決めつけ、これを殲滅するために、迫害することもいとわず、時には血を流してしまうということもありました。もちろん私たちはキリスト教を信じており、たの信仰を信じてはおりませんが、それはたの信仰を下等なものとみなし、信者もろとも滅ぼしつくさなければならないというのではありません。現在の世界でイスラム原理主義が大きな問題になっていますが、キリスト教の原理主義も恐ろしいものです。…信仰者になるとは、決して神のような偉い人間になることではありません。神の前にへりくだって、あくまでも人間の立場をわきまえることなのですが、エリフにはこれが欠けていました。 16節以下でエリフが言っていることに反論するのは簡単ではありません。彼が信仰上の正論を語っているからです。17節:「正しく、また、力強いお方をあなたは罪に定めるのか」。正しく、また、力強い方というのは神です。エリフはヨブに、あなたは神を罪に定めるのかと問うのです。18節の王者も、貴い方も神です。神に向かってならず者と言い、神に向かって逆らう者と言うのか、とつめよられると何にも言えなくなり
「だから、わたしとしては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません」。 やみくもに走るばかりの人生があります。毎日目がまわるような忙しさなのに、いったい自分がなぜこうしているのか、どこに向かっているのかわからないのです。そこには、この人がそうせざるを得ない状況もありますが、時そうです。…ただ、ヨブはそこまで言ってはおりません。ヨブが神のなさることに対して疑問を表明したことは事実ですが、エリフはそれを曲解し、誇張して、ヨブはこんなひどいことを言ったのだとしているわけです。エリフは神が正義をもって、世界を支配しておられることを言います。エリフの、神に対する信頼は揺らぎません。その根拠となるのは、21節の「神は人の歩む道に目を注ぎ、その一歩一歩を見ておられる」ということでありましょう。人が自分の行った悪事を隠そうとしても、神の目から逃れることは出来ないということです。神は悪人を打たれます、それが権力者であっても打ち倒されます。こうして28節:「その時、弱い者の叫びは神に届き、貧しい者の叫びは聞かれる。」、全世界に正義が回復されるのです。皆さんの中には、エリフの言うことはもっともかもしれない、と思われる人がいるかもしれません。しかし29節の言葉はどうでしょうか。「神が黙っておられるのに、罪に定めうる者があろうか。神が顔を背けられるのに、目を注ぐ者があろうか。」これは、こういうことだと思います。「正義をもって世界を支配され、悪人を見逃されない神が黙っておられることがあるなら、神がそれを是とし、認めておられるということなのだ。神が顔を背けられたということも、神がそれを認めておられることなのだ。」これをヨブに当てはめてみましょう。ヨブはこれまで神に対して、黙っていないで下さい、私に答えて下さいということを叫び続けてきましたが、それに対して神からのお答えがないということは、それが神の意思である、ヨブの苦しみを神が認めておられるということになるのです。しかし、ヨブの苦しみを神の意思であると受け取ることが、本当に信仰的な態度なのでしょうか。こういう人は、苦しみあえいでいる人を見ても、それは神の意思なのだと見なすことになるのです。そこからは、苦しみにあっている人を助けようという思いは出て来ません。
エリフはこのような立場に立って、ヨブに向かい、神に立ち返るよう求めます。「わたしは不正を行いましたが、もういたしません」、このように自分の罪を告白することを求めています。これをするかしないか、決めるのはあなただ、とヨブに決断を求めた上で、今度は「あなたは神を軽んじているのではないか」と批判し、ヨブを追い詰めて行くのです。36節でエリフは、「悪人のような答えをヨブはする」と決めつけますが、そこに続くのが「彼を徹底的に試すべきだ」との言葉です。ヨブは悪人のような言い方をする、だからヨブの苦しみは徹底的に続けられるべきだと言うのです。これは非常に冷酷な言葉であり、ヨブに対する思いやりのかけらも見出すことが出来ませんが、エリフをこのようにしたのが彼が信仰において熱心であったということです。教会でこんなことを言いたくはないのですが、信仰というものが一歩誤るとどんなに恐ろしいことになるか、その典型を私たちはここに見ることが出来るのです。 これでいちおう34章を見てきたわけですが、皆さんはここからどんなメッセージを受け取られるでしょうか。私に示されたことはこうです。もうすぐクリスマスになりますが、私はこの日に地上に降り立たれたイエス・キリストが十字架にかけられたことが、ヨブと重なっているようにしか見えません。十字架のまわりにいた人の多くがイエス様を嘲笑っていましたが、そこにはイエス様に同情する気持ちなどないのです。大事なことは、イエス様の苦しみを見ながら、これが神の意思だと思って疑わない人がいたということです。イザヤ書53章4節で「わたしたちは思っていた、神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。」と言われている通りです。主イエスの死にはたしかに神のみこころが現れています。しかしそれは、神が悪人に対して、もっともふさわしい罰を与えられたということではありません。十字架は、私たちを含む、全世界の罪の結果です。私たちはエリフの時代にはわからなかったことを教えられています。この私たちが、信仰が逆戻りしてしまい、エリフと同じような水準になってしまってはいけません。主イエスがこの自分のために十字架にかかられたことを信じている私たちなら、ヨブの苦しみを当然のことだと見なすことは出来ません。それは、私たちの隣人が苦しみにあっている時に、それを神の意思でもあるかのように考えて突き放すことは決してありえないということです。
(祈り) 神様。私たちは神様から、言葉に尽きせぬ恵みを受けているキリスト者が、それを隣人との間で分かちあおうとしないということを見てきました。信仰者がこんなひどいことをするのか、としか思えないこともよく起こります。そういうことを見聞きしたり、また自分がその一人であることを知ったら、本当にいやになります。…ならば信仰など持たずに、生きている方が良いのでしょうか。しかし、そんなことは決してありません。私たちの拠り所は、神様と神様が遣わして下さったイエス・キリストにあります。神様、私たちに常に十字架を仰がせ、信仰者の陥りやすいあやまちから救って下さい。 世の中で神の栄光を少しでも表す事ができますように。主イエス・キリストのみ名によって、この祈りをおささげします。アーメン。
明日に向かって走るyoutube
箴言17;3、Ⅰコリント9:24~27
2015.10.18
今日は、いつもとは少し趣向を変えて、皆さんを古代のスポーツ大会にご案内いたしましょう。紀元1世紀、ギリシアのコリント付近で、…コリントというのはアテネの近くにあるところですが、…一大スポーツ競技大会が開催されていました。これは三年に一度、4月下旬から5月上旬にかけて、コリント州を中心に行われる競技会で、それは華やかなものでした。ギリシアはオリンピックの発祥地として有名ですが、コリントの競技会についてはオリンピックに迫るほど規模が大きかったと言われています。そこでは競技会がやってくる季節になると、人々は一切の日常生活を切りかえて、そのために準備したと言います。そして、ひとたび競技場に集まると、言葉の違い、政治の違い、信仰する宗教の違いを越えて、みんながスポーツによって一つになることが出来たと言われています。ここで行われる競技種目は、徒競走、ボクシング、レスリング、円盤投げ、跳躍、その他槍投げや競馬もあったようです。パウロはコリントに一年半滞在しましたから、ひょっとすると、その間に競技会を見に行ったのかもしれません。いや、実際に見ていなければ、こんな文章は書けなかったと思うのです。「あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです」。たくさんの種目の中でももっとも重要なものは徒競走でした。オリンピックの花がマラソンだとすれば、コリント競技会の花は約200メートルのコースを一気に駆け抜ける競争です。当時のスポーツ選手が200メートルを何秒で走ったかわかりませんが、一瞬で決着のつく競技であることは確かです。それだけに、出場する選手は、この一瞬に人生のすべてをかけるのです。パウロは語ります。「賞を得るように走りなさい」。この言葉には、特に強調する意味があります。走り出せ。スタートでぐずぐずするな。走れ!そうしないと、賞をもらうチャンスを逃してしまうぞ、と。「賞を得るように走りなさい」、パウロはこのように言うことで、教会に来たすべての人にスタートを促しているのです。走り出せ、レースに参加せよ。でも、これはもちろん、私たちが皆、陸上の選手になれと言っているのではありません。パウロは呼びかけています。キリストに向かって走り出せ!キリストにお会いする場所に向かってかけて行け!
聞くところによりますと、古代ギリシアの競技会で与えられる賞はお金に換算しても、どれほどにもならなかったものでした。オリンピック競技の優勝者に与えられるのは月桂樹の葉で作った月桂冠、コリントでの賞は松の葉で作った冠でした。それと言うのも、選手たちはお金のためにスポーツに励むわけではないからです。彼らが求めていたものは名誉であり、栄誉であり、栄光であって、その栄光のしるしが冠でした。…その点から見ますと、昨今、オリンピックの入賞者を増やすために報奨金をあげようと言う議論があったり、どこかの国で、金メダルを獲得した選手に国から住宅まで支給されるというのは、アマチュアスポーツの精神に反すると言わざるをえません。まあ、それはともかくとして、競技会で優勝者に与えられるのは松で作った冠で、これにあまたの人々からの選手を称える気持ちが込められているのです。……確かに、スポーツ大会で健闘した選手が称えられるのは当然です。……しかし、松の葉で作った冠などいずれ朽ちてゆきます。人間社会での栄誉など、人間がいずれ朽ちて行くように朽ちてゆきます。冠が金メダルに変わっても同じです。パウロはそのことを言うのです。「競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです」。朽ちない冠とは何でしょうか。この手紙の15章42節に、朽ちない冠についてのヒントがあります。「死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです」。ここには大切なことが述べられていると思います。私たち人間みんな、やがては朽ちてゆきます。このからだも魂も、朽ちないで残ってゆくということはありません。それなら、死んですべてが終わってしまうのでしょうか。……人がもし、死んですべてが終わってしまうのだったら、信仰生活はむなしい慰めにしかすぎませんし、また一生懸命働いたところで何にもならないでしょう。しかし、間違ってはなりません。私たちが毎週教会に集い、信仰生活を続けるのは、ただこの世にいるときだけの安心ではありません。生と死を越えた世界で、私たちも朽ちない冠をもらうことが出来る、……朽ちない冠、それは永遠のいのちを指しています。そこに向かって走り出せとパウロは言うのです。 ここで少し、体の鍛錬についてお話ししようと思います。キリスト教会では礼拝だ、お祈りだ、聖書を読もうとそればかり言って、体の鍛錬を軽んじているということはないでしょうか。実際、クリスチャンの中に「スポーツなんてどうでもいいことだ」と思っている人がいます。
…重い病気にかかった人が、苦しみの中で神に出会ったという証言がたくさんあります。そのことはたいへんとうといことですが、健康であるよりも病気の方が良いなんてことは決してありません。…では、聖書はどう言っているでしょうか。テモテの手紙一の4章7節をお開き下さい。「信心のために自分を鍛えなさい。体の鍛錬も多少は役に立ちますが、信心は、この世と来るべき世での命を約束するので、すべての点で益となるからです」。信心に比べると優先度は劣りますが、体の鍛錬も多少は役に立つと書いてあることを見逃してはならないでしょう。私は日本キリスト教会の、和歌山の新宮教会の牧師だった堀一善牧師に会って、話を聞いたことがあります。堀先生は毎日トレーニングをしていて、ベンチプレスという競技で、あおむけになって160キロのバーベルを持ち上げることが出来たそうです。ジムに集まってくるお兄さんたちからは「信仰があると、こんなに持ち上がるのですか」と言われていて、その中から教会に来た人も出ていたということです。近代オリンピックの創始者クーベルタンの「健全な肉体に健全な精神が宿る」という言葉は有名ですが、もともとの言葉は「健全な肉体に健全な精神が宿るように」というものだったらしく、またそうでなければなりません。健全な肉体があっても頭と心が空っぽではいけませんし、健全な精神があってもひ弱であっては困ります。どうかスポーツを通して神様の恵みを証しする人がもっと出て来てほしいし、私たちも人生の最後まで体の鍛錬を続けてゆく者でありたいと思います。 パウロの手紙に戻ります。「競技をする人は皆、すべてに節制します」。スポーツ選手が節制することは、誰でも知っています。毎日の厳しい練習に加えて、食事に気をつけ、充分に睡眠を取り、全生活を試合に勝つ、その一点に向けて整えるのです。こんにち、陸上200メートル走の選手なら、わずか20数秒のために、2年、4年、あるいはそれ以上の厳しい訓練の生活に励みます。その期間中、煙草を吸ってはいけません。反則をしては入賞出来ませんし、ましてドーピングなど論外です。それはこつこつと毎日続けてゆく節制です。冠を得るために、それを妨害する欲望を捨てる自己訓練です。 ここからパウロが語りたいことは明らかです。朽ちる冠を得るために、スポーツ選手はそれほどの節制をします。それなら、朽ちない冠をめざして走る信仰生活には、それ以上の節制があって当然ではありませんか。 聖書を読むこと、お祈りすること、これは口で言うほど簡単なことではありません。礼拝を中心とした生活をする、自分の全生活を神様のために捧げる、これにも生涯に渡るトレーニングが必要です。このときキリストと自分の間をさえぎろうとする、あらゆる誘惑から自分を律することがなくてはなりません。
「だから、わたしとしては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません」。 やみくもに走るばかりの人生があります。毎日目がまわるような忙しさなのに、いったい自分がなぜこうしているのか、どこに向かっているのかわからないのです。そこには、この人がそうせざるを得ない状況もありますが、時には目を閉じて静かに考えることが必要です。……これは信仰生活においても言えることです。何のために礼拝しているのか、なぜ祈るのかわからない、そんなことになることはありませんか、教会のために一生けんめい働いていたとしても、空を打つようなボクシングになることはないでしょうか。 「むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます」。 私はボクシングについて詳しくはないので、よくご存じな方がおられたら後から教えて頂きたいのですが、このスポーツでは相手を打ちのめそうとするとき、目の下を狙うのだそうです。そこが急所だそうです。 そこでパウロが「自分のからだを打ちたたいて」と記すとき、相手の目の下のような致命的な急所を打つという意味があります。パウロの場合、他人でなくて自分です。自分の心と体の中に、目の下のような弱点があることを認めているのです。……もしも、自分の中に安楽な生活を求めて、自分のしようとすることを妨害するものがあるなら、それを許さない、自分の心と体は自分の目標のために使いこなすと宣言しているのです。 「それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです」。
キリスト教の歴史上、最大の伝道者パウロにして、この言葉です。偉大な伝道者でさえ、いや、そういう人物だから自分の弱さと必死で戦ったのでしょう。 パウロは自分をふだんから鍛えてゆかなければ、ランナーたちを指導しながら、自分はルール違反で失格してしまうと思ったのです。……自分がまともなクリスチャンでなくて、どうして他の人に救いを宣べ伝えることが出来ようか……。神様から自分が受けた恵みを、何としても、多くの人たちに伝えたい、その伝道への熱意が言わせた言葉です。このような伝道者がいたことを、私のような牧師だけでなく、皆さんにも覚えていただきたいと思います。 私たちはただ福音が伝えられるスタジアムに入ったというだけで満足してはなりません。私たちも、キリストに向かって走り出しましょう。キリストは完全な正義と愛をもって、私たちが人生のスポーツ大会で勝利をおさめるように指導して下さいます。ヨハネの黙示2章10節の言葉を読みます。「死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう」。信仰生活は、最後まで、節制し、耐えしのんで、闘ってゆくべきものです。そういう意味から言えば、信仰生活はまことに厳しいものです。必死になって守ってゆかなければならず、そのために信心だけでなく、体の鍛錬も必要となります。体の不調が原因で神様のために何かさせていただくということが起きないように、心身の健康をいつも心がけていたいものです。けれども、その先に永遠に朽ちない冠、命の冠が待っています。私たちがみな、それを授かることが出来ますように。私たちの抱いている望みは決してむなしいものではありません。
(祈り)恵みに富みたもう神様。私たちがこうして教会に集められ、頭を低くしてあなたを礼拝出来る幸いを、あなたに選ばれた者のゆえに与えられる恵みと思い、心から感謝申し上げます。私たちの主イエス・キリストは、すべての人を救うために地上に降りてこられた方であると信じます。キリストは神としての栄光を捨てられ、私たちと同じ死すべき人間にまでなって下さり、十字架の死に至るまで、人間と共にいて下さいました。私たちがたたえてやまないことは、キリストが、何とかしてすべての人を救おうとなさい、そのためにご自分の命さえ惜しいと思われなかったことです。キリストにならう者として、私たちも自分の信仰の生涯を立派に走りぬき、朽ちない命の冠をいただきたいと思いますが、道はまだまだ遠いことを実感しております。神様、私たちを憐れんで下さい。私たちの信仰の成熟をお導きになり、神様が満足なさるまでは、私たちの生を終わらせないで下さい。人生の残された時間を神様の栄光のために捧げることが出来ますように。そのためにも、あなたのお建てになった広島長束教会で行われる伝道を祝福し、みたまにおいて教会に集まってくる人、教会のために祈っている人、神様のことをまだ知らない教会近辺の人々の体を守り、魂を守り、いましめ、育てて下さいますようにお願いいたします。イエス・キリストのみ名によって、この祈りをおささげします。アーメン。
私たちの心は燃えているかyoutube
詩編119:105~106、ルカ24:28~35 2015.10.11
きょうは、エルサレムからエマオに向かって歩いていた二人の弟子についての2回目の学びとなります。クレオパともう一人の弟子の前に復活したイエス様が現れたという、この話はたいへん有名で、また印象深いものです。エマオへの道を進んで行く3人の旅人を描いた絵ハガキがキリスト教書店で売っていました。またレンブラントには「エマオのキリスト」という作品がありまして、美術の方面でも皆さんの心に刻まれているかもしれません。私もそういうところから、これが何かとても美しい話のように思っていたのですが、子どもを相手にお話しするならともかく、大人の礼拝ではそんなことではとても足りないことが、今回説教を準備する中で思い知らされました。 ここに起こった出来事で、これまで私を含め多くの人たちは二人の弟子の気持ちによりそうことが出来なかったように思います。たとえば以前、私はある教会でこんな話をしていました。「エルサレムからエマオに向かう道を歩いてゆく二人の旅人がおりました。その日はうららかな一日であったかもしれません。小鳥が春の喜びを奏でていたかもしれません。しかし、二人の旅人にはどんな美しい風景も目に入りません。」 …ずいぶん能天気な話をしていたものだと思います。もちろん、二人はイエス様を失った衝撃で落ち込んでいたのですが、その時の私は、二人は悲しい気持ちでいたぐらいにしか思っていなかったのです。実際には、そんな生易しい気持ちでいたはずはありません。そもそも二人はどうしてエマオに向かったのでしょうか。その理由は聖書に書いてないのですが、ただの旅でないことは確かです。…主イエスが逮捕された時、ユダを除く11人の弟子はみな逃げてしまい、エルサレムの中で身をひそめていました。ヨハネ福音書には、弟子たちがユダヤ人を恐れて、家の戸に鍵をかけていたと書いてありますが、クレオパたちもこれに近かったはずです。とすると、エマオに向かった理由として可能性が高いのは逃亡です。エルサレムにいては危ないと思って逃げ出したというのが、ことの真相だと思われます。 ある人が昔を思い出して言っていました。あの時の自分は、エマオに向かった2人と同じだったと。その人は大学受験に何度も失敗して、自分の進む道を決めることが出来ず、世の中を恨み自分の将来を悲観して、とにかく逃げ出したい、すべてから逃げたいという思いで、さまよっていたということです。クレオパたちが陥った状況というのは、言葉で表すことも出来ないほどの苦み、どこに不満をぶつけたらよいのかもわからないような思い、どこにも出口の見えない閉塞状況、といったものであったように思います。
その理由については先週学びました。二人が、イスラエルを解放してくださるのはこの方だと望みをかけていたイエス様が十字架にかけられてしまったことです。今やすべての望みは打ち砕かれてしまいました。二人は、イエス様を中心とした集まりももうこれで解散し、あとかたもなく消えてしまうと思っていたに違いありません。二人が暗い顔をしていたのももっともです。 するとそこに、正体不明の人物が近づいてきて一緒になりました。それは主イエスだったのですが、クレオパたちにはわかりません。その人物は二人に向かって、「ああ、物分りが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」と言うと、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、ご自分について書かれていることを説明されました。…ここでメシアが受ける苦しみとはもちろん十字架ですね。クレオパたちは、イエス様が十字架にかけられたことですべての望みがついえたように思っていたわけですが、ここではその十字架が栄光に入るための前提となっているのです。そして、それを明らかにするために、主イエスは旧約聖書を説明されたのです。そこに「ご自分について書かれていることを説明された」と言われていますが、皆さんは、旧約聖書のどこにイエス様のことが書いてあるのだろう、と疑問を持たれたかもしれません。クリスマスの時にはよくイザヤ書9章から、「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子が私たちに与えられた」というところを読みます。そういう箇所のことが言われているのでしょうか。この問題については、またあとでふれたいと思います。二人は自分では知らずに、イエス様から直接、聖書の説明を受けました。このあと二人は32節になって、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合っています。その時はわからなかったのですが、あとになって気がついたのです、自分たちの心が燃えていたことを。心が熱くなっていたのです。…それは聖書のことをたくさん教えてもらって知識が増えたということではありません。二人だけで歩いていた時には今にも燃え尽きそうになっていた心に火がともされて、熱くなっていたのです。まことに聖書の学びは、知識を増やすこと以上に心を燃やすためにこそあることを思わせられます。 こうして一行はエマオの村に着きました。さらに先に向かおうとされましたイエス様をクレオパたちは無理に引き止めました。二人が「一緒にお泊りください」と言ったことから、そこが彼らの家で、二人は夫婦であった可能性が取りざたされています。三人が一緒に食事の席に着いた時、主イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになりました。
つい先ほど無理に引き止めて家に入ってもらったお客が、今度はその家の主人のようにふるまっておられるのですが、まさにこの時、二人の目が開け、そこにおられるのがイエス様だとわかったのです。二人はイエス様がかつて、大勢のお腹をすかせた群衆を前にパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになったことを見たことがあったでしょう。あの時のイエス様が生きて再び現れたのです。もっとも、前と全く同じ姿ではなかったでしょう。二人はこの時、イエス様の手に十字架の傷あとを見たのではないでしょうか。初代教会は、パンを裂いて分け与え、共に食事をすることを「パン裂き」と言ってたいへん重んじていました。それがのちに聖餐式になったわけです。クレオパたちにイエス様が手ずから渡されたパンは、まさしくイエス様の引き裂かれた体を表すものであり、人はそれを食することなしに神の前で真に生きることは出来ません。二人がイエス様からみことばを受け、パンを受け取ったことは、説教と聖餐式に相当することですから、すなわち礼拝を現わしているのです。 ただし、その直後、不思議なことが起こりました。主イエスのお姿が見えなくなったのです。これはいったいどういうことでしょうか。このことを科学的に説明することは出来ません。復活されたイエス様のお体は以前のお体ではありません、質的に別のものになったのだと言うぐらいしか出来ません。…しかし、その出来事の意味は隠されていません。クレオパたちにとって、イエス様が自分たちと共に歩き、みことばを語り、パンを裂いて下さったということがわかった時、もはやイエス様が見えるか、見えないかは問題ではありませんでした。仮にクレオパたちが、目に見えるイエス様にばかり執着していたら、お姿が消えてしまったことで力を失い、また元の暗い顔に戻ってしまったことでしょう。しかし聖書に書いてある通り、二人はイエス様が消えてしまっても力を失いませんでした。少しも意気消沈しませんでした。かえって勇気百倍、おそらく夜になっていたのに、すぐにエルサレムに戻って行きました。素晴らしい報せを伝えたくて、はやる心を押さえながら、一度逃げて来た道を戻って行ったわけです。皆さんは教会で、あるいは信徒同士の話の中で、神様がついておられるとか、イエス様が助けて下さるということを聞いた時、それが気休めのようにしか受け取れなかったという体験があるかもしれません。目に見えない存在がどうして自分に働きかけて来るのかということです。ただ、この話から教えられることは、死んでよみがえったイエス様が確かにおられ、皆さんと共に歩いて下さり、礼拝を通して導いておられるということです。その時、イエス様を直接見ることが出来るかどうかはもはや問題ではないのです。
最後に、イエス様が聖書を説明されたことについて、もう少し詳しく学ぶことにしましょう。クレオパたちはその説明を聞いている時に心を燃やしたわけですが、イエス様のその時の言葉が記録されていないのはたいへん残念なことです。もしもそれが残っていたら、旧約聖書全体がイエス様について書かれているというのがどういうことか、事柄の本質がわかっただろうからです。イエス様はヨハネ福音書5章39節で、「聖書はわたしについて証しをするものだ」と言われています。この言葉を知っている人は、旧約聖書のあちこちに、やがて現れるべきイエス様のことが書かれていることを思い出すことでしょう。確かに旧約聖書を調べてみると、イエス様のことを予告していると考えられる言葉をいくつも見つけることが出来ます。でもイエス様とは全く関係ないように見えるところもずいぶんあるのです。たとえば列王記や歴代誌にたくさんの王様が出てきて、その人が神を信仰していたとか、逆に偶像を拝んで神を怒らせたといったようなことが延々と書かれていますが、それがイエス様について書いてあるのかと尋ねられたら困ってしまいますね。実は27節の「聖書全体にわたり」と書いてあるのは、たいへん強い言い方で、そこでは、イエス様のことが旧約聖書のここにも書いてあった、あそこにも書いてあったというのとは違う、それ以上のことが言われているのです。王様が信仰を持っていたかどうかという、いっけんイエス様とは関係ないように見える話でさえも、イエス様について書いてあると見なして良い、そういう理解の仕方をイエス様はここで示しておられるように思われます。ところで私たちは三位一体の教理を教えられています。キリスト教の神は、天の父なる神、子なる神イエス・キリスト、そして聖霊の3つであって、それが一体になっているという教えですが、これはなかなか理解できないことです。昔アウグスティヌスは「三位一体」という本を書いた人ですが、、三位一体を考えることは川に流れる水をどんぶりでくみつくそうとするようなものだと言ったとか、それほどに極めがたいものなのです。
私たちはともすれば三位一体の三位ということだけに注意を集中し、父・子・聖霊が一体だということを見落としがちだったと思います。この三位一体の関係の中でイエス様と父なる神は別々の存在ではなく、まさしく一体なのですが、そこにかたく立った上で聖書を読んで行くことが出来るでしょうか。私たちはとかく旧約聖書の主人公は天の父なる神様、新約聖書の主人公はイエス・キリストだと、この二つがまるで別々の存在であるかのように考えることが多いです。中には旧約聖書の神様はこわい神様、新約聖書のイエス様はやさしい神様だと思ってしまうこともあります。しかし天の父なる神様とイエス・キリストは一体です、一つです、そこには連続性があるのです。そこで旧約聖書の全体がイエス様について書いてあるというのは、天の父なる神様について書いてあることが、実はイエス様について書いてあることと同じであることを言っているのではないでしょうか。天の父なる神は千数百年にわたってイスラエルの民を導いて来られましたが、それは神様ご自身にとっても、まことに苦しく、忍耐が必要な歩みでありました。神がついておられるのに神に背くことの多いこの民のことで、神がどれほどお怒りになったか数えられないほどです。しかしこの神は今や、イエス・キリストとなって地上に降りて来られました。神ともあろうお方が十字架にかけられて死ぬとは、世界の誰も思いつかなかったことでありました。しかし、神はそのことによって罪と死を滅ぼし、勝利して、その栄光を現わされるのです。クレオパたちはイエス様の説明を聞いている時、天の父なる神様が千数百年をかけて人間たちを導いて来られたこと、その導きがイエス様の死と復活において究極の形で現わされており、自分たちが言葉では言い表せないほどの恵みにあずかったことを悟ったのでしょう。その時、彼らはもはや以前の彼らではありませんでした。燃え尽きそうだった二人は再びその心を燃やしました。そして今度は、熱い思いをさらに仲間たちと分かち合うと、エルサレムに戻って行ったのです。きょうの話は二人の弟子の死と再生の物語です。私たちがそのことを認めるなら、イエス様は今度は私たちにも同じ恵みを下さることは間違いありません。
(祈り) 神様が私たちを心が苦しくなるほど愛して下さり、私たちが燃え尽きそうになっている時にもイエス様となって私たちの前に現れ、礼拝の恵みを下さることを、きょうクレオパたちの話を通して信じることが出来ました。感謝申しあげます。 神様、私たちをどうか信仰の初心に帰らせて下さい。私たちはまわりの圧倒的多数の信仰を持たない人たちの中で、時に信仰の確信が揺らぎ、死に打ち勝って復活されたイエス様が見えなくなる時があります。しかし神様はそんな私たちにも、みことばの説きあかしと聖餐とをもって聖書に書かれていることが本当のことであり、ここにしか生きる道がないことを示して下さいます。神様の愛と正義は、旧約聖書全体が私たちに証ししております。そしてそのことはすべて、イエス様の十字架と復活へと向かっています。どうか私たちに、聖書全体にもとづく信仰を与え、それをもっともっと増し加えて下さいますように。それによって勇気をもってみもとに近づいて行くことが出来ますように、と願います。主イエス・キリストのみ名を通して、この祈りをお聞きあげ下さい。アーメン。
共に歩く復活の主 youtube
詩編119:129~132、ルカ24:13~27 2015.10.4
エマオへの道の途上で、二人の弟子が復活の主イエス・キリストに出会う話は、難しい理屈はわからなくても、そのまま読むだけで、私たちに慰めや励まし、勇気、力、希望を与えてくれるものだと思いますが、これらをさらに確かなものとし、信仰の確信をつかむことがきょうの礼拝の目標です。 きょうの聖書箇所は、私たちにとって、イエスとはどういうお方なのかを知るためのかけがえのない場所だと思います。イエス様とはどういうお方なのか、そこには自分にとって何の意味もないという人がいるかと思えば、イエス様が自分のすべてだと信じている人がいます。歴史上の偉人と考える人、この方を神と信じている人、困った時にお祈りする対象、このように人それぞれ違っているわけですが、ここでパウロの言葉を紹介します。パウロは第2コリント書5章16節以下で、こう書いています。 「それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。」 ここで「肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません」と言われています。肉に従ってというのは、ふつうの日本語にはない、聖書だけの言い方でちょっと難しいのですが、人間的な思いで、ということですね。これと反対なのが霊に従ってということです。だから、これは、人間的な思い、たとえばイエス様かっこいいなあとか、ご利益をいっぱい頂こう、などという思いではなく、霊的に、つまり神の霊によってイエス様を知りますということなのです。パウロはそのような意識の転換を表明したわけですが、それと同じことを、私たちはエマオに向かう弟子たちにおいて見ることになるでしょう。 「ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。」 この日というのは、主イエスが十字架上で死なれてからちょうど三日目、女性たちがお墓を訪ねるとご遺体がないということで、大騒ぎになっていた日です。エルサレムから60スタディオンということですが、1スタディオンは約185メートルだそうです。計算すると11キロと100メートルということになります。二人の弟子の一人はクレオパ、もう一人の名前は書いてありませんが、こういう書き方は不思議です、
ルカには例がないことで、ふつうはペトロとヨハネ、パウロとシラスというように両方の名前もあげるのにそうでないので、これはちょっと変だぞということになって、最近ではもう一人はクレオパの奥さんではないかという説が有力になってきました。私はこれまで、二人とも男の弟子だとばかり思っていたので頭が混乱しておりますが、同じような方がおられるかもしれません。来週学ぶ続きの部分では、目的地のエマオの村に着いた時、二人がイエス様に「一緒にお泊まりください」と頼んでいます。…クレオパと奥さんが帰ったのは自分の家だった、だからイエス様に、気兼ねなく泊まって行くよう勧めたとすると、話のつじつまが合ってくるように思われます。…いずれにしても二人とも主イエスの12弟子ではありません。二人が夫婦だとすると、クレオパは今でいう教会員ではないか、奥さんは主イエスのまわりにいた女性たちの一員ではないかと考えられています。 二人が歩きながら話し合い、論じ合っていたのは、主イエスにまつわるここ数日に起こった一切の出来事でした。 主イエスが、ろばの子にまたがってエルサレムに入城した時、二人は大勢の群衆がイエス様を熱狂的に歓迎するありさまを見て、胸の高鳴りを覚えていたと思うのですが、しかしイエス様は逮捕され、こともあろうに十字架につけられて無惨な死を遂げてしまわれたのです。二人の受けた衝撃ははかりしれないものでありましたが、そのあとご遺体が消えてしまったという信じがたい出来事が起こりました。いったい、何がどうなっているのだろう、と話している内に、何者かが近づいて来て、二人と一緒に歩き始めました。 聖書は、それはイエス御自身であった、しかし二人の目にそれがイエス様だったとはわからなかった、と書いています。イエス様が復活されたということだけでもたいへん不可解なことですが、復活されたイエス様がおられるのに弟子がそのことに気がつかないというのも、それに輪をかけて不可解なことです。…そこで、これを説明するためにバークレーという人は書きました。「エマオはエルサレムの西にあった。日が沈みかけていた。沈みゆく太陽が二人をまばゆく照らし、そのために彼らは主イエスを見分けることができなかった」と。このようにすれば、合理的に説明することが出来ます。しかし、こんな、手品の種明かしのようなことでは、わざわざ礼拝で学ぶべき価値があることとは思えません。…ルカは「二人の目は遮られて」と書きます。それは、イエス様が夕日のせいでよく見えなかったというのではないのです。…人間の目が何かの原因によって遮られていて、イエス様だとわからなかった、そのため、あとになりますが、31節で「二人の目が開け、イエスだと分かった」となるのです。 目が遮られた、目が開けた、これはいったい何を言っているのでしょう。
おそらく、これは、心の目ということを言っているのだと思います。 二人の心の目は開いていませんでした。イエス様が開けて下さるまで、閉じたままだったのです。だから、共に歩いている人がイエス様だとはわからなかったのですが、そのことは説教の最初で述べた、肉に従ってキリストを知るということと密接な関係があるのです。…肉に従ってというのは人間的な思いであると申しましたが、これはじゃあ非人間的であるべきだということではありません。生まれながらの心、神様のみこころから離れた思いといいましょうか、…クレオパたちの思いはまだその段階にとどまっていたのです。二人はイエス様のエルサレム入城を喜び、十字架の死で衝撃を受け、今度はご遺体がなくなったという報せを聞いて何がなんだかわからない状態です。人間として当然といえば当然ですが、これら一切の出来事の底に流れている神のみこころに思い至ることはなかったのです。だから、イエス様から「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と問われた時、暗い顔をして立ち止まっています。暗い顔をするほかなかったのです。人間的な思いに留まっている限り、ここ数日の出来事から、人間を救いに導くような明るさと希望を見出すことは出来なかったと言えるのです。 二人は、道ずれになった人から質問されて、あきれてしまったようです。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなたはご存じなかったのですか。」そこで、改めて話し始めます。二人の説明によると、ナザレのイエスは、神と民全体の間で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。…これは全くその通りです。たとえばイエス様はガリラヤのナインという町で、死んだ子どもを甦らせたことがありましたが(ルカ7:11~17)、その時、人々は「大預言者が現れた」と言っています。もっともそれだけではなく、神様の前でも正しい、本物の預言者である、言っているのです。「それなのに、ユダヤ教の祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。」その結果はどうなったか。「わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。」クレオパたちはイエス様を預言者以上の方だと考えていました。預言者というのは永らくユダヤ人の中に出現せず、旧約聖書の時代の最後の預言者からおよそ360年たってようやく現れたのがバプテスマのヨハネ、そしてイエス様だったので、たいへんとうとい存在であったわけですが、クレオパたちはイエス様が預言者であるにとどまらず、イスラエルを解放するお方だと信じていたのです。ご存じのようにイスラエル、すなわちユダヤ人は、この時、ローマ帝国の占領下にありました。だから、その方が十字架にかかって殺されることで、いっさいの希望は打ち砕かれてしまったのです。
二人はこれに続けて、十字架のあとに起こった出来事について述べています。「ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに帰って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」ここに至って、ついにイエス様が口を開かれることになりますが、その理由を考えてみましょう。クレオパたちは、イエス様のお墓にご遺体がなかったことを、やはり暗い顔をして口にしたのでしょう。まことに不思議な出来事が起こったことは認めながら、そこで立ち止まったままです。イエス様が復活されたという報せがもたらされたというのに、それは二人を動かしません。イエス様が生きておられるというのが本当なら彼らの人生は変わります。しかし、そこに飛び込んで行こうとはしないのです。それは肉に従ってキリストを知っている者の限界としかいえません。…だいたいこの二人がエルサレムからエマオに行こうとしたその理由について、身の危険を感じたから逃げて行ったのだと考える人がいます。これは当たっているかもしれません。イエス様の十字架を見て、復活の報せを聞いて、それでも逃げて行こうとするのだとしたら、そこにまさしく人間の限界が現れています。情けない姿です。でも私たちに彼らを笑う資格はありません。私たちも同じなのですですから。イエス様はとうとう我慢できなくなって言われました。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」。
これは私たちに向けられた声でもあります。それでは、復活されたイエス様は物分りが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たちを見捨てて、去って行かれたでしょうか。そうではありませんね。クレオパたちの前に現れ、その時まで一緒に歩いて下さったイエス様は、モーセとすべての預言者たちから始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明されました。それは旧約聖書全体を説明されたということです。こうして暗い顔をしていたクレオパたちの心が少しずつ変わって行くのです。明るくなって行くのですが、それはもちろん、何か楽しいことがあったからではありません。復活したイエス様が自ら現れて、聖書を説き明かして下さったところに、人の心をつくりかえる何かがあったのです。その時、自分にとってイエス様とは誰であるかということが、二人の思いの中で変わって行ったのです。それまで肉に従って知っていたという段階だったのです、いま霊的に、霊に従って知るように変わりつつあるということなのです。クレオパたちと同様、私たちが心に思い描いているイエス様はあまりに小さすぎます。イエス様は死に打ち勝って復活されたお方であるのに、私たちはそのことになかなか思い至りません。そのため、隣りに復活されたイエス様がいたとしても、そのことに気がつかないのです。…しかしイエス様は私たちの心の目を開き、全く新しい人生の道を示して下さいます。その出来事が起こるのが日曜日ごとの礼拝です。イエス様は礼拝において、物分りが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない私たちに、生きたみことばを語り続けて下さるのです。
(祈り) 天の父なる神様。神様は、私たちがイエス・キリストを信じる道を作って下さいます。神様は、私たちがいまだあなたを知らず、教会の門をくぐったこともない時から、私たちを選び、導いて下さいました。こうして、今ここにいる者(の大部分)は洗礼を受けて、神様のものとされました。しかし私たちは今だに物分りが悪く、心がにぶく預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たちです。イエス様の復活を知識としては知っていても、それが私たちを生かし、つくりかえるものとなっていないのです。そこに、私たちが罪と死という大きな力と十分にたたかうことの出来ない原因があると思うのです。 神様、主イエスの復活を祝う、日曜ごとの礼拝に集っている私たちを顧み、心の目を開いて下さい。主の復活の報せを聞いても半信半疑の者たちを、おつらいでしょうが、どうか忍耐の中でお導き下さい。そうして、皆が心から、イエス様が救い主であることを告白し続けることが出来ますように。神様、死を打ち破った力のほんのかけらのような小さな部分であっても私たちに注ぎこんで下さったら、人生この先何が起ろうとも神様と人々の前に喜びあふれる日々がもたらされることを信じ、お願いいたします。特に、いま苦しみの中でくずれそうになっている人にこそ、この恵みがありますようにと祈ります。主イエス・キリストのみ名によって、この祈りをお捧げします。アーメン。
「預言者」の言葉
ヨブ33:1~33、フィリピ3;8b~11
2015.9.27
ヨブは神様の前でだれよりも清く正しく生きていたにも関わらず、一日の内に家族と財産を奪われ、自分も恐ろしい病に倒れて、不幸のどん底に落とされてしまいました。ヨブのこの災難を聞きつけて見舞いに来た3人の友人たちは、ヨブがこれほどの災難に襲われたのは彼が何か悪事を行って神を怒らせたためだと言い、それに反論するヨブとの間で激しい議論が繰り返されますが、結局友人たちはヨブを説得することが出来ず、沈黙してしまいました。 そこに突然、エリフという若者が登場します。彼がいつからその場にいたのかわかりませんが、ずっと話を聞いていたことになっています。エリフは、自分は若者だからということで、初めは年長者の前で黙っていたのですが、とうとうがまん出来なくなり、怒りました。なぜ怒ったかというと、ヨブが神よりも自分の方が正しいと主張するのを見て、またヨブの友人たちがヨブを説得出来なかったからです。 エリフに関して、はっきりしないことがいくつもあります。一つは、ヨブ記の中で、エリフについての部分はあとから挿入したもので、実際にはエリフとヨブは会っていなかったのではないかという疑惑です。ただ、先週述べたように、そのことが実際にはどうであれ、ヨブ記を編集した人はこの部分がなくてはならないと考えたのでしょうから、それを尊重したいと思います。 もう一つは、エリフの言葉をどう評価するかという問題です。私が調べたかぎりでも、彼に対しては相反する評価があるようです。テモテ・ザオという伝道者はこう書いていました。「エリフの言葉に特別な注意を払う必要があります。神はヨブと彼の三人の友達が云ったことを責めなさいましたが、エリフを責めてはおられません。何故でしょう。エリフは人の顔色をうかがわず、その言葉は公平無私であり、彼だけが神に喜ばれたのです。エリフは神の側に立っていました。私達もこのようであるべきです。」これとは反対に、会堂の2階の本棚にあるヨブ記の注解書では、エリフが出て来る32章から37章までの部分が本文では扱われていません。31章の注解が終わると次が38章になっていて、エリフが出て来る部分はカット、巻末の付録で少し説明しているだけです。なぜそんなことをしたのかと言うと、エリフの議論はそもそもヨブ記本来のものではないし、また自分の忍耐も限界に達していて、これ以上、人間の言葉の侵入に耐えることはできないからだそうです。このようにエリフが語る言葉を非常に高く評価する人がいる一方で、こんなつまらない議論は相手にする必要はないという人もいるのです。そこで私は、どちらが正しいのかと思って読んでみると、日本語の訳文でも意味が取りにくく、素晴らしい言葉があるかと思えば、これはひどいと思われる言葉も混在し
ているようで、どう考えたらよいかわからなくなってしまいました。…よく言われるように、一つの文章、一つの出来事であっても、右から見るのと左から見るのとでは全く別な眺めになります。エリフの語ることを素晴らしいと思って読めば素晴らしく、つまらないと思って読めばつまらなくなるのですが、もちろんこんなことではだめなので、私は一切の思い込みを排し、ただ神の霊が照らして下さることを願い求めて、これを説き明かしたいと願っています。また皆さんにも、ご自分の目で判断して頂きたいと思っています。 そこで1節から見ると、「さてヨブよ」という呼びかけによって始まっています。このように名前をあげて呼びかけることは、3人の友人はしておりません。みんなヨブに対して「あなたは」という言い方をしているのに、エリフだけは何度もヨブの名前をあげているのです。学者は、相手の名前をあげて呼びかけるのは、目上の者から目下の者に対してなされると言っています。…私たちはヨブと友人たちがみな年を取っていて、エリフだけが若者だと考えてきました。そうすると、若者のエリフが年上のヨブに向かって、目上の者から目下の者に対する言い方をしていることになります。これは、単にエリフが生意気な若者だったということではありません。エリフは2節で「見よ、わたしは口を開き、舌は口の中で動き始める」と言っていますが、彼は自分の口を開いて語らせるのは神の霊であると思っていました。それは4節で「神の霊がわたしを造り」と言っていることからもわかります。エリフは自分を神の霊につき動かされて語る者、権威ある者、預言者だと考えていたので、ヨブを見下ろすような言い方になったのです。…ただ先週もお話ししましたように、エリフが本当に神の霊につき動かされて語った者と言えるかどうかは、相当慎重に考えなくてはなりません。5節の「答えられるなら、答えてみよ。備えをして、わたしの前に立て」もずいぶん居丈高な言葉です。もっとも、その直後に「神の前では、わたしもあなたと同じように土から取られたひとかけらのものにすぎない」とか「あなたを押さえつけようとしているのではない」と言ってますね。エリフはここで急に腰を低くしていますが、皆さんはこのように態度を変える人を信じることが出来ますか。たとえば何かのことで、皆さんを厳しく責めたてている人が、途中で急に謙遜になって、言葉が穏やかになった場合、それを信じて良いものでしょうか。態度を変えるというのはその人の作戦かもしれず、うっかりそれを信じようものなら泣きを見ることが考えられます。もちろん、その人を信じて良かったということもありますが。…私は、5節から7節までのエリフの言葉は信じることが出来ません。ヨブを一方的に裁く言葉、愛の感じられない言葉に思えるのです。エリフは続けて、彼がヨブの過ちと判断したことを指摘します。
エリフが見たところ、ヨブは自分が潔白で、罪を犯していないにもかかわらず、神は自分に対して不満を見いだし、自分を敵視される、と言っている、そこに過ちがあるのだと言うのです。たしかに、ヨブの苦しみがたとえいかに大きく、同情に値するものであったとしても、それでも神の前に正しい人はだれ一人としておりません。なぜなら、「神は人間よりも強くいます」からです。「神が人間よりも強くいます」ということは当然のことで、ヨブとしても反対するいわれはありません。ただヨブは、エリフに対しそのことを、ただこういう風に決まっているということではなく、彼の心に届くかたちで言ってほしかったと思うのです。エリフがヨブの苦しみに心を寄せてその言葉を発しているとはどうも思えないのです。神が人間より強いということは、神は人間より正しく、偉大であるということでもあります。だから神のなさることを批判して、神より自分の方が正しいなどと主張すべきでないということでは、エリフは3人の友人と共通しています。ただ彼は13節で新しいことを言っています。神はそのなさることをいちいち説明されないということです。エリフはこの言葉を通して、ヨブにあんまり急いで結論を求めるなと言っているのでしょう。もっともエリフは、神のなさることが人間には全く見えないことだとは言っておりません。14節、「神は一つのことによって語られ、また、二つのことによって語られる」、エリフはここで何を言っているのでしょうか。第一が、神は夢の中、夜の幻の中でみこころを語られるということです。古代ではそのような考え方は普通でした。聖書でも、神はアブラハムやヤコブの夢の中に現れています。新約聖書でもヨセフに現われ、「心配しないでマリアを妻に迎え入れなさい」と言われたこともありました。ただ、エリフがこのような神の出現を語った時、ヨブの心は傷ついたと思います。ヨブは7章14節で「あなたは夢をもってわたしをおののかせ、幻をもって脅かされる」と言っているので、悪夢にも悩まされていたのでしょう。…私たちも時には悪夢を見ることがあると思うのですが、そのたびに、これは神のみこころだと思ってしまうと救いようがありません。…私たちはこの部分は無視して良いでしょう。エリフが、神がそのみこころが現わされる第二のこととして示したのが、苦痛です。「苦痛に責められて横たわる人がいる。骨のうずきは絶えることなく、命はパンをいとい…」といった言葉が、なぜここで出て来るのでしょうか。それは、エリフがただ事実を述べたものではなく、神がそのみこころを示す手段として掲げたものと読み取るのが正しいようです。14節で神がみこころを語られるのに複数の方法があるとされて、その一つが夜の夢の中で語られることであるとするなら、もう一つが苦痛であると解釈すれば、文章がうまくつながり
ます。聖書は本当に難しいですね。さて、ここで注意したいことがあります。エリフにとって、苦痛とは神の罰とは違うのです。それまでヨブの友人たちは、ヨブの苦しみは彼の犯した恐ろしい罪に対する神の罰だと言っていたのですが、エリフはそこまでは言っていないと考えられます。では、それは何なのか、神のなさりようをエリフは36章8節以下でこう述べています。「捕らわれの身となって足枷をはめられ、苦悩の縄に縛られている人があれば、その行いを指摘し、その罪の重さを指し示される。その耳を開いて戒め、悪い行いを改めるように諭される。もし、これに耳を傾けて従うなら、彼らはその日々を幸いのうちに、としつきを恵みのうちに全うすることができる。」エリフとヨブの友人たちとの違いは、エリフが神の教育的配慮を強調したことにあります。…たとえば不規則な生活をしていた人が病気にかかれば、反省して、これからはきちんと規則正しく生活しようということになるでしょう。苦しみには人を反省させ、より良い生活へと向かわせる効果があります。それを考えなさい、とエリフは言っているようです。もっとも、そのようなことが苦しみの中にある人の慰めになるかどうかは別の話です。それは誰でもわかることで、苦しみ泣いている人に、それは神様の教育的配慮なのですと言っても、はねつけられるのがオチでしょう。本当に苦しんでいる人の慰めになるためには、高いところから見下ろすのではなく、その人と同じ目の高さになって、寄り添う気持ちがなければなりませんが、エリフがそうなっていたとは思えないのです。…ただ彼の言葉は、3人の友人ほどヨブを傷つけるものとはならなかったはずです。さて、きょうのところで最大の問題になるのが23節以降の、御使いに関する言葉です。「千人に一人でもこの人のために執り成し、その正しさを示すために遣わされる御使いがあり、彼を憐れんで『この人を免除し、滅亡に落とさないでください。
代償を見つけて来ました』と言ってくれるなら…」、…私はこれまで、エリフをうさんくさい人物として語ってきたのですが、こういう言葉を見ると、この人はもしかしたら本当の預言者ではないかという気もしてきました。だから、わからなくなるのですが、エリフが教えているところをまとめてみましょう。神様は苦しみを通してヨブに何かを教え、悟らせようとしている、それがエリフの考えです。そうすると、苦しみの目的は人を滅ぼすことにあるのではありません。それによって人を教育し、成長させることが目的なのです。それなら、どんなに厳しい苦しみの中にも希望があるはずだ、とエリフは語るのです。エリフは、ヨブをこの苦しみから救うのは御使いであり、神のみ前で、「この人を免除し、滅亡に落とさないでください。代償を見つけて来ました」と言ってくれる存在だと言うのです。それは神と人間との間を執り成す方、仲保者です。この仲保者に出会い、その助けを受けるならば、その人間は神様に正しいと認められます。滅亡から救い出されます。エリフが、いったいどこから御使いのことを持って来たのかはわかりませんが、ここで御使いについて語られていることは、イエス・キリストの出来事を思わせることです。ここで御使いは人間を救うために代償を見つけてきますが、主イエスこそ代償そのものになられた方だからです。私たちはここでも教えられます。神と人間の間をつなぐ存在がなければならない、そのような方なしに、神と人間が共に生きることはないのだと。29節は神は、人間のために二度でも三度でも、その魂を滅亡から呼び戻すと言います。まことにその通りです。神はイスラエルの民を二度、三度、いやそれ以上にわたって滅亡の淵から救い出されましたが、同じ神が私たちに対しても忍耐に忍耐を重ねて、滅亡の淵から救い出す働きをなされているのです。だから私たちも苦しみに陥る時、まずはそこから神が私たちに向けた教育的配慮を読み取ってゆくことがなければなりません。28節の「わたしは命を得て光を仰ぐ」、これは決して気休めの言葉ではありません。神と敵対していた状態から、仲保者を通して神と和解し、神との間で平和を勝ち取る人々への約束の言葉なのです。
(祈り)恵みと愛に満てる天の父なる神様。9月最後の日曜日、私たちをここに呼び集めて耳と心を開き、難しい聖書の言葉をこの胸に届けて下さったことを感謝申し上げます。神様、人間の人生は苦しみばかり多いように思われます。もちろん楽しい時もあるわけですが、それはあまりに早く過ぎ去って行き、あとに残るのは年ばかり取って、自分はその間いったい何をしたのかという思いです。記憶から消してしまいたい過去に悩む人も少なくありません。こうして、人生とは何かなにもわからないままに時間が来たからと死んで行かなければならないとしたら、むなしさばかりが残るのをどうすることも出来ません。しかし神様は楽しい時ばかりでなく、苦しみの中にも喜びと希望を与えて下さいました。これはいまだ神様に出会ったことのない人には考えられないことだと思います。目を上げて神様を見ることによってそれが与えられます。死によっても断ち切られない確かな人生のよりどころが与えられます。このことを感謝しつつ、私たちの前に押し寄せて来る人生の荒波に笑って立ち向かうことが出来ますように願います。神様、この喜びと希望を世に示すのが教会です。先週、神様は日本キリスト教会の信徒大会を開いて、新たな信仰の確信を与えて下さいました。どうか、そこで得たことを全国の教会と共に広島長束教会でも分かち合い、広げて行くことが出来ますよう、お導き下さい。主イエス・キリストのみ名によって、この祈りをおささげします。アーメン。